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1 日野家の日常

 たっぷりと余韻を残したピアノの旋律が消えるのを待って、悦子は深いため息をついた。

「ダメね」

 ピアノのことではない。

 悦子の前には、ピアノを奏でていた息子と、それに合わせて歌声を響かせていた娘がいる。

 悦子は二人の子供の教育に心血を注いでいた。特に音楽にはこだわっていて、ピアノとボイストレーニングをみっちり習わせているし、肺活量を鍛えるために幼少期から水泳もさせた。

 息子の方は筋が良いようで何を習わせても成果を出すのだが、娘は反対に何を習わせても上手くいかない。それでもボイストレーナーには声が良いと評価されたので歌わせてみたのだ。ところが娘は喉を詰まらせてちっとも声がでないのである。ボイストレーナーがよこしたUSBには確かに美しい歌声が録音されているに、いざ人前で歌うとなると緊張するようでからっきしダメなのだ。

(こんなに大きいのに、気が小さいったらないわ)

 夫の正臣は身長183センチと大柄で、悦子も165センチとやや長身である。息子と娘も2人に似て長身なのだが、娘はやたらと伸びすぎた。

 176センチと日本人男性の平均身長を軽く超えてしまった上、幼い頃から習わせていた水泳が仇となったのか肩幅ががっちりしてしまい、シルエットだけ見たらとても女の子に見えないほど逞しく成長してしまったのだ。

 良家のお嬢様らしく“桜子”と品の良い名前を付けたのに、名前に全く似合わない体型に育ってしまった娘は、女の子らしく髪を伸ばさせているのに、息子と並ぶと兄弟にしか見えず、2人が街を歩くと若い女の子達が黄色い声を上げるので、桜子のパンツルックを禁止した程である。

 ところがその大きな体とは裏腹に性格の方は内気で覇気がなくいつも背中を丸めていて、ステージの中央でスポットライトを浴びたら卒倒しそうなほどのあがり症なのである。

 一方の息子はすんなりとした長身に涼やかな美貌、勉強も音楽も運動もそつなくこなす秀才肌。人前に出るのも得意で、最近は本格的に音楽活動を始め、動画配信は至極順調。登録者数はうなぎ上りで大手の芸能事務所からもコンタクトがあるほどだ。

「まったく・・・やっぱり桜子には歌は向かないわね」

 黙って俯く娘を横目に、悦子は腰を上げた。

「一体何をやったらいいのかしらね?あなたは」

「ひとまず塾じゃないかな?北山高校に落ちたんだし、今からみっちり勉強しないと大学も危ないんじゃない?Fランならともかく、北山大学、受けさせるんでしょ?」

 息子の言葉に悦子は「そうね」と頷いた。

 北山は有名な私立学校だ。息子は中学受験に成功し、そのままエスカレーターで高校へ進学したが、娘は中学も高校も受験に失敗し、大学が最後のチャンスになっている。北山大学卒業はこの辺りのセレブにとって当たり前の学歴。成績の良い子は北山高校から京大や東大、さらには米国へと進学していく。これ以上受験の失敗は許されない。

「桜子、あなたピアノとボイストレーニング、もうやらなくていいわ。来週から塾の時間を増やしてもらえるように連絡しておくから。家庭教師も必要ね」

 そういうと悦子は娘へ一瞥もくれずに部屋を出た。


 防音室の扉が閉まるのを見届けて、晴臣はうっそりと笑った。涼し気な美貌に似合わない、どこか陰湿な笑みだ。

 大体母はいつも妹に点が辛いが、別に厳しくされるのは妹だけではない。晴臣も母からの過大な期待と要求に悩まされているのだ。出来なければため息をつかれ、なぜ出来ないのかと問い詰められる。それが分かっているから、彼は努力を欠かさない。勉強も、運動も、音楽も、すべてにおいて。

