第441話 冷淡な必勝法
side テーレ
ダイアナの知らせを受けて急いで走った近くの賭場。
少しだけ悩みはしたけど、ダイアナとゼロには護衛の黒スーツたちと一緒に来てもらうことになった。知らせや他の店での事件が陽動だとしたら置いていくのは危険かもしれないから。
そうして、大人数で結構なりふり構わず押しかけた店のカジノルームの中には……異様な空気が満ちていた。
「な、なにこれ……」
「これは……知らせの通りですね」
席を空けることなくテーブルを埋め尽くすギャンブルの客に、次を待つ客で超満員。
休みなく挑戦されるディーラーたちと、やり取りされる高額チップ。そして、チップが出ていくたびに危機感を募らせるディーラーたちの表情からはテーブルに貯蓄されているチップのストックが削られているという状況を裏付けている。
普通はまずありえない、それはおかしな話だ。
カジノという商売の性質上、遊びたい客からの勝負を拒むことはできない。
けれど、高額の賭けが立て込んだとしても、よほど運が悪くない限りはディーラーばかりが負け込むということはない。むしろ、ギャンブルというのは基本的に確率計算で胴元が得をするようにできている。
どこのテーブルでもディーラーが追い詰められているように見えるし、これは偶然ではありえない。
そこまで考えて唖然としている私の、隣から……
「なるほどなあ……これは『マーチンゲール法』、いわゆる倍プッシュ理論の応用だろうね」
聞こえてきた聞きなれない声音にそちらを向くと、そこにいたのはダイアナの賭場にいた黒人の老爺と傍に仕えていた少年の召使の姿。
何故こんなところにと驚いた私の表情を読んでなのか、老爺は帽子を脱いで軽く会釈する。
「先程はどうも、一応はお礼を言っておこうかと思ってね。なに、私はこれでも教鞭をとっていたこともあってね。特に数字は得意なんだ。耳障りだというのならどこかへ行くが?」
「いいえ、お願いします。私たちはまだあなたほどに事態を理解できていませんので」
マスターが頭を下げ返すと、黒人の老爺は帽子をかぶり直して話を続ける。
確かに目の前の事態は一分一秒の内に切迫しているような空気だ。事態の理解に余分な時間をかけるわけにはいかない。
「では、解説しよう。なに、簡単な話だよ。転生者の世界……いや、賭け事の世界を知る者であれば、誰でも『倍プッシュ』についての理屈は聞いたことがあるだろう? わかりやすい言い方をすれば『勝った場合の配当がそれまで負けた賭けの損を上回る額になるように賭けをすれば最終的には必ず勝てる』という理論だよ。『彼ら』がやっていることの基本はそれだ」
「でも、『倍プッシュ』は机上の空論のはずよ! 勝った時の倍率が二倍だろうと、それは負けるたびに倍々式に必要な掛け金が大きくなるってことだし、勝ったところで結局は損した分と相殺してるだけだから最初の賭け金の分くらいしか利益が出ない。何より、勝つか負けるかの確率が五分五分だろうと、局所的な確率は偏る……普通は『倍プッシュ』なんてやろうとしても、すぐに賭け金が足りなくなる」
『ノギアス・マフィア』の賭場では、賭け金の上限や賭け方の制限はほとんどない。
ダイアナがやったように『勝ち続ければ賭場のオーナーにもなれる』というのはこの街の一つの売り、客を集める謳い文句にもなっている。
何でも買える街、そして誰でも覚悟と運さえあれば、どれだけでも稼げる街。それがこの街の魅力であり人の欲を刺激する魔力だ。
だけど、実際にはそんなの夢物語。
非合法なイカサマは『不運』に阻まれるし、確率は残酷だ。
『客が勝ち続けて店を潰す』なんて、まずありえない。ましてや、そのための『必勝法』など存在しない。
「まあ、そうだな。確かに『普通の客』であれば確率の偏りで賭け金がかさんでいく内に破産し、満足に利益を得るに至らないというのがほとんどだろう。中には早いうちに勝利の一戦にありついて多少のチップを奪い取れる客もいるとして、その損害は他の客が負けた分で十分に補填できる。だが……『無尽蔵の資金』と『確率の均一化』が現実的に可能ならば話は別だ」
「……まさか……」
「この街の『ルール』では、ディーラーのイカサマに対するペナルティは客よりもさらに重い。ゲーム自体の勝敗については多少のぶれはあってもゲームの基本理論通りの確率に近い形に収束するだろう。そして、確率論というのは『試行回数』を増やすほどに現実が理論値へと収束していく」
