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恋がはじまる

作者: 山野 さち




2LDK、一人暮らしには充分過ぎるくらいの部屋は男性の部屋にしては綺麗で、でも程よく生活感がある。

この部屋の住人、日野隼斗さんは数分前にコンビニへ出掛けて行った。


日野先生は、私が2年間の浪人生活を過ごし、今年の3月に卒業した予備校の地理の講師で、35歳、独身。―――そして、私の好きな人。


長身でさっぱりした整った顔立ち。茶色がかった短めの髪はふんわりしてて、ちょっと子供っぽい綺麗な目元によく似合ってる。


全体的に爽やかな見た目にミスマッチなこてこての関西弁は、生徒の心を速攻で掴む。


授業も面白くて、膨大な量の情報を笑わせながら頭に叩き込んでくれる。


今年はついに受講者全員のセンター試験地理の得点が8割5分を越えた。そんな凄い先生だ。


2年間、私は大勢の生徒に埋もれながら、教壇に立つ先生への憧れを強めていった。

もちろん、ただ憧れるだけの関係だったのだが、それが少し変わったのが今年の3月末のこと。


予備校で物理を教わっていた西先生に、ベトナム旅行に誘われた。


西先生は、大の苦手だった物理を一から叩き込んでくれた先生。

理系としてネックとなる物理を克服すべく、私は子分のように西先生に付きまとい、時には泣かされながら勉強していた。


西先生と日野先生は、同じ有名男子校の卒業生らしく、その繋がりで仲がいい。


私が泣きながら西先生に食らいついていると、隣の席からひょいと頭をだした日野先生が、

「あー、また泣かされてんのかー。けど、ええことや。泣かすほど熱心に教えてくれんのなんて、西くらいやろー?」

と、にっこり微笑みかけてくれたり。


そして、無事、第一志望に合格した3月の半ば、西先生に、ベトナム行かん?と誘われたのだ。


先生3人と、それぞれの子分を一人ずつの計6人で旅行する予定だと。


西先生達が毎年卒業生を連れて旅行するのは聞いてたけど…。私女だし‼

と、始めは断ったのだけど。


なんでも、未成年は面倒だから成人した二浪以上しか連れていかないが、今年は旅行に誘えるくらい熱心な子分で多浪は私しかいなかったとか。

女だけど、それくらいの信用はあるだろー、とのこと。


迷っていた私だけど、先生3人の中に日野先生がいると知りベトナムについて行くことを決めた。


だって、地理の先生と一緒に海外旅行なんて凄く面白そうだから。

純粋に日野先生と仲良くなりたい、っていうのも無かった訳じゃないけど。


実際、ベトナムでの2泊3日は、楽しかったのは勿論、日野先生のお陰でかなり見識が深まった。


先生の蘊蓄披露の時に、

「これ、地形の授業で話したやんな~?」

とか微笑みかけられて、何回も心臓が止まりかけた。


授業に出てたの認識されてたんだ…‼って、そんな事が馬鹿みたいに嬉しかった。


そして最終日、帰りの飛行機を待つ間、ベンチで日野先生と二人になったタイミングで連絡先を聞いた。


「ええけど。連絡先交換したら、もう先生やのーなってまうよ?」


特に嫌がるわけでもなくスマホを操作しながら言う先生。

よく意味が分からずにじっと先生の顔を見つめていたら、イタズラっぽく笑って続けた。


