番外編:『守護者』の瞳の外側で①
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『この記録を誰かが読んでいるとき、きっと私は生きてはいないだろう。
私はこの記録に己の名を記すつもりはない。
無知なる人々である私の肉親やその子孫にいらぬ迷惑をかけることはできないからだ。
この記録は、いつかこれを読むべき誰かの手に渡ることを祈って人伝に無知なる人々の世界へと流すとしよう。
私はこの記録を遺書になるであろうと考えている。
それほどに、つい先刻託された任務は生存を望むべくもない危険なものだ。だが、この任務だけはたとえ死んでも果たさなければならない。
私の手には、二つの武器がある。
一つは『真実の記された手紙』であり、もう一つは一発の『銃弾』だ。
私はこれを次なる同胞へ渡さなければならないのだ。これまで、私の元へのこの小さな最終兵器が届くまでに命を散らしてきた同胞と同じように。
これは、表の世界で起きている大戦を終わらせるためのもの……ドイツの国家元首を名乗り人心を操る独裁者、特異な能力を持って私たちとは異なる世界から現れた、かの侵略者を滅ぼすために必要なものだ。
実を言えば、異なる世界から特異な能力を持つ侵略者が現れること自体は珍しいことではない。そのほとんどはこれほどの規模に影響が出る前に我々か『守護者』によって無知なる人々の暮らす表の社会に知られることなく処理されてきた案件だ。
だが、今回は少々運が悪かった。あるいは、前回の大戦の発端が神秘の関わる余地のないものであったように無知なる人々の作り上げた国々の保っていた危ういバランスが限界を迎えていた、侵略者の介入がなくとも大戦が起きる運命にあったのだろう。
今回、『守護者』は初期対応に失敗した。
侵略者はその言葉によって人心を惑わす能力を持っていた。正体を感知される前に巨大な権力を手に入れた独裁者は、これまでと同じように人知れず討ち果たすことはできない。
無数の人間を操り人の壁を作り上げたかの独裁者を、連合国という形で認識されかけている『守護者』が討ち果たそうとしたのなら、無知なる人々の社会には致命的な崩壊が起こるだろう。
唯一の勝機は長らく歴史の表舞台を退いていた我々という、神秘の使い手が存在することをやつが認知していないことだ。
技術体系の異なる世界の神秘の知識を持つが故に、この世界における神秘についての記録を無意味な『迷信』の産物、この世界に生きる『魔法の使えない人類』の愚かさの証明と認識している。
だからこそ、我々の行動はやつにとっての致命打になり得る。
我々は日陰の中を歩むことに慣れているのだ。
かつて『魔女狩り』と呼ばれた『守護者』との衝突を経て、人目を驚かせるような奇跡の多くを失った代わりに『人払い』を初めとした認識されないことに長けた発展を遂げた。技術面に限らず、連絡手段も組織構造もこの大仕事を成し遂げるに足りるだろう。
だが、その後はおそらく我々神秘の担い手にとっての暗黒時代……衰退と淘汰の時代が訪れる。
今でこそ侵略者に対抗するために『守護者』は我々の活動の多くに目を瞑っているが、この大戦が終われば彼らは表世界への介入に踏み切った我々を裁かぬわけにはいかない。
『守護者』ではなく、しかし完全に無知でもない人々の多くにとっては異なる世界からの侵略者の振るう能力と我々の扱ってきた神秘に区別はつかず、また区別する必要もなく危険なものとして扱われるはずだ。彼らにとって、自分たちをいつでも暗殺できることが証明されてしまった我々は恐怖の対象となるだろう。
我々と『守護者』、長きに渡る裏世界の対決に我々の敗北という形で一つの決着が付くわけだ。
だが、それだけの犠牲を払うことになるとしても我々は戦わなければならない。
かの独裁者は侵略者であるが、その支配拡大で起こることは個人による世界征服で留まらない。異世界からの侵略者は、その背後の高位存在の足掛かりなのだ。
かの存在の降臨を許せば、この世界が護ってきたあまりにも多くのものが失われるだろう。
この記録は私の個人的な、運命への細やかな抵抗だ。
この本には一つの呪いをかけておく。
『守護者』や私の研究を受け継ぐ意思のないものには大した価値のない古びた本にしか見えないように……もしも、私の研究ばかりであった人生に少しでも価値を見出してくれる誰かがいたのなら、その人物がいつの時代、どこの国の誰であったとしても惜しみなく私の記した知恵を受け取ることができる姿となるように。
これは自己満足のための記録だ。
これから衰退していくであろう我々の積み上げてきた僅かばかりの叡智が、世の陰に潜みながら受け継ぐためだけに受け継いできた稚拙な術理が、ただ忘れ去られていくのではないと思いながら死地に赴きたい、それだけのことなのだ。
だから、もしもこれを読んでいる者がいたとしたら、どうか気負わないでほしい。
次へと受け継がなければならないなどと思わなくていい。
ただ、我々のいない時代を生きていくであろうキミの糧になってくれることを、私の人生が誰かの人生をより善くすることになったと、それだけを夢見て散ってゆこう。