それこそ、宝くじを当てるためにはその期の宝くじを全て買い占めればいいというような話。
カジノは前提として『店が客の資金よりもはるかに膨大なチップを持っている』という事実によって、優位な立場を保っている。胴元が儲かるというのも、たくさんの客を相手にして『確率の収束』を起こしているからだ。
けれど、もしその客が『カジノよりも遥かに膨大な資金』を持っていたら。
そして、それを数度の賭けで大きく損なう可能性を持って使うのではなく『無数の客として同時並行で賭けをして確率の収束を起こしている』としたら……
「このカジノの客全員がグルになって、ディーラーのチップを削っているってこと?」
「ああ、おそらくはね。ほら、見てみるといい。あれほどの金額で賭けておいて、勝っても負けてもほとんど一喜一憂しない。作戦通りの金額を作業的に賭け、一定のチップを取得したらあっさりと最初の賭け金へとリセットして再試行。仮に一人が許容回数以上に連敗しそうになっても、そこで倍プッシュをやめて『店の所持金』に加わった分を全体で稼ぎ直せばいい。この人数と資金規模なら個人単位の『損切り分』はすぐに取り戻せるだろう。実に数学的かつ計画的だ」
「なるほど……確かに、理にかなっていますね。店からしたら『一回の賭けで店のチップ全てを奪い得る高額客』が『その勝率を限りなく確実に近づけてくる』ようなものです。本来そこまでの資金力があれば、そもそもギャンブルなどする必要すらないというのに」
「そうだろう? そうやって意識して見ると一人一人が最低限『勝ちやすい手』を選べるギャンブラーとしての技術の持ち主でもあるらしいが、それ以上に露骨なまでに『集団』としてカジノを攻撃しているように見えないか?」
そう、それが私が一番に感じた異様な空気の正体。
カジノルームに溢れているべき喜怒哀楽の感情が、ゲームの勝敗に一喜一憂する客たちの感情が全く感じられない、まるで地面に転がる砂糖に群がる蟻を見ているかのような感覚。
彼らは個を捨てて、巨大な一つの財源を小出しにして、次々とディーラーに勝負を挑んで『勝つまで』賭けを繰り返していく。
ディーラーたちもそれに気付いて少しでもゲームを遅延しようとしているけど、店の立場として長くはゲームを止められない。
そして……
「あっ……」
「三番テーブルが……潰れた」
「臨界点を超えたか。この店はもう手遅れだろう」
勝者に出せるチップがなくなり、新たな賭けを受けることができないと手を上げるディーラー。
テーブル一つが潰れただけなら、店には補充用のチップがある。けど、それも有限だ。
カジノは用意したチップを全て換金できるだけのお金を用意していなくてはいけない。逆に言えば、換金できないような額のチップは用意できない。
次々と手の上がるテーブル。中には、頭を抱えて俯いてしまうディーラーもいる。
既に店の予備チップも補充に使われていたのか、店の奥から出てきたスタッフも涙目で首を横に振った。
そして……
「『ウッズ・ハウス』陥落ね……まさか、こんな正攻法でこっちの利権を削って来るなんて思わなかったわ」
「パパ!」
「ごめんなさいね、他の店も見ていて遅くなっちゃった。『レクター・ハウス』と『ヤシロ・ハウス』も落ちたわ……ここと、同じようにね」
絶望の中で敗戦処理に入り始めた店につかつかと歩き入ってきたゴルディオ。
既に二つの店の惨状を見てきた彼の顔に驚きや動揺はなかった。
あるのは、自分への不甲斐なさ……だろうか。猛るでも怒るでもなく、この『攻撃』を防げなかったこと、部下たちを守れなかったことを自責しているのかもしれない。
「店そのものに他の店からチップを補給できるのは日中の準備中だけ。一夜の内に潰された店はどうにもならない……全てのチップの換金を一気に求められればすっからかんになって破産、それが嫌ならその交換を求めてきた客をオーナーに据えてチップを『店のもの』にすることでしか店は続けられない。実質、乗っ取られたというべきでしょうね……」
「でも、こんなやり方……」
ゴルディオと対照的に、ダイアナはかなりの動揺を見せている。
ダイアナも『賭場潰し』を経験した人間だ。けど、彼女には『ギャンブラーの矜持』がある。