 ピアノの横に立ちすくむ妹の表情は見えないが、俯いてスカートを握るその姿に加虐心が疼く。

「いちいち試さなくてもわかるのにな。お前には向いてないって」

 そう声をかけると、妹の肩がわずかに揺れる。

「何年もレッスンしてたら多少歌えるようになるのは当たり前だし」

 ぐっとスカートを握る手に力が入る。

「でももうやらなくていいんだから気が楽になったろ。良かったな。あ、今から動画撮るから出てってくれる?リスナーのリクエストが溜まっててさ。捌くのが大変なんだよね」

 カメラに三脚、照明にマイクにパソコン。今の時代音楽で成功するなら動画投稿が一番の近道だ、と母を説得して買ってもらった高価な道具の数々をこれ見よがしにセッティングしていく。

 俯いてスカートを握りしめたまま、一言も発さず妹はそっと防音室から出ていった。

 これでこの部屋も自分ひとりで好きに使えるな、と晴臣は満足げに笑って、カメラのスイッチをONにした。




 桜子は水泳が好きだった。得意だったと言ってもいい。しかし中学3年の時、母の一存で辞めさせられた。肩幅がゴツくなり過ぎて可愛くない。そういう理由だった。インターハイに出られるかも、というコーチの言葉にも、母は耳を貸さなかった。

 桜子は歌もピアノも好きだった。ピアノは兄程上手くはなかったけれど、それでも音楽は好きだったし、歌はもっと好きだった。トレーナーからはプロも夢じゃないと言われていたけれど、母の前で歌う時だけは、いつも喉の奥に何か大きな塊が詰まったようになり、満足に歌えなかった。

 どれも母の一存で習わされ、それでも桜子なりに一生懸命取り組んで好きになり、母の一存で辞めさせられた。そこに桜子の想いや意見はひとかけらも存在しなかった。

 高1にして受験勉強のために部活動すら禁止された桜子は、学校から塾へ直行するため電車に揺られていた。過ぎ去る景色をただぼうっと眺めて、最寄りの駅で降車し塾に向かって歩き出そうとした桜子だったが、なぜか足が動かない。どうしても塾に向かって行くことができなかった。

 途方に暮れた桜子は、とりあえず他のところへ行ってみようと、駅ビルの上階にある本屋へ向かった。どういうわけか、本屋にはちゃんと足が動いた。広い書店をぐるりと回るが、参考書のコーナーへは足が向かない。雑誌や漫画を眺め、なんとなく一冊の文庫本を手に取った。表紙のイラストがキレイだったから。ただそれだけの理由だ。

 ビルの屋上庭園で、桜子は文庫本を読みふけった。女子高生が異世界へと連れていかれるファンタジー小説だった。字面をつらつらと追いかけるだけであまり頭には入って来なかったが、続きがあるらしいその本を読み切って目を上げると、すでに夕闇が迫りベンチの周りはライトアップされていた。桜子が出席すべき授業は、とっくに終了している。今頃は自宅に家庭教師が来ている頃だろう。

(もういいや)

 文庫本と通学カバンをベンチに置いたまま、桜子は屋上庭園の柵を乗り越えた。高い柵だったが、背が高く運動神経の良い桜子には、大した障害にはならなかった。ビルの縁に立つと夕日の残光を見つめたまま、桜子は少しの躊躇もなく、ふわりと宙に体を投げ出した。


 余韻(よいん)

■登場人物■

●日野桜子

16歳。176センチ。運動神経抜群。男装コスプレが似合いそうなイケメン女子。

お嬢様高校に通う1年生。学校では他の女子の求めに応じて王子様スタイルを貫いているらしい。


●日野悦子

165センチ。細身の美人。普通の家で育ったが、美貌を武器に玉の輿に乗った。

支配的な毒母。


●日野晴臣

182センチ。18歳。努力型の秀才。割と人気のYouTuber。まだ未成年なので顔出しは鼻から下のみだけど、絶対イケメン!と言われていてリスナーの多くは女性。

妹を貶してマウント取るのが彼のストレス発散方法。

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