第642話 行き場なき恩讐
side 日暮蓬
ここは、公開処刑が行われようとしていたオルーアンから程近い小さな町にある冒険者ギルドの施設。
外観は町の規模に相応の小さな建物だけど、ガロム正規軍との戦闘で瀕死になった私たちが運び込まれる可能性も考慮されていた場所だ。
だから、ここには魔法や転生特典で作られたアイテムを含めた治療手段が可能な限り用意されている。
そして……その医務室のベッドで、上体を起こした状態で横たわる、今回の戦いで一番の『重傷者』がいる。
「ニャハハ……まあ、生きてるだけで丸儲けってやつニャ。あの時はホントに死んだかと思って意識とんじゃったけど」
入院服のアトリさん。
……その瞳は闇の中の猫みたいに目一杯に開かれた瞳孔が、全く光を反射しない深い闇だけを映している。
すぐ目の前で、自分自身も手当を受けたばかりで所々に包帯を巻いたテーレさんが魔法の光を発しているのにも全く気付く様子はない。
「……眼球の損傷でも毒でもないし、呪いでもない。たぶん、守護者の一部が生きたまま頭の中で悪さしてる。これだと、回復系の魔法や転生特典でも治せないわ」
「……だろうニャ。魔法とかで簡単に治せるなら、夕子ちゃんもこんなことしないだろうし」
「…………」
光を認識できない瞳を閉じて、小さく嘆息するアトリさん。
他に外傷はない。けれど、『芸術家』のアトリさんにとって『視力を失う』というのがどれだけ深刻なことかなんて、説明されるまでもない。
アトリさんは、私を守るために自分の身を差し出した。
そのまま命を取られてもいいと、夜神夕子にはその権利があるとまで言って。
そして……その頭を、闇の守護者に咥えられて、ねぶられて、頭の中に何かをされた。
闇に呑まれて消えてしまったかと思ったアトリさんの頭から守護者の闇が消えた時には死んだと思っていたアトリさんが生きていたことに心底ホッとした。
もっとちゃんと戦えなかったことを後悔して、いっぱい謝って、助けてくれたことにありがとうって言おうとした。
けれど……
「ねえ……テーレちゃん、それにフィースちゃんもいるのかニャ? 一つ、聞いてもいいかニャ?」
「…………ええ、なに?」
「……ヨモギちゃんは、無事なのニャ?」
「…………今は、自分自身のことを考えて。他のことは心配しないで」
「ヨモギちゃんが無事なら、なんでここにいないニャ?」
「…………」
「無事だって言ってくれるだけでいいから……声を聞かせてくれるだけで、いいからニャ。」
「………………」
部屋の中を探すように振られた顔が、偶然に私の方を向く。
思わず口を開きかけて、口をつぐむ。
私は、ここにいる。
同じ病室にいるし、テーレさんやフィースさんも私のことは認識してる。
けど、私はアトリさんの言葉に応えることができない。テーレさんたちも、私のことを教えることができない。
「ねえ……なんで、ヨモギちゃんのことだけ何も教えてくれないの? 無事、なんだよね……?」
「…………」
思わず声を発しそうになる私を、フィースさんが首を振って制する。
わかってる……ここまでで既に、何度も繰り返してるやり取りだ。
「アトリ、落ち着いて聞いて。蓬は……少し、今は話せないの。でも、死んだって意味じゃなくて……」
「『死体は見つかってない』とか?」
「…………今は、何も言えない」
「…………ヨモギちゃんが無事じゃないなら、ワタシはなんのために目を失くしちゃったんだろうニャァ……まだまだ、見たいものも、作りたいものも、いっぱいあったんだけどニャ……」
声を発しそうになる口を手で塞ぐ。
そんな私を気遣ってか、フィースさんが病室の外へ促してくれたから、それに従って通路に出る。
「ここはもう大丈夫よ、結界でこっちの声は聞こえないから。よく耐えたわね」
「フィースさん……どうにか、できないの?」
「……これまで実験してきた通り、無理そうね。今の彼女にあなたの生存を認識させることはできない」
フィースさんは、アトリさんの現状について、認めたくない深刻な事実を優しく、けれど淡々と語る。
「今のアトリは、『日暮蓬の現状』に関する情報を認識すれば、意識が落ちて前後の記憶を失う。アトリ自身がまだそれを認識してないけど、あなたの無事を問いかけてくるのだってさっきが初めてじゃない……アトリは、あなたの生存を認識できない。彼女の中の今のあなたの生死は『不明』のまま、変えられない」