では、さらばだ。
どこの誰かも知らない我が最後の弟子よ。
キミの生きる世界が、我々の勝利によって護られた未来にあることを願う。』
「ちょっとー、今日はそろそろ帰るよー。なんか気になるものでもあった?」
病死した母方の祖父の遺品整理。
ほとんど面識のなかった老人の家にあったものの中から何か気に入ったものがあればもらっていいと言われた六、七歳かそこらの少年は、母親からの呼びかけでつい読み耽っていた『絵本』から顔を上げた。
そう、きっと『絵本』だったはずだ。
少年はよく本を読む方ではあったけれど、天才的なわけでもなく、速読ができるわけでもない。そんなただの子供が短い時間でそれだけの物語を理解できるとすれば、それはきっと『絵本』くらいのものだろう。
遺品整理に来ていた母と祖母は大して思い入れのない、古くさい品々に顔を顰める。
少年が昔から言い聞かされていた話によると、祖父と祖母は宗教的な軋轢……といっても同じ『仏教』の中の宗派の違い程度のことのはずなのだが、些細なことから夫婦喧嘩が絶えず良い家庭ではなかったらしい。
祖母は随分と前に祖父と離婚している。
母と祖父の関係もよいものとは言えなかった。遺品整理にしても他に血縁がいないというだけで、受け継ぎたい何かがあったわけでもなかったのだろう。
「あー、ずっと読んでたのそれ。うわっ、かび臭っ。さすがにそれは処分するしかないって。というかお父さんこんなの読む人だっけ?」
「ほらぁ、あれじゃない。物置の奥にあった、お爺ちゃんの」
「ああ、あの戦争行ってたって人?」
「そうそう、戦争負けたのに生きて帰ってきたって皆に言われて自殺しちゃったってお爺ちゃん」
「じゃあどっか外国の本? 読めるわけないわね。汚いし、売れないだろうから次のゴミでだしとくわ」
その『絵本』はあっさりと少年の手から引き離され、少年は手を引かれて母親に連れ帰られる。
遺品整理の機会は以降も何度かあったが、二度と少年がその『絵本』を目にすることはなかった。
おそらくは、これまでの持ち主たちの手で『なんとなく』世界を渡ってきたそれは、不要なものとして処分されてしまったのだろう。
けれど、その少年の記憶の中だけには……確かに、そこに描かれていた全てが刻まれていたのだろう。
西日が室内を橙に染める夕暮れの工房。
思いの外長くなってしまった『思い出話』は、ごく自然に終わりを告げた。
秘密の告白という空気でもなく、何かを隠そうという様子もなく、ごくありふれた『ずっと昔に読んだ妙に印象に残る物語』のお話というように。
「というのが、昔読んだ本の内容とその顛末なのですが……今にして思えば終戦直後だか冷戦だかの時期に描かれた本の内容で、かの独裁者が異世界人で世界の裏側では神秘の担い手の活躍があったというのは創作にしても大胆すぎる物語だったように思いますが、妙に心に残っているのですよ……どうしたんです、アトリさん? まるで赤ん坊が乾燥剤を呑み込んでしまったのを目撃したような顔をして」
「あ、いや、ニャハハ……その本のこと、一度読んだだけなのによく憶えてるニャ」
「まあ、その一冊にいくつかの物語が描いてあるタイプだったと思うのですが、その全てを憶えているわけではないので。時折、ふともう一度読みたくなって同じ本を探したりするのですがタイトルもわからないもので見つからず……キーワードをいくつか検索エンジンにかけていたときにアトリさんの作品を見つけたんですよ。ほら、一時期だけネットで公開していたシリーズがあったでしょう? あの『大きい人と小さな妖精』とかの、あれでアトリさんのことを知りました。アトリさんもあの絵本を読んだのかなと思いまして」
「あー、うん、あれニャー。元ネタはヨーロッパの民間伝承みたいなもんだからインターネットだと出なかったかもニャー」
「なるほど、もしかしたらあれはそういった物語を集めた本だったのかもしれませんね」
確かに、思い当たるシリーズは一時期だけネットで公開していた。
公開してそんなに経たない内に『守護者』に見つかって消されたけど。ちょっとだけワタシにとっての黒歴史というか……一時期参考のためにってアーティストサークルに所属してたときの作品だ。
アーティストサークルといっても趣味のグループというよりも、本物の神秘の情報を『守護者』に検閲されて衰退していくワタシたちの世界の存在を主張するためのアートテロリズムに近い活動もしていて、表の世界でいう呪いの人形やら事故物件やらという部類のものの内、少なくない事例に関わっていたりもする。
ワタシは技術だけ盗めればよかったから、ノルマ的なものとして秘匿された裏世界の逸話や事件、それに魔術教本によく描かれる例題の創作伝承なんかをわかる人にはわかるという程度に示唆する作品をネット公開して『ちゃんと主張してますよー』みたいなことはやっていたんだけど、彼にはそれが印象深く見えたのだろう。
神秘的な意味合いを多分に含んだ作品ではあったし、幼少期に一度きりであっても『本物の魔導書』に触れたことのある人間なら感じるものがあるのは不思議ではないけど……
