番外編:『和平等』という非人間②
side 和平等
俺が転生して最初に踏んだのは浜辺の湿った砂、最初に目にしたのは海だった。
新しい世界では俺の前世での知識は役に立たないかもしれないと考えて『技能を再編する』という能力を選んだ。
念のために事前に確認できる事項は可能な限り確認し、呼吸するだけで有害物質を取り込んだり突然感知不能な脅威に襲われたりという場所には出ないことは知っていたが、実際に『転生』というものを肌で体感すると色々と感じることはあった。
元々、『地球の常識』だって俺にはそれほど馴染みのないものだ。
その点で言えば他の転生者よりも順応しやすいのかもしれないが、逆にこの世界に近いファンタジー系の創作というものをほとんど知らないのは不利になるのかもしれない。
そもそも、ネットも電力も普及していないこの世界でそれらの恩恵に慣れすぎた『現代人』が本当に生きていけるのか、環境の違いで健康寿命はかなり縮むのではないか……そんな、種々の思考が頭を巡った。
そして、とにかく情報と生活基盤を得ることが優先だろうと思い、俺は仕事を探した。
能力を使えば経験のないものであろうとある程度は対応できるが、可能ならば勝手のわかるものがいい……さらに、できれば目立たず、身元が不明でも追及されないところがよかった。
戦女神の神殿に頼ればわざわざ仕事などせずとも養ってもらえることは知っていたが、神なんて概念を信じる集団と上手くやっていけるとは思えなかった。
そうして、俺が見つけた仕事は寂れた灯台守の家の手伝い。
年老いた夫婦と遅くに生まれた若い一人娘の三人家族が暮らす小さな家への住み込み、試験的に機械で作られた灯台の機械整備のためにその構造や仕組みをある程度理解できる男手が必要とされていた。
俺にとっては、灯台の機構なんて大きいだけで昔から教材として組み立ててきたパズルよりも簡単なものでしかなかった。
どちらかといえば、俺がその仕事において強く求められたのはもう一つの立場……俺と変わらない歳の娘の家庭教師だった。
俺は転生者として、公用語とされる標準的な文字が読める。
識字率の低いこの世界ではそれだけでそれなりの技術価値があると言えたが、それ以上に求められたのは俺自身の理解力。
灯台守の家は、船乗りたちからの手土産や仕事の礼として(その多くは船旅の途中で汚れたり虫食いになったりと売り物にならなくなったものだったが)大量の本を貰っていた。
年老いた灯台守の家が技師の経験者を求めているという話を聞き、家に赴いた俺が本に興味を示し、それに目を通して理解できると言ったことで、ほとんど娘の家庭教師としての役割が主目的として雇い入れられたのだ。
その娘は、教育環境を考えれば信じられないほどに聡明だった。
それこそ、もっと整った学習環境であれば俺以上の天才性すら発揮したであろうとわかるほどの……能力を使って、それが確かなものだと視ることができるほどの才能の持ち主。
だが、老夫婦の遅くにできた一人娘で、仕事上灯台を離れられない両親と共に街からも距離のある寂しい土地に住んでいるせいで、その才能は埋もれかけていた。
両親も娘の聡明さを知ってはいるがふさわしい教育を受けさせる資金や学識はなく、船乗りたちから集めた本があってもそれらは分野やレベルがバラバラで、それだけで理解するのは難しいものだった。
なんとか字が読めてそれが発話の知識と繋がっているとしても、専門的な知識はその前提となる知識がなければ理解することが難しい。
娘には、近々大きなチャンスが訪れようとしていた。
老夫婦の知り合いの紹介で『学院』に入学するための試験を受けられる機会を得たのだ。だが、基礎もなっていない独学でそのチャンスを掴むことは難しかった。
俺は自分自身がこの世界の知識を得るためにもその家庭教師を引き受けた。
娘は苦学してはいたが、それはそもそも知識を学習するための効率的な方法を知らず、その知識を理解していて質問に答えられる教育者がいなかっただけだった。皮肉にも、物心つく前から一流の教育を受けることだけに時間を費やしてきた俺は教育する側の人間になっても苦労はしなかった。
そしてまた、娘自身の意欲も大きかった。
彼女は、決して名誉欲や功名心が高いわけではなかったが、自分を育ててくれた両親に楽をさせてあげたいと、歳を取り灯台守の仕事にも無理が出始めた二人に中央での仕事で仕送りをして楽な隠居生活をしてほしいと願っていた。
それが八年前……俺と彼女が十五歳だった頃だ。
俺は、彼女との出会いで『新しい世界』に希望を感じ始めていた。
この世界には、自分を超える才能の持ち主がいて、彼女は『学院』という場所へ行ってより大きなことができるようになる。
彼女はきっと、俺のようにはならないだろう……家族に愛され、その愛に報いるという目的があって才能を磨く彼女は、俺のように、他人のために使われるだけの天才ではなく、その才能で自分を幸せにしていくことができるのだろうと。