声をかければ、その瞬間に意識が落ちる。
触っても、誰かが質問に答えても、二人しか知らないようなことについて言及しても、結果は同じ。
アトリさんが『日暮蓬が今も生きている』と信じられる情報を得た瞬間に意識が暗転して直近の記憶を失う……まるでバグで不正操作をして、ないはずのデータを参照しようとしたゲームみたいに。
これまでも、この法則を確信するまでに、アトリさんは何度も記憶を失っている。
最初は私がずっと傍にいて呼びかけていたから目覚めなくて、検査と治療のために私が離れた時に目を覚ました。
それから、私が近付いてアクションを取るたびに意識が落ちて、私が離れていても私の無事を問いかける質問に誰かが答えた瞬間にその質問をした記憶すら失うのを繰り返した。
さっきのは、その法則の最終確認だった。
今のアトリさんは目が見えない……だから、同じ部屋にいても声を出さずに見てるだけなら、そして誰も私の現状について言及しなければ、アトリさんの記憶は消えない。
「本当に、見てることしかできないの……? ありがとうも、ごめんなさいも……生きてるよって言うことすら、できないの?」
「……ええ、これまでの感じからして、アトリは意識が落ちるたびに少しずつだけど脳にダメージが入って精神が疲弊していってる。それに……今はまだ起きて記憶が消えての繰り返して蓄積した情報が少なくて外部からの刺激が原因になってるけど、これを繰り返してアトリが自分の状態を『推定』してしまえばどうなるかわからない。記憶が大幅に削られるかもしれないし、もしかしたら二度と目覚めなくなるかもしれない」
「それじゃあ……」
「可能なことなら、もうあなたの情報は入らないようにした方がいい。私たちもアトリの前ではあなたのことを『生死不明』として、おそらく死んでいるものとして扱って、アトリに『あなたの死』を乗り越えてもらうのが一番安全だと思う」
入院患者の異常を感知できるように一方通行で部屋の中の音が聞こえてくるようになってる結界を通して、アトリさんの声が……テーレさんに縋りついてすすり泣く声が、今も聞こえてくる。
辛い……ひたすら、辛い。
アトリさんに、私はあなたのおかげで生きてるって伝えたい。
光を失ったのは無駄なことじゃなかったって、ごめんなさいって……私は無事で、心配なんていらないんだって伝えたい。
けれど、それはできない……この現象のトリガーがアトリさん自身の認識である以上、そこに抜け穴はない。
「……これは、転生者の能力に起因する現象よ。それも、あなたと同じ『守護者』の使い手。あなたは物理的な破壊に向いた技に特化してるから同じことはできないけど、原理的にはあなたの『火演』と同じ派生技の一種。だからこそ、薬でも魔法でも治せないけど……」
「……守護者を消せば、『夜神夕子』を殺せば、元に戻る?」
「……脳へのダメージで後遺症は残るかもしれない。けど、少なくともあなたの現状を認識できない今の状態からは回復できる」
無意識に、髪から火の粉が散った。
するべきことが、怒りの指針が定まって、体温が上がる。
「そっか……なら、あいつに……あの女に……!」
私が『するべきこと』を口にしかけた時。
部屋の中から、アトリさんの声が聞こえた。
すすり泣きの後の涙声で……けれど、それでも辛さを堪える、強い心を込めた声で。
「テーレちゃん……もしも、ヨモギちゃんが見つかったら……伝えてほしいニャ。『夕子ちゃんのことは、怒らないであげて』って」
発火点まで届きかけていた熱が、冷や水を浴びせられたように止まる。
私が無事だとしても、アトリさんは光を奪われているのに……それなのに、夜神夕子を庇うようなことを言うアトリさんの心がわからなくて、思考が止まる。
けれど、私のことを認識できないアトリさんは、その声が直接届いてることも知らないまま、言葉を続ける。
「ヨモギちゃんは夕子ちゃんには何もしてないけど……ワタシは、夕子ちゃんには殺されても仕方ないくらいのことしちゃったからニャ。目だけで済ませてくれたなら、それはきっと温情だからニャ」
「アトリ……」
テーレさんの動揺する声。
そこから伝わって来る、私には見えない今のアトリさんの表情……そこに込められた感情。
いつも笑ってて、頼れるお姉さんでいてくれるアトリさんが滅多に見せないような、暗い想い。
