来世はどこか平和な国で、君のパンケーキが食べたい。
――パンケーキが食べたい。
ふかふか焼きたての生地に、たっぷりバターを塗って。
暇を持て余した彼女が時間をかけて煮込んだジャムを載せたアレが、無性に食べたい。
今の季節だと、ちょうど野イチゴが採れる。
森に入れば、籠いっぱいに集まるはずだ。
「雑用係ではないんだが?」とお決まりになった台詞を吐きつつ、なんだかんだで流されて一緒に仕分けをしながら、他愛もない話をしてジャムの下ごしらえをして。
彼女が鼻唄を歌いながらコトコト鍋を煮詰めるのを、ただ横で眺める時間は穏やかで好きだった。
もう二度と食べられないなら。
あの時、もう一枚食べておけばよかった。
本当は甘いものは好きではなかったけれど。
口に残るあの甘ったるいふわふわした食べ物も、彼女が作ったものなら美味しいと思えたのに。
あの日食べたパンケーキの味が、もう思い出せない。
◆◆◆
「パンケーキの作り方?」
同僚に尋ねると怪訝な顔をされた。
お前、甘いものは好きじゃないだろう、と。
そう顔にハッキリ書いてあったが、彼は律儀なやつなので次の日には嫁にレシピを教えてもらったと言って、紙切れを渡してくれた。
数日後。休みをとって、拍子抜けするほど簡単に書かれたレシピを頼りに、ひとりで材料を買った。
小麦粉、ベーキングパウダー、卵、砂糖、バター、牛乳、バニラエッセンス。
ジャムは作る気になれなかったから、小さな瓶にぎっしり詰められた真っ赤なベリーのジャムを買った。
そうやって意外と重くなった紙袋を抱えると、かつての職場に足を向ける。
森の中の一本道。
果てしなく続くように感じるその道を、一歩一歩進んでいけば一軒の家が見えてくる。
そこにあるのは、煉瓦造りの小さな家だ。
とても聖女と呼ばれる人間が住んでいたとは思えない質素でこじんまりした家は、主人を失ってもなおそこにあった。
「……変わらないな。何も」
ここに来る理由は、もうなかった。
こんなことをする意味もないことも分かっていた。
中を覗いたところで、この家に彼女はいない。
ただ。
彼女が作ったのと同じものが食べたいだけだった。
玄関の扉を叩いたところで、もちろん返事はない。
中に誰もいないことを確認して、管理人から預かった鍵で扉を開けると、カランカランとドアベルの音がした。
廊下の左にある、開けっぱなしの部屋。
扉の間音を聞いて、あそこからひょっこり顔を出すのが彼女の習慣だった。
今は廊下に差し込んだ光が、ぽっかりと空いた空間に浮いた粒子を照らして光っている。
管理人からは、たまに掃除をしていると聞いている。
空っぽになってから知った。街の人が持ってくる差し入れで溢れかえっていた廊下は、あれはあれでこの家には似合っていたらしい。
背中で扉が閉まる音を聞いて、いつの間にか止まった足をまた前に出した。
長居をするつもりはない。昼過ぎにはここを発つ。
あの左手の部屋には、キッチンとダイニングがある。
中に入ると、いつもクロスと花が飾られていたテーブルは、味気なく部屋に鎮座していた。
買ってきた荷物を置くと、窓を開けて空気を入れ替える。
朝早くに出発してここまで来たが、もう大分日は高い。
ジャムなんて煮ていたら、きっと帰る頃には日が暮れていたことだろう。
気を取り直すと、さっそくキッチンに回る。
道具を用意して、レシピを見ながら材料を計り、混ぜていく。
ボウルの中で生地が混ざりきると、フライパンを熱してバターをひいた。
じゅわぁと。油の弾ける音がして、焦がさないように火を加減すると、掬ったそれを丸く落とす。
ふつふつと生地に気泡が浮いたのを確認してひっくり返せば、綺麗に焼けたパンケーキの片面が顔を出した。
やってみると案外簡単で、最初の頃、彼女が失敗して真っ黒に焦がしていたのを思い出して笑えた。
「……作りすぎた」
生地がなくなるまで焼くと、パンケーキは小さな山になっていた。
一枚一枚を小さく作ったつもりはないのだが、それにしては量が多い気がする。
それで、気が付いた。
「…………ああ。二人分だったのか」
同僚が嫁になんと言ってレシピをもらったかは知らない。
が、おそらく、自分が甘いものを食べないことを知っている彼は、誰かに作るのだと思ったのだろう。
「………………」
食べきれなかった分のことは、後で考えることにする。
すでに最初のほうに焼いたものは、冷め始めていた。
置きっぱなしにされた食器を漁って、白い皿を見つける。
パンケーキを盛り付けるのは、この皿がお決まりだった。
焼いたばかりのパンケーキにバターとジャムを盛り付けると、ダイニングのテーブルに置く。
席に着くと、何か物足りない気がした。