きっと、賭場を潰したときだって最後にはディーラーと彼女の間に手に汗握る大勝負があったはずだ。
けれど、目の前のこれは違う。
膨大な資金と人数を武器に、作業的に店の資金を削り取る。それだけの行為、勝負ではなく『勝ちにも負けにも大した意味がない』、スリルも興奮もない冷たい確率試行だ。
認めたくないのだろう。
こんな形の『賭場潰し』が実現してしまうという事実を。
そうやって、私たちがどんな声をかけていいのかもわからずダイアナを見ている、そんなとき。
「おやおや、『ボスの娘』とそのまた娘がこんなところに集まってどうしたのやら。なんか面白いことでもあったか?」
ザッザッと、重なり合う足音を響かせてカジノルームの入り口から現れる集団。
その先頭で、一目で『取り巻き』とわかるグレースーツの男たちを引き連れながらこちらに皮肉を飛ばしてきたのは、四十絡みの眼鏡の男。
筋肉質なゴルディオと違って剣を振るったことなんてなさそうな、荒事なんかに手を出さずに生きていくならこれで十分だとでも主張するような痩身に、やたらと見栄えのする腕時計や金縁眼鏡。
事前に情報は聞いていて、特徴と態度からすぐにわかる。
もう一人の若頭『マニス』。派閥の人数ではゴルディオより下だけど、資産なら上回るというインテリ派ヤクザ。
護衛のように物々しく配下の『若い衆』を連れ立って現れた男は、目の前で起こっている惨状に向けて白々しいまでにとぼけた顔をしてみせる。
「おおっ、なるほど! 何事かと思ったら店が客に潰されたばかりで呆然としてたところだったか! そりゃ悪いことをした、親子して仲良く馬鹿面してる家族の団欒を邪魔したな」
「自分がやっておいて、このヒョロメガネ……」
ゴルディオの部下の一人が青筋を立てながら怒りを漏らすように呟くと、マニスの部下たちが統制の取れた動きで身構える。
ゴルディオの部下はガタイがいいけど直情的なタイプが多い。だけど、あちらは『雇われた護衛』としての部隊らしい動きを徹底しているような気配。
元はどこかの軍人か警備部隊か何かだったのかもしれない。
互いの間に緊張が走る。
暴力御法度のルール、『魔王の力』による『不運』のペナルティ。だけど、それがどんな形で結実するかは誰にもわからない。無理やり力に訴えれば、周囲が不運の巻き添えを喰うこともある。
暴走するとしたらゴルディオの部下。場合によっては『何か』が起こる前に止めなきゃいけないと私も身構える。
けれど、そんな中……
「あーらぁ? 今日のマニスちゃんはご機嫌みたいね。いつもは好んでアタシの側の店に来たりしないのに。よっぽどいいことでもあったのかしら?」
緊張した空気の中、場違いに感じられるほどに気の抜けるような声音でそう言ったのは、この場で最も被害を受けているはずのゴルディオ。
自分の派閥の店、部下の店とメンツを潰されたはずなのにそんなことをおくびにも出さずに、井戸端会議に参入者が現れたかのように、明らかな策謀の黒幕に声をかける。
「チッ……相変わらず、余裕ぶるのだけは一流かよ。人間として頭の出来が心配になるよ」
「あら、そうかしらぁ? アタシとしてはマニスちゃんの方が心配だわ。あなたがお金持ちなのは知っていたけれど、こんなに大盤振る舞いできるほどだったかしら? いけないところから借りてないか不安だわぁ」
もはや、策略を行ったか否かで腹芸などする気はないと、相手がやったことを断定して話す。
ここに来た時点で二つの店が潰されているのを見てきている。それだけで既にどんな策を相手が使ったのかは察せているし、それだけのことをするのにどれだけの資金が必要になるかも見当がついている。
ゴルディオも、肉体派ではあるが馬鹿ではないのだ。
そして、その上で怒りを見せることなく、じっとりと圧をかけるようにマニスに言葉をかける。それも一つの威嚇だろう。
マニスは思ったように動揺を引き出せなかったのがつまらないのか、ゴルディオの言葉に小さく嘆息して。
懐から、一枚の封筒を取り出した。
「世界は広いってやつだ。不景気な時も金貨そのものが減ってるわけじゃない。あるところにはあるんだよ、表に回らないだけで」
『空座の蝋封』。
ペーパーナイフで綺麗に裏面を剝がされてはいるけれど、送られてきたときの形をそのままに維持した書状の送り主を示す証明。