「夕子ちゃんはニャ……あの子は、日本舞踊の名家に生まれて、お稽古ばっかりで、厳しく躾けられて……あの子の母親からしてみれば、きっと上手く行かなかった自分の『二周目』みたいなつもりだったろうニャ……けど、あれは……他人から、ワタシから見ればどう見ても、虐待、だったから……助けようとして……余計に高いところから、落としちゃった……」
罪を懺悔するような告白。
相手が『天使』のテーレさんだからなのか、それは独白に近い、胸の中の毒を吐き出すような苦しい言葉だった。
「夕子ちゃんはそうしてほしいなんて言ってないのに、勝手に手を引っ張って……世界は、普通はもっと明るくて、楽しいんだって……夕子ちゃんのいる場所はおかしくて、夕子ちゃんのされてることは酷いんだって、普通の子はもっと幸せなんだって、教えて……それを教えただけで、結局は連れ出せずに、手を離しちゃった……あの子に、あなたは不幸なんだってことだけ教えて、『かわいそうな子』にしたまま、逃げちゃった……」
籠った泣き声。
手で顔を覆って、泣きながらも、言葉は続く。
子供の言い訳みたいに……赦しを求めるみたいに。
「あの子の家の、親の力が強くて……その時は、ワタシも芸術家として有名になる前でさ……本当は、夕子ちゃんにちゃんともう一度話がしたかったけど、ワタシを見つけてくれた画商さんに迷惑かけられなくて……」
「…………」
「結局、待ち合わせしてたのに、会いに行けなかった……有名になってからも、謝りたかったけど……実績も知名度もなかったワタシの作品がプロの世界で急に評価され始めたのが、あの子の母親の、夜神家の口利きのおかげだったって知っちゃって、いつの間にか買収されたみたいになってて……」
『学生の内からプロの芸術家として活躍していた』。
狂信者さんからも聞いた、アトリさんの前世での『すごい話』。表現者として、私が見上げずにはいられなかった部分。
けれど……アトリさんは、いつだってそれをひけらかすことも、自慢することも、自分を天才だって言うこともなかった。
「でも、きっと自分の親がした事なんて、あの子はなんにも知らないし、知ったとしてもワタシがあの子を見捨てたことでプロになったのは本当だから……ずっと経ってから会いに行っても、憎まれてるだろうって思ったら行けなくって……」
「アトリ……」
「だから……あの子が、あの後、あの家から出られずに死んじゃったなら、きっとそれはワタシのせいだから……保身を選んだワタシが殺しちゃったみたいなものだから……あの子には、ワタシを殺す権利がある……あの子は、悪くない……優しくて、光を求めてるだけ……」
本気の後悔と罪悪感の込められた懺悔。
そして……そこから先のアトリさんの言葉は、私を認識できないからこそ、絶対に私には言わないつもりだったであろう言葉だった。
「それに……夕子ちゃんのことがあったからこそ、同じ、狭い世界で苦しんでた蓬ちゃんにも優しくできたから……ワタシにとっては、やり直し、だったから……勝手に重ねて、ひどいのはわかってる……けど、あの子たちが憎しみ合うのなんて、嫌なの……」
「アトリ……」
「でも……もし、蓬ちゃんがちゃんと生きてて……夕子ちゃんも、この世界で生きてて……二人が憎み合ったりせずに仲良くしてくれてたら、そのためだったら……ワタシの目くらい、しょうがないからニャ。ワタシの、好きな子たちが、本気で憎み合って、ケンカするのを、見なきゃいけなくなるなら……目なんて、光なんて、いらないから、ニャ」
頭を殴られたような衝撃が脳に響いて、身体がぐらついた。
壁に寄りかかって、ぐちゃぐちゃになりそうな頭の中を必死に繋ぎ止める。
人でなしの人殺しな私を赦して、受け入れてくれたアトリさんの笑顔が頭をよぎる。
この世界を旅しながら、いつも手を引いてくれたアトリさんの姿が……いつも、私に楽しいものや明るい場所を見せようとしてくれた後ろ姿が瞼の裏に浮かび上がる。
保身を捨てて、身を呈してでも私を守ってくれたアトリさんの覚悟の表情が目に浮かぶ。
そんなアトリさんのおかげで救われて来た自分の姿が……心の中でぶれる。
「やめてよ……そんな理不尽なこと……『怒らないで』なんて、『憎んでほしくない』なんて、言わないでよ……アトリさん……」
夜神夕子を救えなかったから、日暮蓬のことはなりふり構わず本気で救った。