「元先生と元生徒、じゃなくて、男と女になるってこと。極端な話、おもんねー、って思ったら返事もせんかもしれへんよ?」


言葉とは裏腹に先生の目は優しくて。

2年間の淡い恋心に、この5日でずっと深まった恋心に気付かれているとを悟って、それならもう迷うこともないと頷いた。




それが正しかったのかはいまだに分からない。


こうして今先生の部屋にいるってことは、正しかったとも思える。


だけど、あれから約半年、先生から私と同じ種類の感情を感じ取ったことは無い。



先生が出掛けていって15分。もう帰ってくるかな。---------あ、帰って来た。


「先生、おかえりなさい」


「ただいま。…てかさ、その‘先生’ってのやめてや。なんか悪いことしてるみたい」


悪いこと…。


「そうですね。おかえりなさい、隼斗さん」


「ん、ええ子」


頭を撫でながら、コンビニのビニール袋を渡される。


ビールと、あ、アイスもある。


「ええ子に留守番できたから、アイス食べー?期間限定やで、好きやろ。あ、あと俺のビールとコップちょうだい」


もうソファでくつろぎながら頭だけ振り返って言う。


その私服でかなりオフな感じがいまだに慣れない。ドキドキする。顔が赤くなっていないか心配になりなが、台所で丁度よさそうなグラスを用意した。


ソファに座る先生の足元の絨毯に座ってアイスを食べていると、リモコンに手を伸ばしながら先生が滑り落ちてくる。


「ん、うまそー。一口ちょうだい?」


何も考えずにスプーンに掬って差し出したけど、あー…、間接……。


「おー、美味しいね。あ、顔赤なってるよ。照れたんなー?間接ちゅー」


一気に顔が熱くなって、慌てて俯いてアイスを食べる。


もっとからかわれると思ったのに、案外それ以上何も言ってこない先生をそっと伺う。


目があって、息が止まった。


熱い。

先生の目が、絡め取られる視線が、熱い。


私の身体が、熱い。


瞬きも出来ずに固まると、先生は音もなく距離を詰め、私の手からアイスのカップを抜き取りテーブルの上に置いた。


そして私の首筋に手を回してそっと抱き寄せられる。

アイスの温度が移った指先が冷たい。


私の額がとんと先生の鎖骨に当たる。


「葵…いいか?」


耳元の空気が振動する。脳みそが、揺れる。


「……はい…。でも、私、初めてで…」


ふわり、と抱き上げられ、視界が柔らかく上下する。


「初めてが、こんなおっさんじゃ嫌?」


「そんな…! ……先生だったら…嬉しいで…す」


寝室のベッドに優しく降ろされる。一瞬で、先生の温かい匂いに包まれた。


「先生ちゃうやろ?…隼斗」


「隼斗さ…んんっ」


荒っぽく塞がれた唇。産まれて初めてのそれは、熱くて柔らかかった。



強く抱き締めていた腕が這って、ブラウスの中に入ってくる。



「あっ…」


「あ、ごめんごめん。消すわ」


突然照明が落とされて真っ暗になった。


先生の軽い口調に、何故だか不安が込み上げてくる。自分でも、この不安の正体がよく分からない。初めての行為への恐怖とは違う。でも、このまま先生を受け入れることを、私の中の何かが、良しとしないのだ。


混乱して腕を伸ばして先生を押しのけた。


どうして、そんなにあっさり消すの…?


