怒りのラプソディア
誰かに対して怒ってみたい――。
こんなことを思う人は、なかなかいないと思う。
何かのきっかけで思わず頭に血が上る。のっぴきならない事情があって怒りたくとも怒れない――こんな人ならいくらでもいるだろう。
でも、今ボクが抱いている感情はそのどちらでもなかった。頭に血が上るきっかけも最近ないし、怒れない事情も特にない。でも、ただただ単純に怒ってみたかったのだ。たぶん、好奇心からくる欲望だ。
他人に対して怒りをぶつけると、どのような気持ちになるのだろうか。怒りや憎しみを体内に蓄積させずに放出したら、どれほど爽快な気分になるのだろうか。要するに、悶々としていた。いや、というよりはワクワクしていた。
ボクは今、電車に体を揺られている。今日は日曜日で、学校は休みだった。なぜ、一人で電車に乗っているのかというと、映画館か水族館か幽霊館に行かないかと友達に誘われたからだ。どうして、行く場所の候補が全て〝館〟で終わるものばかりなのだと訊くと、「なんかロマンを感じるから」と、全くもって理解不能な返答をされたので呆気にとられてしまった。映画館も水族館も行きたい気分ではなかったので、幽霊館にしようと言った。
ところで、幽霊館とは大体予想はつくと思うが、お化け屋敷のことである。たかが、お化け屋敷のために電車で遠いところまで行くのかと不思議がられるだろう。でも、ただのお化け屋敷ではない。今、テレビで話題の〝最恐〟なお化け屋敷である。実は、放火による火事で六人の命が奪われた鉄筋五階建てのビルを改築して建てられたお化け屋敷なのだ。
もちろん不謹慎だとマスコミや周辺住民、そして遺族から非難を浴びた。ところが、企画は結局のところ進み、完成するやいなや次第に口コミで人気に火がついていった。痛烈に非難していたマスコミも、テレビで紹介せざるを得ない程の人気ぶりとなってしまったのである。
その〝最恐〟なお化け屋敷のある街を目指す電車は、少し混雑している。ベビーカーに乗せられているような赤ん坊から、杖を持っている老人まで多種多様な人が乗車していた。これだけの数がいると、やはりヘンテコな人もいるだろう。ヘンテコとは決して、奇妙奇天烈という意味だけで言っているのではない。例えば、好い歳こいてマナー知らずな人が結構いるのだ。
大声で談笑する中年以上のオバさんたち。老人に席を譲らない若者。鼓膜破れないですかと、思わず心配してしまう程の音量で音楽を聴く女子高生。携帯電話をマナーモードにせず、挙句の果てには通話を大声で始める人――。こんな人たちのマナー知らずな行動を見れば、頭に血を上らせるのは容易い。
無垢な子供が車内を走り回ったり、靴を椅子に乗せたりするのはまだ許せる。どでかい鼾をかいて、よだれを垂らすサラリーマンも無意識だから仕方がない。ちなみに、吊革で懸垂を始めるような奇妙奇天烈な中年男性もまあ許せる。だが、そうでない人は本当にマナーを守ってくれと言いたい。
電車の中というのは、他人に対して怒りをぶつけることのできる絶好の場と言えるのかもしれない。マナーを守っていない人は一つの車両につき、必ず一人はいるのではないだろうか。
ボクは決心した。何かきっかけを探して、他人に怒ってみようと決意を固めた。しかも、これは周りの人の役に立つことなんだ。もし、ここで勇気を振り絞ってマナー知らずな奴を怒れば、ボクは一躍ヒーローになれる。ヒーローになれるという憧れもボクの気持ちに拍車をかけた。
早速、ボクは辺りを見回してみた。どこかにマナーの悪い人はいないかと探してみた。ところが、それらしき人が見つからない。今、ボクがいる車両は平和だった。こんなこともあるのかと半ば驚いたが、どれだけ目を皿にしても悪者は見当たらない。じゃあ、ステージを変えよう。そしたら、見つかるはずだ。てなわけで、ボクは別の車両に乗り移ることにした。
より運転席に近いほうの車両に移ると、談笑する大きな声がいきなり耳に飛び込んできた。
遂にこの時がやってきた。というよりは、案外早かった。女子高生らしき甲高い声と老人のしわがれた声が響いている。
その声のするほうへ足を進めて見てみると、やはり女子高生と老人が会話していた。女子高生は吊革を持ちながら立っており、老人はレトロな雰囲気のある座席に深く腰掛けている。ボクは、窓の外の景色を眺めるふりをして、しばらくその二人の会話に耳を傾けることにした。