きっと、テーブルクロスや花が足りないせいだと一人納得して、食事にする。
「……いただきます」
挨拶をしなくても、咎める者はもういないのに。
他に誰もいない部屋に、小さな声は消えていった。
フォークとナイフを握る。
初めて自分で作ったパンケーキを、口に入れた。
パンケーキはレシピ通りに作った。
見た目も出来も悪くない。
たぶん、彼女が作ってくれたあのパンケーキも、こんなふうに甘かった。ジャムも、生地も、甘かった。
――でも、違った。
これじゃない。
彼女が作ってくれたパンケーキは、こうじゃなかった。
「――――――ハハ……」
どうしようもなくて、笑えた。
こんなことをしても、死んでしまった彼女の作ったものなど二度と食べられる訳がない。
そうと分かっているのに、この家で彼女を真似て料理をしている自分が馬鹿らしかった。
それでも。
「忘れてなかった。忘れてなんて、なかった」
意味はあった。
それを確かめることができただけで、価値はあった。
「俺はあんたの作ったものなら、なんだって美味かったんだ。聖女」
だが――気がつくのが、あまりにも遅すぎた。
亡くしてから思い知る。
守っていたと思っていたあの人に、どれだけ守られていたのかを。彼女と過ごした時間が、どれだけ尊かったかを。
最後の最後まで、他人のためにしか生きられない彼女のあり方は、憎らしいほど強かで美しかった。
神の御技とも称された浄化魔法は、呑気でお人好しの彼女には似合わない重役を与えた。
魔障に侵された人間が助けを求めて訪ねてくるのをいつでも受け入れるために、この小さな家から離れなかった。
助けたい人がいるからと、何がなんでも彼女を連れ去ろうとする人間も少なくなかったのを、自分の痛みのように食いしばっていたのも知っていた。
結局、旅をして色んな場所で美味しいものを食べたいと言っていた願いもまともに叶えてやれずに、彼女は死んだ。
魔障を受け入れ続けた身体が限界を迎えて暴走するのを止めるために――俺が殺した。
フォークを握りしめ、自分で作ったパンケーキを口に押し込んだ。
もうここに用はない。
彼女を守れなかった自分が、これ以上、この家にいる資格はなかった。
すべてを元通りに片付けて、料理をするのに一度外した装備を締め直す。
そして、最後に。
彼女を貫いた剣を抜き、胸の前で構えて誓う。
――必ず、この手で終わらせると。
すべて遅いことは分かっていた。勝算がほとんどないことも。
そもそも、たったひとりの力でなんとかなるなら、この世に聖女なんて悪習は生まれなかった。
しかし、あいにく彼女以上に失いたくないものなんて、もう残っていなかった。このままのうのう、何事もなかったことにして生きるつもりはなかった。
剣を納めて、荷物を背負う。もう足を止める理由はない。
「――いってきます」
ここに帰ってこれるかは、分からないけれど。
いつか、必ず君のもとに帰るから。
また出会った時に、情けない顔をさらす訳にはいかないから。
だから、行くよ。
もう、二度と同じことが繰り返されないように。
◆◆◆
鉛のように重くなった身体が浮上した。
はっとして身を起こすと、そこは一面の花畑で。
先ほどまでの死闘が嘘だったかのようなあり得ない風景に、自分が死んだことを悟った。
「おはようございます。ずいぶん遅かったですね?」
そして、二度と聞くことはないと思っていた声に、後ろを振り向く。
「全然起きないから、待ちくたびれちゃいましたよ」
「………………そうか」
「はい」
変わらない。
何も変わらない笑い方をして、彼女は頷いた。
「たくさん、……本当に、たくさん頑張ったみたいですねっ。今だったら、ご褒美になんでもしてあげちゃいますよ!」
くしゃりと顔を歪ませて、泣くのを我慢して。
相変わらず調子の良いことばかり言う彼女が、自分の生み出した幻覚なのかは分からない。
ただ――。
「パンケーキ」
「え?」
「あんたの作ったパンケーキが食べたい」
他に言いたいことは山ほどあったはずなのに、最初に思いついたのはそれだけで。
「ははっ。喜んで!!」
彼女の笑みがすべてだった。
〈了〉
【設定】この世界における聖女は生贄。腐った世界樹から放たれる魔障を受け入れる器。公には浄化魔法とされているが、実際は身体に吸収している。魔力を持たずに生まれた子が役目に抜擢される。
聖女には、護衛(監査)役の騎士が付けられる。吸い取れる魔障にはキャパがあり、限界が来ると聖女は魔物化する。ーので、それを処理するのが彼らの役目。
本作の男は、腐った世界樹を燃やしにいった。
バカでかい木で周囲は魔障に侵された動植物がいるため、近づくのすら困難。男は燃やしきるために、最後まで根本に残った。
作者は転生モノが好き。