部屋を暗くするのは私への気遣い、それは分かる。分かっているはずだけど。



私の腕の力なんて先生にとってはたかが知れてる筈なのに、あっさりと私から引き剥がされて。


その、予期してたみたいな動きにどうしようもなく悲しくなった。


「先生…」


本当は分かってたんだよ。

結局先生は先生だって。


あんなこと言ってたのに、どんなメールにもちゃんと返事をくれて。優しい返事は結局、‘先生’のもの。


頭の真ん中のあたりが冷たくなる。

不快な冷たさが喉まで降りてきて、諦めの溜め息になって溢れた。


もういいや。

いっそ、思いっきり子供みたいな本音で困らせてやろう。


先生の前では大人っぽくありたいと思ってたけど、どうせ生徒で終わるなら、ありのままのほうがちょっとは可愛いかもしれない。



「先生?今は先生だけど、相手がさ、本当に私を愛してくれるはずの人だったら、あっさり電気消されたことに、傷ついてもいいの?」


すぐ目の前にいるはずの先生を、一生懸命見つめるけど、見えない。


暗すぎて、見えないよ。



「葵…?どういう意味…初めてだし、暗い方がええんやないの?恥ずかしいかなって。それに、本当に私を愛してくれる人って、なんやねん…」




違うの。もちろん、恥ずかしいよ。身体にも自信なんて無いし。

けど、私はそんな事言ってるんじゃないの。


「違う。先生から、何も感じないの。私のことが欲しいって、感じないの。…先生は、私の身体になんて興味無い…」


「隼斗やって…‼ なんなん?今更、先生に戻らせるつもりなん?」


初めて見る語気の荒い先生。だけど、そんなこと気にならなかった。


「‘先生’でいようとするのは先生でしょ!? ずっと、ずーっと、先生は、先生のまま」


「それは、否定できへんけど…」


不意に灯りがついて、突然の眩しさに目を細める。けどすぐにまた視界が陰る。


先生の胸に強く押し付けられる。


「葵…。愛してる」


抱き締められたまま首を振る。

いらない。今更そんな言葉欲しくない。


「愛してる。ずっと。」


「嘘」


「嘘やない。確かに先生として振る舞ってたのは認める。けど、そんなん、お前に溺れて捨てられるのが怖かったんや。決めるのはお前やから。」


「捨てられる…?そんなこと」


そんなことありえない。私は先生のことがずっと好きなのに。


「そんな事無くないの。怖いんやで?おっさんなんだから」


「本当に?」


「本当に。けど、葵が憧れてるのは大人な俺やから。格好いい大人であろうと必死。…本当は、葵の身体、隅から隅まで見たいよ。枯れかけてた欲望が煮えたぎってる」


え…、ちょ。


「けど、そんなん、カッコ悪いやろ?葵の好きな俺やない。幻滅される」


意外すぎる先生の突然の告白に、言葉が出ない。



「ほら、引いたやろ?どんなに普段はかっこつけてても、所詮こんなもん。今だって、余裕なくした顔、葵に見られたくない」



抱き締める腕が強まる。



「でも結局…。葵に逃げ道残しといたはずが、本当に逃げられそうになったら、必死に繋ぎ止めてんねんな。もうとっくに…、溺れとったみたい」


「隼斗さん…好き、愛してる」


ふぅーー、と長い溜め息と頭頂部に押し付けられるぬくもり。


「愛してる。ずっと。…ずっとやで?」



「ずっと?」



「そう、もうこの際、カッコ悪いこと全部白状するな…。いや、やっぱ嫌われそうやからやめ…」


「だめ。教えて」



教えてよ。嫌いになんて、なれないよ。


「もう充分カッコ悪いかぁ…」


そう言って黙りこんだ隼斗さん。

もう一度軽く溜め息をついて、私の頭から唇を離す。


「顔見んと、このまま聞いてな」


先生が何を言うのか全然見当もつかないけど、緊張しながら、でも一言も聞き逃すまいと集中する。


「俺の授業必ず受けてくれる子がいてな、すごい可愛くて勉強熱心で。絶対合格してほしいなって思ってた。俺のどんな下らないギャグにも、絶対にっこりしてくれんねん」


こんなに穏やかな優しい声、初めてが聞くかもしれない。


「模試ラッシュでみんな疲れてても、直前期でみんなピリピリしてても、その子だけは俺の方みて熱心にノート取ってくれてた。その子は結局2年間いたんやけど、ずっと目指してた第一志望の難関大に合格して。合格しましたってとびきりの笑顔で報告してくれたん。合格してくれて凄え嬉しかったのに、もう彼女の笑顔が見られんって思ったら、どうしようもなく寂しかった。それで、知り合いの先生にに頼み込んで、一緒にベトナム行った。」


「え、」


「引いた?」


「いや、びっくりしましたけど……なんか嬉しい」


「本当は俺から告白したかった。ベトナムで、葵からの好意にも気づいたし。せやけど、浪人っていう特殊な環境で、しかも年上に意味もなく憧れる年頃やろ? 葵の気持ちに自信が持てんかった。」


「意気地無し…」


「せやんなぁ…。けど、大学生なったら、出合いなんて掃いて捨てるほどあるんやで?」



「…大好き。信じて」


「信じるよ。愛してる」


腕を緩めて、顎を掬いとられる。


大人っぽい色気に目を細めながら、精一杯微笑んだ。


先生の寒いギャグに、好きが溢れたあの時みたいに。


「で、さ。今気づいたんやけど、あれ、無いわ。けど、どうしても抱きたいし、葵の身体全部見たいから、今から買ってくる。クールダウン出来て良かったかも」



微妙な顔をしながらベッドから降りる隼斗さん。


私の顔はきっと真っ赤に違いない。


ついさっき、完全に諦めたはずのこの恋が、思いがけずまた動き出した。


私が気づけなかっただけで、ずっと前から動いていたのかもしれない。


大好きな人とこれから過ごす長い時間に胸を高鳴らせながら、寝室から出ていく隼斗さんの背中を見つめて、心の中で呟いた。



大好きです。先生も、隼斗さんも。




―fin―

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