鏡の中~終わらないかくれんぼ~
カオルが両親と暮らす分譲マンションの一室、一部屋だけある小さな和室には、古い三面鏡がある。
なんでも、お母さんのひいおばあちゃんだかひいひいおばあちゃんだかの『オヨメイリ道具』で、『ユイショのある』三面鏡なのだそうだ。
「この三面鏡はウチの血筋の女の子が守らなくちゃならないの。そう言い伝えられているのよ」
鏡守役(三面鏡の管理をする役目のことらしい)は、ウチの一族の特別なんだから。
ちょっと得意そうにそう言うお母さんを、カオルは物心がつく頃から何度も見てきた。
「カオルが結婚する時には、オヨメイリ道具としてこの三面鏡を持っていくのよ。カオルが女の子を産んだら、今度はその子がこの三面鏡を持って結婚するの。そうやって大事に大事に三面鏡を守ってゆくのが、『鏡守役』なの。わかった?」
そうやって大事に大事に守らないと、三面鏡の中から禍が出てくるんだから。
わざと怖い顔を作ってお母さんは、決まってそう話を締めくくった。
そんな怖い三面鏡イヤだなと思いながらも、カオルはいつもうなずいて、わかったと答えていた。
ごく幼い頃から何度もお母さんからそう言い聞かされてきたので、そういうものなのだと強引に納得させられていたのかもしれない。
でもカオルが小学校も三年生になると、そういう作り物じみた怖い話も信じられなくなってくる。
この三面鏡は確かに古いだろう。
でもお母さんが毎日きちんと磨いていたので、古くてもみすぼらしくはなかった。
磨かれた暗い飴色の木枠に三枚の青みがかった澄んだ鏡がはめ込まれていて、骨董品めいたというか、どこか高貴な雰囲気さえあった。
この頃カオルは時々、鏡のある部屋へ行ってそっと三枚の鏡を広げ、見入ることがあった。
澄んだ静かな鏡面には当然、カオルの顔が三つ、映っている。
左、右、正面。
少しずつ違う角度から映し出される自分の顔。
よく見知っているのにまったく馴染みがないような気もする、顔・顔・顔。
何だかドキドキした。
ある日カオルはなにげなく、鏡に向かって身を乗り出してみた。
顔を挟み込むような感じで、両手で持った左右の鏡を少しずつ閉じてみる。
鏡に鏡が映り込んで像が増え、鏡に映るカオルの顔も当然増殖する。
ちょっと怖そうに目を泳がせている自分の顔が、緑がかった色合いの、幾十にも重なり合った鏡の中にあった。
あまりにたくさんの自分の顔、まるで万華鏡の世界に迷い込んだような気分だ。
数えきれない自分の顔に、軽い眩暈がした瞬間。
たくさんたくさんある顔の中のひとつが、ふいっと目を背けた。
(え?)
驚いてそちらへ目をやると、鏡の中のカオルたちも一斉にそちらを向いた。
そこにあるのは重なり合ったせいで緑色に鈍く光る、何も映っていない鏡面……。
『こっち、こっちだよ』
笑みを含んだ、カオルと同じくらいの女の子のものらしいかすかな声が聞こえたような、気がした。
のけ反るようにしてカオルは鏡から遠ざかり、部屋からも逃げ出した。
それからしばらく、カオルは三面鏡に近付かなかった。
落ち着いて考えれば、見間違いだったり空耳だったりに決まっていたけれど、薄気味悪い出来事だったのは確かだ。
『大事に大事に守らないと、三面鏡の中から禍が出てくるんだから』
小さい頃、何度もお母さんから聞かされた話がよみがえる。
お母さんが全然本気で言っていないくらい、幼児だったカオルにもわかっていた。
だけどそんな話が出てくるということは、この三面鏡は本来『怖い』モノなのかもしれないと、カオルは心の中で密かに思った。
お母さんは相変わらず、毎日三面鏡を磨いている。
鼻歌まじりに手を動かし、何だか楽しそうでさえあった。
こうして見ている限りでは、『ユイショのある』『家宝(とお母さんは呼ぶ)』の三面鏡、というだけ。
あんな薄気味悪いことがあったなんて、カオル自身、だんだん信じられなくなってきた。
