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 春の兆しが、大地の裂け目から滲み出すように訪れた。


 ラドナ川の上流では氷の膜が薄く割れ、透きとおる音を立て、流れが再び目を覚ました。太陽がまだ淡い角度で照らす朝、平原では仄かな緑が、雪の間から朝露を輝かせる。川面は銀の帯となって蛇行し、岸辺に積もった砂をゆっくりと洗っていく。


 ある丘の上では、小石混じりの土を掘り返す人々の姿があった。粗末な鍬を振るう男たちの影が、霧に包まれた平原を横切っていく。


 テイモスもその中の一人だった。

 まだ二十にも満たぬ若者で、裸足に布を巻きつけただけの姿で土を踏みしめていた。雪解け水に濡れた大地は重く、鍬を入れるたびに泥が絡みつく。背を伸ばせば、彼方に山々の稜線が霞んで見えた。

 その向こうには、誰も知らぬ土地が果てしなく続いていると聞く。けれどもテイモスにとって、世界はこの川と畑、そして夜に灯る焚き火の輪がすべてだった。


「石をどけろ。そこは基礎になる」


 年長の男が声を上げた。

 石工たちは丸太の上に平たい岩を転がし、川の方向にずらしていく。水際に土嚢を積み、杭を打ち込む音が続いた。川の氾濫を防ぐための堤である。冬の終わりに必ず一度、ラドナは牙を剥く。そのたびに村が流され、畑が失われた。

 だからこそ人々は、今年こそ川を御すと信じて、石を積み上げていた。


 昼を過ぎると風が強くなった。川上の方から湿った香りが漂ってくる。テイモスは額の汗を拭いながら、隣で働く友のペイロンに声をかけた。


「今年は氾濫が遅いな」

「遅いときほど、でかいのが来る。じい様が言ってた」


 ペイロンは笑いながら泥を払った。


「まあ、せっかくの堤だ。流されても積み直せばいいさ。俺たちがいる限り、川は負けだ」

「結局はいたちごっこだけどな」


 テイモスは苦笑した。

 風に乗って茶の若芽の匂いが漂った。南方の丘では女たちが茶の葉を摘み、子供たちが歌をうたいながら走り回っている。その光景を遠く眺めながら、彼はふと手を止めた。


 ここに城を建てるのだと、誰かが言っていた。

 石を積む男たちはそれを信じ、働きながら夢を語る。川に名を与え、村に名前をつけ、人の住む場所を「国」と呼ぶのだと。同年代の仲間の多くは、ペイロンも含め、その物語に熱中していた。

 だがテイモスにとって、それはまだ霧の中の話だった。遠くの山はまだ、自分の属する「国」のものではないらしい。しかし、自分が今立っている大地と、あの荒々しい岩肌とでは、一体何が違うのか分からなかった。彼にとっての世界は、飢えと寒さを凌ぐこと。それ以上でも、それ以下でもなかった。


 夕刻、作業が終わる頃になって、川の上流から声が上がった。

 斥候の一人が帰還し、泥まみれのまま報告をしている。


「西の森で火を見た! 奴らがいる!」


 ざわめきが広がる。「奴ら」、それは蛮族の群れだった。昨冬に西から流れてきて、村を焼き、家畜を奪った者たち。

 男たちが手を止め、互いの顔を見合った。空は灰色に沈み、遠くの地平線には黒い鳥が群れていた。


 テイモスは知らず拳を握りしめていた。彼の家も、去年の襲撃で焼かれている。父はそのときに死んだ。

 それでも彼は村に残り、母と妹を養うため、石を運び、畑を耕してきた。もしまた戦が来るなら、自分も行かねばならない。その覚悟を胸に、彼は川面を見つめた。


 ラドナの流れは、沈黙のうちに暮れなずんでいく。夕陽を映した水面が紅く染まり、ゆっくりと岸を舐めるように波打っていた。風に乗って砂糖の甘い香りが漂い、遠くで子供の笑い声がした。そのすべてが、どこか遠い日の夢のように思えた。


 夜、茅葺き屋根の下、焚き火の傍で母が祈りの言葉を唱える。


「川よ、今年はどうか穏やかに」


 テイモスはその声を聞きながら、寝床の草の上で目を閉じた。耳の奥では、まだ川の音が響いている。それはまるで、何かが始まろうとする胎動のようであった。


 翌朝、霧がまだ平原を覆っているうちに、村の広場へ呼び声が響いた。

 武具と呼ぶにはあまりに貧しい、木の盾と鉄片を打ち付けただけの槍が配られる。皮の鎧を着る者は少なく、多くは布を巻いた胸にお守りを吊るしただけだった。

 集まった男たちは二十ほど。年寄りと少年とが半ばずつ。その列の中に、テイモスとペイロンの姿もあった。


「行くのは東だ。エルミナ湖だとさ」


 ペイロンが、握った槍の柄をいじりながら言った。


「蛮族が陣を張ったらしい。斥候が火を見たって。村の兵と、都の兵が合同で出るそうだ」


 都。


 その言葉に、テイモスはほんの少し背筋を伸ばした。

 セレナと呼ばれるその地名が、人々の口に昇るようになってまだ日が浅い。だが、そこに「王」がいて、旗が立ち、外の民と交易を結んでいるという。この地に「国」が建ち、「王」が生まれたのは自分が子供の頃のことだ。テイモスにとってそれは、遠い空の出来事のようでもあり、いま自分の手の届く現実のようにも思えた。