日暮蓬は救ってもらえた夜神夕子で、夜神夕子は救ってもらえなかった日暮蓬だった。
その私が、夜神夕子に怒りを向けていいのかわからない。
よりにもよって、誰よりも深い傷を負わされたはずのアトリさんがそれを望まないのなら、私の心をどこに向けたらいいのかわからない。
巡り合わせ、間の悪さ、出会いの順番……誰が悪いのか、誰を悪者として燃やせばいいのかわからない。
その源流を辿って行けば、アトリさんと夜神夕子を引き離した夜神夕子の母親に繋がるのかもしれないけど……その元凶は、この世にいない。
この世の全てを燃やしたって届かない場所で、きっと、夜神夕子を死なせた後も、人生を歪められた娘が何も知らず自分を捨てたと思ってるアトリさんへ復讐したことすら知らず、無責任に今も安穏と生きている。
「……くそっ、クソクソっ! クソッ!!」
聞かなきゃよかったと思ってる自分がいる。
ただ怒りを向けるべき相手だったなら、ただ憎むべき仇なら、ただただ理不尽で横暴なだけの悪役であってくれたならと、この数分間の記憶を消せるならそうしたいと願ってる自分がいる。
けれど……それは、叶わない。
もう、知ってしまった。
『戦争』みたいに……戦場で素顔も人生も知らない相手を悪役にして、照準を合わせて引き金を引くだけなんて論法は、もう通じない。
そんな馬鹿で単純で頭の悪い、誰にでもできる簡単な殺し合いの話は、もうできない。
後悔を背にした、アトリさんの愛情……真実を知らないまま振るわれた、夜神夕子の憎しみ……そして、行き場を失った、私の怒り。
この世界に、都合のいい悪役なんていない……愛憎劇に結論を与えてくれる劇作家なんていない。
けれど……
「それでも……夜神夕子を倒さなきゃ、アトリさんは治せない……」
「蓬ちゃん……」
「フィースさん……アトリさんのこと、お願いします……私は、アトリさんの近くにはいられないから」
ギルドの通路を、頭の中がぐちゃぐちゃなまま歩く。
一歩ごとに火の粉が散っている。周りの気温は上がってるのに指先は凍り付くように冷たくて、胸の中には変な熱が煮えたぎって苦しくて、息が苦しい。
けど、とにかく歩き出さないと、進まないと、そのまま身体の内側から燃え上がってしまいそうだから、足を前に進める。
幸運なのか、不幸なのか、ギルドの出口まで誰とも出会うことはなかった。
ただ、ギルドを出たところで……
「……どこへ行く?」
女の人と出会う。
少しだけ誰だろうと思ってから、それがライラさん……『デュラハン・ライラック』であることを思い出す。
普通の町で騒ぎにならないように、魔法で作った私の知らない女の人の頭を付けて変装しているからすぐに思い出せなかった。
「……わかんない。けど、ここじゃないどこかへ行かなきゃ……」
ここじゃないどこか。
自分で言って、なんとなくショックを受ける。
今までの旅は、狂信者さんやライエルさん、そしてアトリさん……いつも、誰かに連れて行ってもらっていたから。
けど、今はそうできない……私のこのグチャグチャをどうにかしてくれる答えは、きっと他人には教えてもらないから。
まともに行き先も答えられない私を見て、ライラさんは懐から取り出したメモのページに、さらさらと何かを書き込む。
そして、それを指先で投げ渡してくる。二つ折りのメモの表側には、地名らしきものが記されていた。
「途中に山や谷があって普通に行こうとすれば時間がかかるが、空を飛べるならここから半日もかからず行ける場所だ。この場所へ行って、屋敷の人間にこの手紙を見せて『第六位に私財の処分を頼まれた』と言え。強くなりたいなら、地下室を見てみたらいい。その後は全部燃やしていい……それから先のことは好きにしろ」
「…………」
「先に言っておくが、見るだけでも辛いぞ。強くなりたいのではなく楽になりたいだけなら、中身は見ずにそのまま部屋ごと全て燃やせ。そうすれば使用人が便宜を図る。心を癒やす術も、戦わずに生きていける道も、お前が望むなら過不足なく与えられるだろう」
言うだけ言って、私の横を通り過ぎてギルドの中へ入っていくライラさん。
元第六位冒険者として、今の私を一目見ただけでどれだけのことを察したのかはわからない。
だけど、私にとってはありがたい。行く場所ができただけでも、ありがたい。
「ごめん、みんな……少しだけ、いってきます」