私とマスターは、それを知っている。蓬からの話で聞いた、『王都ガロム』を襲撃した組織の好んで使う裏切りの証、下剋上の教唆。
「『王弟派』……王都にテロ攻撃を仕掛けられるだけの組織なら、確かに資金も人員も用意できるだろうけど、まさかそれをこんなふうに……」
「なに、勝てば官軍負ければ賊軍ってやつだ。もはや風前の灯火の旧体制と王手のかかった新興勢力、それなら身の振り方を早めに切り替えておいた方が賢いだろ?」
そう言って、ダイアナの傍にいるゼロに視線を向けるマニス。
ゴルディオ派を潰そうとする動きの性急さの理由は、おそらく『王弟派』との取引だ。
蓬の話でレイモンド・フォン・クロヌスが『王弟派』を主導していると聞いたこと、そしてロバート・バルトマンと旧都の転生者たちが共にゼロを狙ってきたことから、『王弟派』は本気で祭壇を求めているのだろうということがわかっていた。
そのゼロが身を隠したこの街は、『魔王の力』で護られた暴力で攻めることが難しい土地。だから、現地の『後継者争い』に介入することでゼロを手に入れようとしている。
それも、こんな資金と人員を動かして、街のルールに抵触しない『賭博』を通した経済攻撃でだ。
「いいか、ゴルディオ。『こういうこと』は、これからも起こる。この街からそっちの店が一つたりとも残らなくなるまで、毎晩だ。そうすれば、遠からずお前はこの街に居場所を失い消えるだろう。お前の部下も、縄張りも。全部こっち側になる」
「……そう、本気なのね」
「ああ、本気じゃなきゃこんなことはしない。だが、こっちも必要以上に時間をかけるのは非効率的だ。だから、お前にチャンスをやる」
マニスは指を立てる。
一本ずつ、見せつけるように。
一、二、三本。
「三日だ。三日後のこの時間までに自分から全てをこちらに渡すなら、お前の部下も縄張りの人間も元からこっち側だったのと同じように扱ってやる。お前が自分で譲渡を決めて派閥の部下を説得した方が、こちらも後で面倒が減るしな。三日間ってのはその説得のための時間だ。いいだろ? 前からやる気がないってポーズだったんだ。それを本当にするだけだ」
マニスははっきりとそう告げると、返事は聞くつもりなどないというようにそのまま踵を返す。
そして、ほぼ同時に……取り巻きの中から、笑い声が響く。
「ハッハッハッ! 三日も待ってやるなんてこっちのリーダーはお優しいな! そう思わないか、狂信者!」
立ち替わるように出てきたのは、攻撃的な笑みを浮かべたワインレッドの髪の男。
マスターから聞いた外見的特徴と一致するのは……マスターがカジノスタッフをしていた時に勝負を持ち掛けてきた貴族ギャンブラーのオスカー。
彼はゴルディオではなくマスターに視線を向け、ニヤリと笑う。
「俺としちゃ、どうせなら店を守ろうとする『幸運の女神の転生者』との対決、『神のご加護』とやらと俺みたいな『天性の勝ち運』をぶつけ合ってみたいと思ってたんだ。だってのに、当の本人がディーラーにも客にもならねえってんじゃつまらねえ話だ」
明らかに集団の和を乱す勝手な行動。
だけど、マニスはそれをとがめない。『部下』ではなく対等に近い『協力者』と言うべき立場なのか、オスカーは堂々と歩み出てマスターに近寄る。
「その気になったらあるだけのチップを持って店に出てこい。いつでも構わないぜ? 『俺が潰した店』の権利書は俺が持ってる。取り返したきゃ遊んでくれよ、転生者様よっ」
「……随分と、自信があるのですね」
マスターが静かにそう返すと、オスカーは犬歯を向き出すようにさらに好戦的な笑みを見せる。
「ああ、俺はこの世に生まれてこの方、いいことしようと思えば裏目に出るが、他人をぶち負かしてやろうと思えばそうならなかったことはないんだ。『嫌でも自分だけが幸福になっちまう』、そういう星の生まれなんだろうさ。だから、せっかくならてめえの『幸運』なんて看板もへし折ってみたいんだよ」
そうやって、言いたいことを言い終えたというように背を向けるオスカー。
カジノを出ていくマニスたちと合流しながら、後ろ手に手を振る。
「逆にお前らがこっちの賭場を潰しに来てもいいんだぜ! その時は俺が相手してやるからな! ハッハッハッ! あばよ!」
勝利の凱歌か、焼野原の蹂躙のように整然と響きながら遠ざかる足音。
残されたのは、ほとんど勝利宣言に近い宣戦布告を突き付けられた私たちの重い沈黙だけだった。