カオルが小学校四年生になる春、お母さんは本格的に外で働くようになった。
これまでも短期のアルバイトや半日ほどのパートタイムの仕事をしていたが、一日フルタイムで働く仕事に変わったらしい。
綺麗にお化粧し、キリリとしたパンツスーツ姿でお母さんは、カオルが登校する時間に一緒に出掛けるようになった。
そんな日々が半年くらい過ぎた頃。
そういえば最近、お母さん三面鏡の手入れをしていないんじゃないかな。
三叉路で別れ、うきうきと駅へ向かうお母さんの後姿を見ながら、カオルは思った。
お母さんが本格的に仕事を始め、一年ほど経った。
最近、両親の帰りが遅い。
三日に一度は『コンビニでお弁当を買って食べてね』というお母さんからのメールが、カオルのキッズ携帯に入るようになった。
お父さんの帰りは前から遅かったけれど最近はもっと遅くて、日付が変わる頃にしか帰ってこないのだそうだ。
「ごめんねカオル。お父さんもお母さんも今、仕事が立て込んでて。もう少ししたら落ち着くはずだから、我慢してね」
申し訳なさそうにお母さんはそう言った。
整えられた細い眉が、神経質そうに顰められる。
カオルは上目遣いでうなずいた。
最近お母さんは綺麗になり、なんだか凄味のようなものさえ感じる。
昨夜遅く、低い声で両親が言い合っていたのを、カオルはたまたま目が覚めて知っていたけれど。
怖くて、喧嘩の理由は訊けなかった。
その夜。
カオルは、不意にゆり起こされたような気がして、目が覚めた。
かけ布団を抱き寄せ、暗い部屋の中で目を見開いて天井を見つめる。
何だか胸の奥がざわざわして、このままでは眠れない気がした。
ため息をつき、カオルは身を起こす。
トイレにでも行けば気がまぎれるかもしれないと思ったのだ。
廊下へ出て、トイレへ向かおうとした時だ。
「あなた、それでも父親なの?」
という、ひそめられながらも鋭い声が聞こえてきた。
お母さんの声だ。
「父親だからこそ、だよ」
応える低くて冷ややかな声は、ここ最近ろくに顔も見ていないお父さんだ。
「カオルは女の子だろう?これからだんだん、難しい年頃になってくる時期だ、男親ではサポートしにくくなってくるのが現実じゃないのか?」
鼻で笑うと、お母さんが言う。
「ご立派な理屈ですこと。要するに、あなたの新しい家庭にカオルは必要ない、ってことでしょ?」
ムッとしたお父さんの怒気が、廊下にいるカオルにも壁越しに伝わってくる。
「そう言う君こそ。本音では、年下のかわいい彼氏を娘に奪われないか、心配しているんじゃないのか?」
一瞬の絶句の後、お母さんはせせら笑う。
「くっだらない、ホント下衆ね。そんな訳ないでしょ!」
カオルはそっとその場を離れた。
……すべてわかった訳ではないけれど。
カオルは胸でひとりごちる。
欠けていたパズルのピースがそろった、気分だった。
思いがけないというよりも、ああやっぱりねの方が強い。
お父さんもお母さんも、どうやら別の人と新しい道へ進みたいと思っていて。
そしてふたりとも、その道にカオルは必要ない。
(必要、ない……)
あまりにも冷たい、あまりにもむき出しの本音。
必要ない。必要ない。私は……必要ない子。
一瞬息が止まる。
涙も出なかった。
ふと気付くと、カオルは何故かあの三面鏡のある和室にいた。
窓越しに外の街灯の光が差し込んでくるせいで、室内は意外と明るかった。
フラフラと、まるで引き寄せられるようにカオルは、三面鏡の前に座った。
そっと鏡を開ける。
長く放置されていた三面鏡は、どこもかしこも埃だらけでざらざらしていた。
かすかな光の中でも、三面の鏡は律義にカオルの顔を映し出していた。
左、右、正面。
見慣れたようで見慣れない、少しずつ違う角度から映し出されている自分の顔。
「ねえ」
遠い日に聞いた声が、カオルの耳朶を打つ。
「遊ぼう!」
「一緒に遊ぼうよ!」