「そうなんですぅ、清水寺って坂上田村麻呂と関係あるんですよ」
女子高生はいわゆる、〝歴女〟なのだろう。清水寺は京都にあるとても有名な観光地だが、その歴史を知っている人はあまりいない。ボクも歴史マニアの社会教師に最近教えられて、偶然知っていた。
老人は、へえ、と頷くのだろうと思った。感心した表情をするのだろうと想像していた。ところが、ボクの想像は見事に裏切られる。老人はなぜか怪訝な顔をして、首を傾げたのだ。そして、大きな声で言った。
「えっ?」
ボクは思わず、老人の顔をハッと見てしまいそうになった。
あり得ない。いくら耳が遠いとはいえ、あの至近距離であんなにも大きな声を女子高生が出したのに……。女子高生は少し顔をしかめ、さらに語気を強めて繰り返した。
「だから、清水寺は坂上田村麻呂と縁が深いんですぅ」
すると、老人はようやく合点がいったようで、
「おお」
と、答えた。女子高生はホッとしたように笑みを浮かべた。可哀そうに、耳の遠い老人に絡まれたらかなり面倒くさいだろうな。まあ、こんなことを言っては失礼極まりない。ボクは心のなかで反省した。
「ねえやんは、いっあおおあうの?」
またもやボクは、老人のほうをハッと向いてしまいそうになった。今、老人が喋ったのはどこの国の言葉だろうか。いや、どこか違う星の言葉かもしれない。残念ながら、ボクにはリスニングできなかった。今の老人の言葉がもしもリスニングの試験で出題されたら、確実にゼロ点だ。案の定、女子高生も訝しげな顔で老人の顔を覗き込んだ。
「えっ? もう一度言ってください」
少し躊躇した女子高生の声が小さくなり、またもや老人が、
「えっ?」
と、半ば叫ぶようにして言った。すると、また女子高生が大きな声で繰り返した。
「だから、もう一度言ってください」
「ねえやんは、いっあおおあうの?」
「えっ?」
ボクの肩が次第に震えだした。腹筋にもかなりの負荷がかかっている。
なんて面白い会話なのだろう。まさに、「えっ?」の応酬だった。よく清水寺という単語が出てくるまで会話が進んだものだ。老人の耳が遠いというのは明らかだが、恐らく入れ歯を付けるのを忘れているのだ。前歯がないので発音しにくいに違いない。
この面白い会話に横槍を入れるなんて勿体ない。きっと、周りの人も楽しんでいる。しかも、この人たちを悪者扱いするのはなんだか癪だ。ボクは他に悪者がいないか再び探し始めた。
老人と女子高生のいる車両には悪者らしき人がいなかったので、その隣の車両に移った。
次の車両は、妙に人が少なかった。座席も何席か空いていて、休日の電車としては異様な光景だ。子連れの夫婦もいないし、ボクと同い年ぐらいの学生もいなかった。いるとすれば、まるでホームレスのような格好をした高齢の男性数人と大学生ぐらいのカップル、そして中年のオバさん数人だ。
ここは問題なさそうだなと心の中で呟きながら次の車両へと足を進めていると、徐々に奇怪な音が聞こえ始める。足を進めれば進めるほど音は大きくなり、どんな音なのかはっきりと分かるぐらいの距離にまで到達した。
激しくドラムを叩く音や、耳を劈かんばかりのエレキギターの音に加え、若い男の人の奇声が聞こえる。この音楽のジャンルは恐らく、ロックかパンクなのだろう。ボクは音がするほうへ、意味はないが足音を忍ばせて近寄って行った。すると、前方に見える座席の背もたれから整髪料で跳ねた髪が飛び出ているように見えた。どうやら、トゲトゲ頭のようだ。しかも、その髪の毛は丁寧に青色に染められていた。耳には大きなヘッドホンが装着されている。音源は間違いなくあのヘッドホンだ。
青い髪の毛とはなんと恐ろしい。いや、でもここは勇気を振り絞って怒らなければならない。この車両に人が少ないのも、きっとあの人のせいだ。周りの人に迷惑をかけている悪者なのだ。ボクはあの人を懲らしめて、この車両に平和をもたらすヒーローになるんだ。
激しい胸の鼓動を堪え、震える手で青髪の男の肩に手を置いた。
「あの――」
男はゆるりと頭を回す。肩や腰を動かさず九十度ほど回した。そして、怒りのこもった低音ボイスを発した。
「あぁ?」
男の顔を目の当たりにして、ボクは思わず気絶しそうになった。胃酸を含む泡が、喉にまで達したところでボクは頭を下げ、泡が口から出ないよう口元を押さえながらその車両をあとにした。
