第703話 『文明退化』
side アルゴニア・ガロム
百四十年前の戦乱後期。
今は『ガロム中央会議連盟』と定義されているこの地の大部分……今の『中央』と呼ばれる地域よりも遥かに広大な土地が『開拓済み』の平野や人間の居住地となっていた。
……当然と言えば当然だ。
今のガロム文化圏のほとんどを支配していた『王朝』の建国から数えて約千四百年。
ある種の永い停滞とも呼べた『秩序の時代』を抜けた人類は技術を体系化し、生活を安定させ、人口を増加させていった。
そして、当然ながらその過程で『発展のための開拓』も千年以上に渡り行われ続けたのだ。
居住地を造る、畑を造る、牧場を造る、道を造る。
建材のため、道具のため、設備のため、燃料のため、さらなる開拓のため。
樹を伐り、根を引き抜き、地を均す。
転生者の流入で異世界の知識が入ってからは『正しい発展の先にある未来像』として手の届く世界の全てを『開拓済み』とする、材木や環境維持のために必要な森林さえも人の手による植林や管理で制御するといった考え方により開拓はさらに積極的になったが、それ以前から人類は開拓を続けてきた。
平時では、平時だからこそ計画的かつ大規模な事業として。
戦時には、軍事のための資源や施設の建造のため、そして、国力を増すための民をより多く養うための基本方策として。
比較的、学も知恵もいらない下級労働者ができる中でも大きな利益を生み出せる仕事としての開拓事業。
人類がその味を知ってからは、開拓という行為は文明の発展そのものを象徴するように継続されてきた。
そして……
「報告! ガロム中央会議連盟全域にて、『文明退化』の影響発生! 現状では軽度ですが、石畳や石材の土台を割って若木が生長! 馬車の通行妨害や建築物の破壊が始まっています!」
『文明退化』。
『大怪獣ブラリー』の能力として知られる現象にして……戦乱末期の『邪神降臨』という事案における最大の傷痕。
約百四十年前。
たった数日で、人類が『開拓』によってこの地に刻んできた歴史は少なく見積もって『十五世紀分』……王朝以前まで後退した。
人類が戦乱の時代を終えたのは、邪神に対抗するために一致団結したから……というのは、それを指揮したガロム王国を讃える美談として語り継がれていることだが、本質的にはそうではない。
人類は、人間同士での戦争などやっていられる余裕がなくなって戦いを止めざるを得なかっただけなのだ。
そうしなければ、生き残った『文明』の断片をかき集めて再構築しなければ滅亡していた。
『森』に再占領された世界で戦いをやめて文明を回復させるか、戦いを続けて原始生活に後戻りするかの選択しかなかったからこそ戦乱は終結したのだ。
「『文明退化』の影響! 森林による減衰を確認、しかし、森林のない中央部は急速に……」
『文明退化』は西の果てに雄大に聳える神体から波のように広がり、世界を『森』に均していく。
最終的には文明全域を『森』として均一化することを目的とするその波は、現存の森林によって影響力が低下する。
元から森林に囲まれた地方の村や町であれば、当面はまだ居住地としての機能を完全に失うには至らないだろう。
だが、逆に森林という防波堤のない都市……地方で繰り広げられる『森』との押し合いから解放された『人類域』の内地として整地の進められてきた『中央側』は影響があまりに強すぎる。
それこそ、草地に注がれた水と石畳に注がれた水の流速の違いのように、『文明退化』の波は森林の護りのない中央を一瞬で緑に染め上げる。
そうなれば、戦乱末期の『文明退化』からの回復すら不完全なままこの日を迎えたこの文明は復旧不可能なダメージを受けるだろう。
いや、それ以前に……
「各地から……『金属器の急速な劣化』の兆候は報告されているか?」
「いいえ、まだです! しかし、『文明退化』の影響が広がるにつれて地震の震度が傾向として上昇中! 今はまだ丈夫な建築物が耐えていますが、このままではいずれ……」
「そうか……記録の通りだ」
強まる地震……それは、戦乱末期にも事例として記録されている。
それによって、戦乱の時代に築かれた城塞も防壁も、そのほとんどが崩壊したのだ。
そして、『文明退化』が文明全域を覆いかけた段階で、『金属器の急速な劣化』という事象の兆候も確認されたという記録が残っている。
『開拓された土地』を森林に戻す。
『大地に突き立てられた建築物』を震い剥がす。
『人類が大地から盗み取った鉱脈の精製物』を土に還す。
それが、女神の放つ本当の『文明退化』。
戦乱末期は途中で女神を封印することで現象を止めることができたが、おそらくこの現象の終着点は文明を『金属器を使い始めるより前の状態』へ回帰させることで完結する。