そう思って……無事に試験を通り抜けた彼女を、送り出した。彼女の代わりに、しばらくの間は老夫婦の仕事を手伝うと言って。彼女が憂いなく『学院』に行けるように背中を押した。
たった一年と少し後、彼女が両脚を失って帰ってくることになるとも知らずに。
一部は、後から俺自身が『学院』に入って調べた話だ。
彼女は『学院』の同年代の人間の中でも一際目立って優秀だった。意欲があり、効率良く学習し、留まることのない才能をみるみる引き伸ばす。
そんな彼女が他の生徒よりも早く与えられた研究課題。
彼女は自分への期待の現れだと、張り切ってそれに臨んだ。それは、既に一学生の与えられるようなものではなく、最前線の研究者が研究成果として扱うにふさわしいテーマだった。
そして……彼女が、自らの心血を注いで書き上げたそれを提出したその数日後、その評価を待つ彼女は突然、道端で何者かに背を押され、馬車に轢かれるという『事故』に遭った。
奇しくも、おそらくは俺が死んだときと同じように人気のない場所で……狙い澄ましたように、事故を装って再起不能のダメージを与えられた。
何者かに突き飛ばされた彼女が馬車の車輪から少しでも逃げようと動いていなければ、両脚どころか命がなかったはずだ。
彼女は治療を受けた後、実家へ送還……『課題』は有耶無耶となり、その数ヶ月後にはその出題者であったはずの研究者の研究成果として彼女の課題がほとんどそのまま書き写されたものが公表され、高い評価を得た。
データの纏め方も表現法も、俺が彼女に教えたそのままだ。見間違えるはずもない。
それまでの数年、ろくな研究成果を出せずに行き詰まっていた研究者の『天才的な新発見』はそいつの地位を大きく上げ、迫っていた次の学部長選挙でそいつを勝利に導いたそうだ。
つまりは……彼女は、その才能を、そのたった一つの研究成果を横取りするためだけに利用され、『学院』を追い出すために事故を装って脚まで奪われたのだ。
事故は、深く調べられることはなかった……建前としては『能力あるものに平等』な学院ではあったが、平民出身の彼女のために貴族家出身の研究者に疑いの目が向けられることはなく、それは単なる『不注意な生徒が馬車の前で転んで轢かれた』という形で終息した。
帰ってきた彼女は泣き続けた。
轢き潰されて失われた脚は、裕福とは言えない灯台守の娘が得られる治療ではどうにもならなかった。
時間が経ち、その『事故』の本質が露わになるほどに……彼女が天才だったからこそ訪れた不幸に、惨めさと苛立ちが増した。俺の能力でも、彼女の脚を生やすことはできない。
この世界でも、『天才』はそうでない人間に利用される側の立場だった。
俺が家庭教師なんて引き受けなければ……彼女を送り出さなければ、彼女は脚を失うこともなく、ただ恩恵を受け取る側でいられたのだ。
俺は償おうと思った。
彼女に、一生をかけてでも失った分の自由と幸せを保障しようと……俺とは違い、両親に愛され満たされていた彼女に『天才』であることを押し付けて幸せを奪ってしまった責任を取ろうと。
だが……彼女は、俺がそれを告げる前に死んでしまった。
ドアノブに包帯を巻いての首吊り自殺……遺書には、こんな身体になって一生みんなに迷惑をかけながら生きていくことに耐えられないという旨が記されていた。
彼女の部屋に食事を運んでいったおばさんから、彼女が死んでいると聞いて頭が真っ白になったことを憶えている。
二人はどうしてだか、俺を責めることはしなかった……ただ、気付けば俺は灯台を離れていた。自分で逃げ出したのかもしれないし、老夫婦が辛い思い出の強く残る狭い家からどこかへ移るように言ったのかもしれない。
確かなことは、取り返しのつかない現実だけ。
俺が隠居気分になって、自分で才能を使うのを拒否して他人にその役を押し付けたから……彼女が不幸になった。
『天才』が自分以外の人間を押し退けて最前線に立つのは義務だ。
誰よりも『才能ある人間』であるということは、他の人間を『才能のない人間』にするということ。期待も、重責も、敵意も、全てを一人で背負って他の人間を守るということだ。
もう同じ悲劇を繰り返さないためには、全てをはっきりさせなければならない。
『無能な人間』が不相応な名声や立場を求めて『才能ある人間』を利用する余地のないシステムを、そして『才能ある人間』であっても最低限の生活や生存権のために不要な天才性を発揮する必要のない、必要以上の期待が発生しない環境を。
真の『天才』が人生を無駄なことに費やし、その他の多くの人々が僅かな才能の差を競い合い、愚かな蹴落とし合いを演じることのないようにするための明確な数値を。
欲を言うのであれば……『才能』が人生の優劣や立場、役割や関係性を決めつけてしまう要素、人生を縛る呪いなどではなく、総じて比べようのない純粋で本質的に無意味な『個性』となってほしい。