あの男の恐ろしい顔は、たぶん未来永劫トラウマとして脳裏に焼きつけられることだろう。
眉間に深く皺を寄せ、目は獲物を狙う鷹のようだった。しかし、それだけではない。
一般的にピアスというのは、耳につけるものではないだろうか。それなのに、あの男は顔全体にピアスがついていたではないか。鼻や唇、そして舌にまでピアスがついていた。鼻には輪っかのようなピアスが付けられていて、まるで牛のようだった。
あれは、人間ではない。人間とは似て非なるエイリアンだ。ボクは、悪い〝人間〟と戦うヒーローになりたいのであって、決してエイリアンと戦うようなヒーローにはなりたくはない。
とはいえ、結局は何も出来ないまま電車は目的地に着いたようだ。まあ別に電車の中じゃなくても良いかと、簡単にいま諦めてしまっているのは、やはり顔面ピアス男の恐怖によるものだった。
プシューという音と共に扉が開く。駅のホームは、歩く人たちの足音や喧騒で充ち溢れていた。改札に通じる階段の前で、ガムを踏んだことに苛立った中年の小太りなオジさんが、なぜか駅員さんに怒っている。滑稽な場面だったが、やはり羨ましくもあった。まあ、駅員さんにとってはハタ迷惑だろう。ガムを捨てた人、もしくはガムを掃除しなかった清掃員に責任があるのだから――。
駅の改札の前にある噴水広場で、憲吾は待っていた。噴水の縁に腰掛け、何やら街の案内書のようなものを読んでいる。
「ごめん、待った?」
ボクの快活な声に反応した憲吾は、綻ばせた顔をあげてムクリと立ち上がる。
「よう、思ってたよりも早かったな」
「あれ、意外だね。少しでも待たせたらいつも怒るのに」
「そうか? でも、全然待ったって気はしないんだけどな……」
「それって街の案内書かい?」
憲吾は手に持っていたスーパーのチラシみたいなものを、ボクのほうに差し出した。
「案内書ってか、ただのマップだよ。有名なのはやっぱり幽霊館だけど、他にもかなり楽しそうな場所はあるみたい」
「ふーん」
ボクは街のマップをペラペラとめくり、幽霊館の場所を確認した。
場所を示す周辺の地図だけではなくその外観も写真で掲載されているが、やはり不気味である。コンクリートの外壁が、火事の影響で黒ずんでいるのは特に恐怖心を煽った。そもそも、廃ビルなんて日頃あまり見ることはない。親近感があまり湧かず、慣れない建物で戦慄を味わうのが余計に恐怖である。そして、いかにもお化け屋敷専用に作られた建物ではなく、実際に使われていた建物の廃墟というのがリアリティを増長させている。
「ところで、チュウ太って幽霊とか大丈夫なのか?」
ボクは首を捻った。
「うーん、大丈夫といえば大丈夫だけど――実際に体験してみないことには何とも言えないかな」
すると憲吾は苦笑いを浮かべ、吃りながら答える。
「そ、そうか。まあ、俺もだ、大丈夫だけどな」
大丈夫ではないなとボクは確信した。ボクも多少は見栄を張って「大丈夫」と言ったが、憲吾ほどは狼狽していないだろう。憲吾の焦りかたは尋常ではなかった。額には汗が光っている。
しばしの沈黙の後、憲吾がボクの手から案内マップをひったくるようにして取り上げ、徐に口を開いた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「そうだね。心の準備できてるかい?」
「それは着いてから言うセリフだろ」
「まだ早かったか――」
幽霊館の入り口には、黒山のような人だかりができていた。中学生から二十代ぐらいの若年層が大半を占めている。中に入れるのはまだかと言わんばかりに、入口のほうを背伸びして見る人もいれば、男のくせに恐怖で引きつった表情をしながら、自分の女の腕を握りしめている人もいた。
幽霊館は入り口が正面にあり、出口は裏口だった。つまり、出口から出てくる人の表情やリアクションを知ることができないのだ。何故なのか分からないが、これが意外と恐怖をより煽るものとなった。しかし、建物の中からは男の怒号のような叫び声や女の金切り声が何度も聞こえてくる。あの闇の先には一体何が待ち受けているのだろうか。
「お前、恐がってるな?」
突然、背後から憲吾の声がした。
「別に、恐がってないよ」