「みんな待ってるよ」
三面の鏡に映るカオルたちが、人懐っこいニコニコ顔で呼びかけてくる。
「……私。行っても、いいの?」
おずおずと尋ねるカオルへ、正面の子が手を伸ばす。
「いい、じゃなくて。絶対、来て!」
左右の子も口々に言う。
「みんな待ってるから!」
「一緒に遊ぼうよ!」
正面の子は更に手をのばし、うなずく。
「行こ。大人には絶対見つからない、すごい場所教えてあげる!」
(絶対……見つからない……)
なんだかすごく魅力的な言葉だ。
どうせ自分は必要ない子。
ならば絶対見つからない何処かへ、行ってしまうのもいいかもしれない。
ふとそんな気になった。
さすがにいなくなったら心配してくれるかもしれない、と、心の隅で思った一瞬後、カオルは、強く首を振って甘い期待を否定する。
必要ない子を心配する訳なんかない
カオルがいなくなった方が……お父さんもお母さんも、喜んでくれるかもしれない。
「……うん」
痛む胸に気付かないふりで、カオルはぎこちなく笑み、右手を伸ばした。
ひんやりとした緑がかった鏡面に、指先がそっと触れる。
重みのある鈍い物音が、冷たく静かに睨み合っている夫婦の耳へ響く。
不審に思ったふたりは言い争いを中断し、物音がした方向……和室へ向かった。
そして和室の灯りをつけ……息を呑んだ。
普段出入りすることのほとんどない和室で、パジャマ姿のカオルがぐったりと倒れていた。
夫婦は娘の名を呼んで抱き上げたが、青ざめた顔にはすでに生気がなかった。
父親はつまずきそうになりながらリビングへ戻り、うろたえながらも電話で救急車を呼んだ。
母親は娘を腕に抱いたまま、ふと顔を上げた。
たたんでいたはずの三面鏡がゆるく開いているのに、そこで彼女は初めて気付く。
「鏡守……」
そう言えば私はいつから、鏡守の役目を怠ってきただろう。
思った途端、彼女は背筋がぞわッとした。
『この三面鏡は、大事に大事にして差し上げねばならん』
遠い遠い日。
先々代の鏡守である大叔母から聞いた話を、彼女は不意に思い出す。
『大事にされず犠牲になった、可哀相な女たちの魂がこの三面鏡にはよりついておる。だから決して粗末にしたり、寂しい思いをさせてはならん。でなければこの三面鏡は、守役の女の大事なものを奪っていくぞ』
ゆめゆめ忘れるな。
重々しくそう言う老婆の鈍く光る眼が、あの時、子供心にも怖かった……。
「……お鏡さま!」
今の今まで忘れていた、三面鏡の尊称を思い出して彼女は叫んだ。
「申し訳ありません。申し訳ありませんでした、お鏡さま!なにとぞ……なにとぞ娘だけはご勘弁ください!」
三枚の鏡は狂ったように叫ぶ女の姿を、ただ冷たく映し出していた。
うふふふ。クスクスクス……。
楽しそうな声に囲まれ、カオルはどんどん前へ進む。
気が付くと、最初の三人は何処に行ったのかよくわからなくなっていたけれど、あまり心配はしていない。
彼女たちと同じ雰囲気の少女たち……カオルより小さい子、カオルくらいの子、カオルよりかなりお姉さんの子……よく見るとおばさんやお婆さんも混ざっている気がしたけれど、それもあまり気にならない。
ここにいる人はみんな仲間だ。
理屈抜きでそれがわかる。
「こっち、こっちだよ!」
「誰にも絶対見つからない、とっておきの場所だよ!」
導かれるままカオルは進んだ。
一足ごとに気持ちが軽くなってゆく。
私がいらない人たちに見つからない場所で、ずっとずっと、みんなで隠れていよう。
そう思うと、なんだかワクワクしてきた。
「もういいよ、なんて、絶対言わないんだから」
決して終わらない、決して鬼に見つかることもないかくれんぼ。
うふふふ。
どこかで見たようなまったく知らないような、自分と同じにおいがする女の子たちと顔を見合わせ、カオルは笑う。
ふと空を見上げると、緑がかった青がどこまでもどこまでも、果てしなく続いていた。