俺は、そのために能力や知識を使い『学院』に入り込んだ。
科学技術は人間の能力の差を縮め均質に近付ける。
『才能』が人生を歪めてしまうのは、人間に何かが不足し続けているから、何かを得るために生まれ持った性質の偏りすらも利用しなければいけない環境が生まれるからだ。
ほんの一部の、本当に最前線を進めるに足る才能の持ち主だけが効率的に技術革新を進めれば、本当は才能のない人間が本物を利用して蹴落とそうと思わなければ、他の者は才能に振り回されず生きることができる。
より広く技術が普及し、競争も格差も必要がなくなれば、人間は誰でも同じ技術によって才能に関係のない生き方ができる。
だが、今のこの世界のシステムはダメだ。
個人の精神に質が依存する魔法技術を基盤とした技術体系、多くの転生者から得られた未来的技術が格差を保つために集積され秘匿されている現状、そして自然を征服しきれていない非力さからの根本的なリソースの不足。
仮にそのまま俺が革新的な技術を提供したところで、それは貴族が既得権益を守るために握り潰すだろう。
貴族に隠れて違法に技術をばら撒いたところで、結局は普及の前に潰されるだろう。
だから、どうしても世界を変えるために、その活動を守るための力が必要だった。
アオザクラに出会い、その読み取った技能からやつが少数部族である『森の民』であると知った。そして、さらに復権のために中央政府に反抗を企てているということを理解し、俺は自身が転生者であることを明かして協力を申し出た。
……俺にとっては、アオザクラの部族復興という活動はそれほど重要ではなく、やつが中央貴族であり、中央政府に反抗するために家の資金を動かすだけの動機があるというのが重要だった。
そして、水面下の活動を重ね、アオザクラの動かせる資金では限界が見えてきたところでリリアが現れ、既にノーラン大領主の地位にあったアレクセイと話が付いた。
明らかな暴君であるあいつに力を与えるのには抵抗があったが、思考が単純な上に能力拡張と俺の技術の量産を求めているという条件に……その対価として提示されたこれまでと桁違いの活動資金と自由に研究を進められる隠れ家に、俺は首を縦に振った。
そうして、組織の規模が大きくなり、ドラゴンライダーやピエロのような転生者が現れ、『研究施設』は歪みながらも大きくなった。
中央政府を倒し社会構造を作り替えるため、二度と彼女のような悲劇を生まないため、血みどろの道を進んできた。
自分が、どうしようもなく取り返しのつかない罪を重ねてきたことはわかっている。
平民だからと脚を奪われた彼女と同じように、低層民だからと数え切れないほどの、数えたくもないほどの人間を犠牲にした。
アヤメ一人を気紛れに掬い上げたことなんて何の償いにもならない……そのアヤメにさえ、必要だからと『才能』の呪いを与えてしまった。
俺の知識と能力で力を得た他の転生者の悪行も、いつか全ての人間に還元される利益のため、これまでの犠牲で成り立ってきた『研究施設』を存続させるためと目を瞑ってきた。
これほどのことをしてきて、これだけの犠牲を積み上げてきて、ようやくここまで来たんだ。
あと少しで、ようやく世界を変えられるんだ。
もう必要以上の犠牲を積み重ねることなく、誰も不幸だと思うことすらない形で、全ての誤りを修正できるんだ。
ようやく、俺という『天才』に与えられた義務が果たされ、これまでの犠牲が報われる。
だというのに……
「何故なんだ……どうして、よりにもよって今ここで、そんな称号に目覚める……本当は才能ですらない『信仰』で、生まれ持った義務でもない単なる信念で、どうして俺の前に立ちはだかる」
鎧の中の呟きは、きっとあいつには届かない。
後光を背負い、揺るぎなき精神と世界改変にすら流されない強固な『現実』を保持する狂信者は、真っ向から俺に睨みを利かせる。
あいつがいる限り、あいつに睨まれている限り、俺が世界を改変しても新しい形を元からあったもののように受け入れさせることはできない。
俺の引き起こす改変の波はあいつという不動の大岩によって砕かれ、完全な形での変化を妨げるだろう。そんな不完全なルートでこの世界を新旧の在り方が混在する不安定な形へと改竄するわけにはいかない。
そして、あいつの精神はどんなスキルを使っても曲げられない……俺が目的を果たすには、どうあっても『殺す』しかない。
「たくっ……ついてねえな、クソが」
本当は、こんな関係になりたくなかった。
もっと早くに、罪を重ねる前に出会って、学院のレストランで話したときのように……俺の理論を真っ向から否定できるあいつと、もっとたくさんの考えをぶつけ合ってみたかった。
間違い始める前の『研究施設』に来て、その頃の俺たちとぶつかってほしかった。
だが、それは叶わない幻想……無駄な思考だ。
ただひたすらに、ここまで間違い続けるまで出会えなかったこと。それだけが、どうしようもなくついていなかった。