「じゃあそうだな、中に入ったら一度も声をあげないって約束できるか? 声あげたら五百円だぞ」
「良いよ。そっちこそ声あげたら五百円だからな」
「お、おう。分かったよ」
憲吾は神妙な面持ちで頷いた。
遂に、自分たちが中に入る出番がやってきた。スーツを着て、特殊メイクでゾンビの顔になった人が重そうな鉄製の扉を開く。刹那、異常な冷気が体中を包んだ。空調とドライアイスによる演出だ。
「わあああ!」憲吾がいきなり大きな声を出した。「なんだ、ドライアイスか」
「はい、明日までに五百円ね」
「今のなし」
「ダメ」
憲吾は悄気た顔をしながら俯いた。後ろから、笑い声が聞こえる。待ってる人たちが、憲吾のいきなりのナイスリアクションに笑っているようだ。立ち止まる僕たちに、スーツ姿のゾンビが小さな声で言った。
「あの、早く進んでくださいね」
ボクと憲吾は声を揃えて、「はい」と答えた。
扉が閉められると、使い方はおかしいが、まさに一寸先は闇の中だった。何も見えない真っ暗闇な状態だ。しばらく前に進むと、フロントが見えた。小さな緑色の光で何かが照らされていることに気付き、近寄って見ると、
『右に見える階段を上れ』
と、赤い文字で書かれてある紙切れがあった。指示通り、ボクと憲吾は階段を上った。
コツコツという二人の足音が空間に響きわたる。何の音もなくて暗い空間はこれほどまでに恐ろしいのか。すると、女の人の悲鳴が聞こえた。他のお客さんだろう。案外、近い場所で悲鳴をあげているようだ。もうすぐ、あのような悲鳴を上げなければならないほどの恐怖が自分にも襲いかかるはずだ。
階段を上り終えると、広めのオフィスがあった。焼けただれた机や椅子、そして焼け焦げた資料はそのまま残っている。そのオフィスの真ん中のほうに、またもや緑色の光が見えた。すると、憲吾が声をひそめて言った。
「おい、あれ人じゃないか?」
「え?」ボクは思わず、目を凝らして憲吾の指差すほうを見た。
確かに、緑色に照らされた机に人が寝そべっているような気がする。
「なあチュウ太……先、行ってくれよ」
「いや、ここはジャンケンだ」
憲吾は嫌そうに手を出したが、暗くて相手の手を良く目視することができない。
「何も見えねえじゃん」半泣き顔で憲吾がぼそぼそと口を動かした。
「仕方ない、じゃあ先行くよ」
ボクは恐る恐る、近づいて行った。すると、人の姿が徐々に露わになっていく。やはり、あれは人だ。間違いない。きっと、ある一定の距離まで近づいたらバッと飛び起きてボクを驚かすんだ。絶対そうだ。
足がまるで携帯電話のバイブレーションのように小刻みに震えている。恐い、恐過ぎる。襲ってくると分かっていて、なぜわざわざ近寄らなくてはならないのだろう。心臓が飛び出んばかりに暴れている。気持ちが悪い、吐きそうだ。
お化けとの距離が遂に二メートル程になった。さあ、そろそろ飛び起きるぞ。よーし、心の準備は万端だ。
――ドン!
刹那、ボクの背中に衝撃が走った。前のめりに転びそうになったが、なんとか踏ん張った。頭の中で何かが弾け、体が熱くなる。ドッと汗が噴き出した。そして、ボクは怒りの雄たけびをあげた。
「く、くだらねえことするんじゃねえよ!」
憲吾は怯えた表情を見せる。だが、ボクの怒り狂った顔を見てはいなかった。ボクの背後を、唖然とした顔で凝視しながら静止していた。ボクは思わず後ろを振り返る。
「ぎやぁぁぁ!」
目覚めると、自分の寝室の天井が目に入った。ボクは半ば無意識に、
「夢でよかった」
と、呟いた。
あんなのがいるお化け屋敷は二度と行きたくない。顔が黒焦げに焼けただれ、両目とも欠損していた。頬骨と頭蓋骨は殆どむき出し。あり得ないほど、グロテスクなお化けだ。正直、電車の中で遭遇した青髪の人よりも恐かった。完全に悪夢だ。
いや、あながち悪夢とは言えないかもしれない。だって、夢の中ではあるけどボクは人に対して怒ることが出来たんだ。自分の怒りを胸に鬱積させずに発散出来たんだ。それがなによりも嬉しかった。爽快な気分を味わうことが出来た。そう考えると良い夢だったかもしれない。所詮は夢だが、べつにかまわない。リアルな模擬演習ができたんだとポジティブに考えよう。
……ボクってホントに情けねえな。≪完≫
『チュウ太の喜怒哀楽』の第二編です!!
第三編は、『哀しみのララバイ』(予定)を公開します。公開日は未定です(^_^;)