後
やがて春が過ぎ、初夏の熱が平原を包み始めていた。
ラドナ川は雪代を終え、緩やかな流れを取り戻している。川面には薄い光が踊り、岸辺の草が風に揺れた。戦から戻った男たちは、再び鍬を取り、畑を耕していた。けれども、その手の皮膚には、もう労働の豆だけではなく、鉄と血の痕が刻まれていた。
テイモスは、村の外れの畑で麦の束を干していた。
戦で負った傷はすでに癒えていたが、時折、風が吹くたびに背に鈍い痛みが走る。その痛みが、あの夜を思い出させた。エルミナの湖畔、煙と血の匂い、ペイロンの叫び、そして沈黙。
村へ戻ると、誰もが彼らを英雄と呼んだ。だが、その言葉の温かさは、どこか現実離れしていた。英雄という名は、血の色を知らない者が口にするものだと、彼は思った。
ペイロンは生き延びたが、村に帰った後、腐りかけの片腕を切り落とした。
今は村の見張り台に立ち、夜ごと火を絶やさぬ役目を負っている。夕刻になると、彼の影が赤い空を背にゆらめき、まるで燃える松明のように見えた。
「お前も来いよ、テイモス」
ある晩、ペイロンが声をかけた。
「都から使いが来た。戦で名を上げた者を集めるんだとさ。西の丘の向こうに、新しい城と町を築くんだ。『第二の都』ってやつをな」
「……その腕で行くつもりか」
「もちろん。大事なのは体じゃない、心だ」
テイモスは黙って火を見ていた。
灰の中に小さな炭が残り、それが風に吹かれて赤く光った。
「俺たちは城を建てるのか。それともまた戦へ行かされるのか」
「どっちにしたって、同じことさ」
ペイロンは笑い、片方の肩をすくめた。
「俺たちはいつも、誰かの旗の下で土を掘るんだろう。城でも、墓でもな」
その言葉にテイモスはわずかに笑ったが、胸の奥で何かが沈んだ。
風が川の方から吹き、湿った匂いを運んできた。初夏のその風には、とっくに冬の気配はなかった。だが同時に、なぜか、彼の心には冷たいものが流れ込んでくるようだった。
数日後、彼は都へ向かう隊に加わった。土埃を上げながら、男たちは平原を進む。ラドナ川が右手に見え、遠くでは牛の群れが点のように動いている。
やがて、赤石を積み上げた壁と、白い旗の立つ塔が見えた。それがセレナだった。初めて見る都の光景に、テイモスは思わず息を呑んだ。広場には商人が並び、香草と茶の香りが風に満ちている。鍛冶場では鉄槌の音が響き、若い兵士たちが槍を掲げて行進していた。
その中に、彼の知らない顔があった。都の兵士たちは、磨かれた胸当てをまとい、陽光を反射させながら誇らしげに歩いている。彼らの眼差しには、土まみれの村の兵とは違う色があった。
指図を出す者が通り過ぎるたび、彼らは胸を張り、声をそろえて敬礼した。
――同じ国の兵なのに、どうしてこんなにも遠いのか。
テイモスはそう思い、背筋にかすかな寒気を覚えた。
新たな任地は、西の湖のほとり、アレクシアと呼ばれる地だ。そこはまだ木々が残り、湖の水面に雲が映る静かな場所だった。
だが、斥候が告げるところによると、北の丘陵にはまた新たな蛮族の群れが現れたという。「城を築く」と言われていたはずが、結局、彼らの手はまた武器を取ることになった。
夏の盛り、湖畔に陣が築かれた。いつも通りに杭を打ち、木を伐り、石を積む。日差しが眩しく、汗が目にしみた。夜には遠くで狼の遠吠えが聞こえ、火の粉が風に舞った。湖面には星が映り、それを見つめると、まるで天と地が一つになったように感じられた。
その頃から、テイモスの夢に川の音が戻ってきた。あの春の朝の流れ、父の声、母の祈り。だが夢の中で川は次第に濁り、音は重く沈みはじめた。彼は夜中に何度も目を覚まし、暗闇の中で呼吸を整えた。外では風が唸り、湖面がかすかに波立っている。まるで何かが近づいてくるような音だった。
やがて、それは現実となった。
夜半、警鐘がけたたましく鳴り響いた。北の丘陵から炎の列が下りてくる。蛮族の群れだった。見張りの兵が矢を放ち、角笛が鳴る。
テイモスは跳ね起き、槍を手に取った。ペイロンも片腕で盾を抱え、隣に立った。
「やっぱり、城より墓の方が早いか」
ペイロンが乾いた声で笑った。
「生きて帰れよ、テイモス」
「……お前こそ」
戦いは夜を貫いた。火の粉が舞い、矢が闇を裂き、叫び声が絶えなかった。
テイモスは槍を振るい、盾を押し返した。足元には血と泥、倒れた味方の影。月が雲間に覗き、彼の頬に冷たい光を落とした。
ふと、視界の隅でペイロンの姿が揺れた。敵の刃が閃き、彼の身体が崩れ落ちる。叫びを上げようとしたが、喉が乾いて声が出なかった。
次の瞬間、背後から衝撃が走った。
胸の奥に熱が広がり、膝が崩れる。
世界が遠ざかる。
耳の奥では、再び川の音が響いていた。
――ラドナ。
その名を心の中で呼んだ瞬間、光が弾けた。
朝になって、戦は終わっていた。蛮族は退き、陣の周囲には煙が立ち上っていた。倒れた兵の中から、彼の姿を見つけた者があった。
テイモスは湖の岸に横たわっていた。胸の傷は深く、すでに息はなかった。彼の手は、まるで何かを掴もうとするように、地面を握りしめていた。その指の間には、濡れた土と小さな草の根が絡んでいた。
葬りの儀のあと、兵たちは湖畔に小さな塚を築いた。名を刻む石はなかった。ただ、丘の上に立つ一本の槍が風を受けていた。その風が湖を渡り、やがて川へ、そして海へと続いていった。誰も知らぬところで、その流れが再び大地を潤していた。
こうして、無名の兵の命は消えた。ラドナ川の流れは、その名を呑み込み、静かに北の海へと帰っていった。
夏の風が野を渡り、麦が波のように揺れた。
新しい時代が、音もなく始まろうとしていた。