これまでとほぼ変わらない生活を保てる者がいるとすれば、それは森の中に住むことを当たり前として、何千年も前から伝統的な生活形態を守り続けてきた『森の民』の氏族たちだけだろう。
森から離れて開拓された土地で生きるのが当たり前になった今の我々には、いきなりそれ以前の文明レベルに立ち返った生活ができるような力はない。
そして……
「ほ、報告します! ガロム全域、西側からモンスターの群れが……全てのモンスターが、深緑色の『祝福』に類似した強化を受け、大量発生した怪獣たちを先頭に東に向かって一斉に移動を開始……凄まじい移動速度で、『文明退化』で城壁や施設が機能を失った都市蹂躙しながら、東側へ……『中央』へ向かっています……」
「記録の、通りだ……だが、記録よりも、最悪だ!」
『現在』のこの世界と『前回』の違い。
それは、決着のつかないままのなし崩しであれ、ガロムを中心に表面上は『平和』と言える状態が百年以上続いてきた現代の都市や民衆には、戦乱末期のような防衛力がないこと。
戦乱の時代には、どこの地方であれ都市であれ、防衛の備えもあった。
だが、今の中央は長らく『安全地帯』であり続けた地域ばかりで戦乱末期よりも遥かに脆い。
たとえ現象の完結前に女神を止めることができても中央の人類はモンスターの蹂躙によって壊滅する。
そうなれば、前回のように文明を復興するための断片すら残らないだろう。
本当なら、いつか復活するであろう神の怒りに備えて対策をするべきだった。
だが、人類は戦乱を終えても陰湿な内輪揉めを続け、それを先送りにし続けてきた……儂も例外とは言えない。
裏組織との睨み合い、そして近代化への対応や内政、そういった神の視点から見れば『あまりにくだらないこと』に腐心する内に、神の目覚めを出迎える備えの機を逸した。
それも、裏組織との紛争によって軍も機能せず邪神としての復活を止めることもできない最悪の形で、万全の備えをしても足りない女神の目覚めの時を迎えてしまった。
もはや、『中央』の壊滅は止められない。
持てる全ての戦力を投じて怒れる大地の女神を再封印できたとしても、その間に中央の都市も民も全滅する。
せめて、僅かにでも文明復興の芽を残すべく地方の都市だけでも遺すことを考えなければ……
「それは本当か!? ほ、報告! ガロム王陛下!! 報告です!! 『長城』が……」
「……『長城』が、どうした?」
「『長城』が……『剛樹の魔王』が、『文明退化』の波を受けて暴走的に活性化しながら、波を、受け止めています! まるで、長大な防波堤みたいに……その東側の中央にも軽微な影響は出ていますが、『長城』の境界の東西で歴然とした差が……」
「……ッ!! なんだと!?」
「それに、剛樹の魔王の『迷宮化』によって、東進を続けていた怪獣とモンスターたちが停滞……長城を突破しようとしていますが、持ち堪えています。怪獣たちの攻撃で、いずれは突破されると思われますが、これは……」
「誰か! 地図を持って来い!! ガロム全域のものだ!!」
すぐさま、机に広げられた地図に『旧都』とこの『オルーアン』を結ぶ直線を引く。
これが、旧都から一直線にここを目指してガロムを縦断した『長城』の軌跡であり、『増築』によって二分された世界の図。
昨夜は一連の事件が終わった後の復旧時に物資や人間の移動にどれだけ支障が出ることになるかと頭を痛めた境界線だが……
「間違いない……『中央』のほとんどは、『ラインの東側』だ。その上、神体からラインの南北の間には元から深い森があって影響も薄い。中央への決壊さえ防げば……『長城』さえ守り切れば、ガロムを守り切れるぞ」
戦後の開拓が思うように進まず森林の多くが残されていた西側の地方領は『文明退化』のダメージが少なく、ほとんどの町や都市がモンスターの生息する『森』との隣接で城壁や戦力配置などの防衛力を持っている。
モンスターの群れに蹂躙されている都市も、攻撃対象というわけではなく開拓が進み重点的に破壊すべき中央への東進の間にある障害物というだけ、その移動する群れの波を受け流せば持ちこたえられる。
そして……『大地震』と『金属器の劣化』が本格化するのは、文明域全体に『文明退化』の緑化効果が浸透してから。
その下地が完成しなければ、剛樹の防波堤が決壊しなければ、文明の完全な後退は阻止できる。
「『長城』を絶対死守の防衛ラインとして設定する!! あらゆる手段を用いて最速で、人類域を守るための布陣を構築するのだ!!」
side ドレイク
ここは、『ブラッディ・フェニックス』のコックピット。