 母は黙って息子を見送った。その顔は微笑んでいるようで、唇を強く引き結んでいるようにも見えた。小さな布袋に干し肉を包み、妹がそれを抱えて走ってきた。


「兄ちゃん、これ、忘れないで」


 その声が風に消える頃、出立の角笛が鳴った。


 道はぬかるみ、足元の泥が重く絡んだ。列を成して進む男たちの足音は、いつしか一つの響きになり、朝の霧の中を抜けていった。

 丘を越えるたび、川の姿が遠のく。そしてやがて、森が見えた。エルミナ湖――鏡のような水面を抱く深い森。その岸辺に、黒い煙が立ちのぼっていた。

 斥候が戻り、低く報告する。


「敵は三十。見張りを二つ、焚き火を四つ」


 周囲に緊張が走る。年寄りの兵が震える手で槍を握り、若い者たちは息をひそめた。

 日が傾くと、風が湖の上を渡り、湿った空気が肌にまとわりついた。それは冬と春の境の匂いであり、血の匂いの予兆でもあった。


 夕暮れ、合図の角笛が短く鳴った。声を上げる者はいない。皆、唇を噛み、足音を殺して森へと踏み込んだ。落ち葉が湿り、足跡を吸い込んでいく。

 やがて、焚き火の光が瞳を包む。蛮族たちは酒を飲み、笑い、歌っていた。彼らの顔は、仄暗い空気の中でもはっきりと分かるくらいに赤らんでいた。その言葉は分からずとも、意味は伝わった。奪い、燃やし、殺した者の歌だ。


 突撃の合図がかかる。最初の矢が放たれ、火の粉が散った。森が叫び声に満ち、テイモスは無我夢中で前へ出た。足元の泥が跳ね、腕に鮮血がかかる。誰を斬ったのか分からない。ただ、倒れる音と息の音とが混じって、世界が真っ赤に染まった。ペイロンが隣で叫んだ。


「押せ! もう少しだ!」


 テイモスはその声の方を向きかけたが、視界に一瞬、閃きが走った。蛮族の棍棒が、ペイロンの肩を砕いていたのだ。倒れた彼の上に、さらに二人がのしかかる。テイモスは叫び、槍を突き立てた。その感触は、湿った木を刺したようだった。

 次の瞬間、背に矢が掠めた。熱が走り、血が噴いた。しかし痛みは遠く、ただ耳鳴りだけが世界を満たしていた。


 夜が来る頃、戦は終わっていた。蛮族の灯火は消され、湖面に煙が漂っている。倒れた者の上を冷風が渡っていく。

 ペイロンは息をしていた。だが、片腕が動いていないようだった。


「……やったな」


 彼は痛みを噛み殺すように笑い、血に濡れた手でテイモスの肩を叩いた。


「俺たちが、村を守ったんだ」


 テイモスはうなずいたが、その実感はなかった。


 湖はただ静かで、光もなく、空に星が滲んでいた。

 水際に立ち、彼は足元を見つめる。泥と血が混ざり、ゆっくりと波に溶けていく。湖はそれをすべて飲み込み、何事もなかったかのように闇を広げた。

 風の音が遠くで鳴った。それはまるで、川の声のようだった。


 夜明け前、撤収の命が出た。男たちは火を絶やし、同胞の遺体を湖畔に葬った。蛮族たちの死体は、魚へ餌を撒くように、湖の底をめがけて投げられた。

 二人は仲間を弔うための作業に加わった。かつての友を埋める穴を掘りながら、テイモスはふと思った。

 ――この土を掘る手で、昨日まで堤を築いていたのだ、と。


 空が白みはじめる。湖の面がわずかに揺れ、東の山影が赤く染まった。風に乗って水鳥が鳴き、春の匂いが漂う。

 テイモスは手を止め、空を見上げた。夜の名残が薄れゆく空に、彼は何を祈るでもなく、ただ立ち尽くしていた。


「国」と呼ばれるものの最初の戦いは、こうして終わった。その名を記す者も、歌う者もまだいない。ただ、湖の底に沈んだ石と骨とが、静かに時を刻んでいた。


 陽が昇る頃、男たちは帰途についた。

 テイモスは振り返らなかった。背中に感じた風の冷たさが、彼に一つの確信を与えていた。もうこの手は、ただ石を積み上げ、土を耕すだけの手ではないのだと。


 平原の向こうに春の光が広がっていった。ラドナの流れは遠く、見えない。だが、その淡い音だけが、彼の胸の奥で絶えず鳴っていた。

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