旧都の神殿から逃げ出すように飛び立った機体の中、オルーアンからの通信にバイザーの下で目を見開くこととなった。
「『長城』を防衛ラインとして中央を守り……その防衛線が決壊する前に、『大地の女神』の本体を……」
無茶な作戦、不可能に近い希望。
少なくとも、あの『復活した邪神』を……『大地の女神』としてのあまりに巨大な神体と、一睨みで千年の時を進めるような権能を見て、女神本体をどうにかできる方法があるなんて思えない。
だが……それでも、やれなければ文明が完全に崩壊して原始生活に強制回帰することになる。
「……『了解、ベンヌ・ブレイカーの戦力価値の大きさは理解できている。今からすぐオルーアンへ……』」
オルーアンへの通信でそう答えようとした。
その時……背後から、声がかけられた。
「ドレイクさん。『オルーアン』へ行く前に、『第二都市トラナ』へ」
狂信者の声。
神殿からずっと『祭壇』を抱えて気絶する猫耳の少女を……『邪神崇拝者』のヒトミを抱いている転生者は、コックピットの後ろの座席になっているスペースからこちらに目配せをしていた。
「イカロさんとの約束です……先に、トラナへ」
「だが、狂信者……今は、少しでも早く戦力を……」
「……ヒトミさん。彼女を、そして子供たちをこのままオルーアンへ連れて行けば、ガロム王も立場的にこの状況下で『今起きている全ての被害の元凶』として罰する以外なくなってしまう。であれば、その前にトラナへ行き、『儀式の実行者たちは女神の復活に伴い自滅した』という形で処理する他にありません」
「それは、そうだが……全ての責任を負わせるのは間違っているにしたって、無罪放免にするのは……」
「ドレイクさん、質問です。『今のヒトミさん』を、あなたは『人間』と断言できますか?」
質問されて、答えに詰まる。
頭から生えた、明らかに『人間の耳』とは違う位置と形の大きな獣耳。
俺の一瞬の沈黙を掬い取るように、狂信者は続ける。
「彼女もまた問われるべき罪はあるのでしょう。しかし、法とは自身が守られるために守るもの……守ったとしても自身は守ってもらえない『人間の法』に、人間扱いしてもらえない者が従わなかったことを一方的に裁くというのは、それこそ無法というのではないでしょうか? あなたは、ガロム王にそんな無法を強要したいのですか?」
狂信者の言いたいことは、俺にもわかった。
既に、女神の権能は多くの被害を出し始めているだろう。そんな中、その原因を作った集団の関係者をガロム王の前に連れて行けば、ガロム王は立場上それを『敵』として周囲の臣下たちの前で処さなければならない。
何も知らない子供たちを、そして、『獣の耳』を持つ少女を『諸悪の根源』の一員として処断する……それが未来に何を招くことになるのかは今の俺にはまだわからないが、記憶の中のイカロの表情からそれは『あってはならないこと』なのだろうというのはわかった。
「彼女たちが罰を受ける必要があるとしても、それはおそらく中央政府ではなく『トラナの法』によるものです。お願いします、ドレイクさん」
「だが、それをトラナに立ち寄る理由にすればどちらにしろ……」
「では、私を先に虎井様の元へ送り返すためということにすればいいでしょう。大規模な防衛戦ということであれば、『共演者』により正確な情報を一秒でも早く伝達することは間違いではないでしょう」
俺の言葉を遮って意見を出したのは、ロバの耳と金糸の手袋を身につけた『ミダスの女王』。
ミダスは、状況の変化に怯える黒衣の子供たちを落ち着かせながらこちらに目を向ける。
「『共演者』も、虎井様も、事情はすぐに理解するはずです。口裏合わせはお任せください。それに……私も皆様も、昨日からの強行軍で疲労やダメージの蓄積は限界に近いはず。トラナであれば、回復手段もアイテムもすぐに用意できます。防衛の作戦本部となるオルーアンに必要な物資や機材を一緒に乗せて行けば回り道の理由としては十分な仕事になるでしょう」
理詰めの論法ながら反論を許さない気配。
ドラゴンの飛行速度を越える『ブラッディ・フェニックス』の速度なら、コース変更自体によるタイムロスは長くても十分単位で済む範囲……むしろ、悩んでいる時間の方がロスになるだろう。
そして、疲労やダメージの蓄積も確かに無視はできないレベルだ。
戦力として駆けつける必要がある以上は、最速での到着にこだわって消耗での戦力低下をそのままにしていくよりも高速回復が可能な場所を経由するのは理にかなっている。
「……わかった、進路を『第二都市トラナ』へ変更する。ミダス、第二位への迅速な情報共有を頼む」