「狂ちゃん、ちょっと唐突だけど、今から言う単語について知ってるか知らないかだけ答えてくれるかニャ? 強制じゃないけど」
「はい、構いません。どうぞ」
ほぼ確信してはいるけど、確認する必要があることだ。
彼が、どの程度知っているかについて。
「その一、『第二倫敦』」
「……いいえ、知りません。ロンドンならイギリスの首都だと記憶していますが、第二となると……『新宿』に対する『西新宿』みたいなものですかね」
「その二、『テレマ僧院』」
「かの魔術師アレイスター・クロウリーさんの作った施設だったと思います。近代オカルト系では有名な施設ですね」
「その三、『第六天魔王対策本部 本願寺』」
「『本願寺』だけなら日本史で習いましたし、織田信長公の伝記では必ず出て来ますね」
「その四、『アイルランド妖精民主帝国』」
「アイルランドだけなら」
「その五、『天竺大雷音寺』と『桃源郷雑技団』」
「天竺大雷音寺は知っています、『西遊記』の目的地ですし……しかし、桃源郷はともかく、その名を冠する雑技団というのは知らないですね」
「その六、『国境なき騎士団』」
「有名なNGO……いえ、『医師団』ではなく『騎士団』なら知りませんね。申し訳ない」
「その七、『バチカン秘密暗殺部隊』」
「歴史サスペンスの映画とかでたまに出てくる設定……ということになってると思いますが、真実はどうなのやら」
「その八……『連合国軍月面支部エリア51』」
「『エリア51』は有名なUFOの墜落現場だと思いますが確かアメリカ合衆国の基地であって連合国軍のものでは……えっ、というか月面なんですか? 確かに正確な位置は公開されていないそうですが」
「うん、ありがとニャ。これ知ってたらその道の専門家って感じの質問だから知らなくても気にしないでニャ」
一通りの質問を終えて、一息つく……やっぱりだ。
彼が明らかに仙道系の『天人化』の術式に【神のものは神の手に】なんて聖書由来の名前を付けていたり、つい先日話した彼の裏面たる『彼女』がワタシのことを神秘を知る側っぽいってだけでどこか『守護者』みたいに認識していながら悪魔としての側面を隠そうとしないからそうなんだろうと思っていたけれど。
現代に生きる魔術師が必ず知っておくべき有名どころの魔術結社や『守護者』側の組織への質問が全滅。
というか、いわゆる『無知なる人々』に向けて行われているミーム散布での隠蔽……今の時代、存在自体を隠しきれない規模の組織や場所を隠すためにその名前をフィクションや都市伝説の一部として有名にすることで魔術結社について検閲洩れする情報を『フィクションについての話』だと認識させる世界的な情報工作。
それによって『表社会の一般人』に与えられているだけの認識と同程度の認識しかない。
ローマ教皇直属の暗殺部隊についての認識を濁す辺りは多少は察しているはいるのかもしれないけど、知らないものはちゃんと知らない。
神秘の担い手として、呪い対策の『真名隠し』や神秘の底上げのための『男女性の両立』みたいな表の世界でも慣習的に行われることがあるレベルの儀式については実用できるくらいの理解があるけど、実用技術以外の社会事情や歴史についての裏の知識が全くない。
そして……
「しかし、アトリさんは本当にすごいですね。博識ですし、手先も器用でちゃんとしたものが作れるんですから。私は不器用なもので呪紋くらいまでが限界で。もっと複雑なものを描こうとするとバランスが悪くなって上手くいかないんですよ。おかげで大抵の儀式や製作物はテーレさんに任せきりです」
「ニャハハハハ、その大雑把なところも狂ちゃんのいいところだニャ」
結局、この話についてそれ以上の深く突っ込んだ話をしなかったように。
十分に聡いと同時に物事を柔軟に受け入れるに足る大雑把さがあったからこそ、彼は自分の手で新たな魔道を切り開くに至ったのだろう。
彼は知らないことはちゃんと知らないけれど、知っていることは当たり前すぎるほどに知っている。
それこそ、他の人間が半信半疑以下の割合で効用を疑い『迷信』だと思っているものを法則性で整理して確かな『御利益』を得られる『正しい儀式』を導出できてしまうほどに。
自分の持っているその『特技』が他の人間にできない理由がわからない……それどころか、他の人間にとって不可能なことができてしまっているという自覚がないほどに。
彼の神秘を扱う法式はほとんど我流だ。
けど、違うプログラム言語で作ったソフトでも同じ数式を解くことができるのと同じように、最終的な出力として同じ効力を発揮するのに、やたらと古めかしいラテン語の詠唱や格式高くて由緒正しい魔法陣は必ずしも必要ない。
『入力された数値』と『出力される数値』の相関から途中に隠された演算過程を推定できる思考力があれば、ソースコードを覗かなくても同じ機能を発揮できるソフトは誰でも造れるのだ。
その入力と出力の間の不明領域を理解するのを諦めて『ランダムな数値が出力されるだけの意味のないものだ』と因果関係を否定することなく、真剣に考え続けることができれば、理論上は誰でも。
彼はきっと、私みたいな代々続く担い手に受け継がれた秘密の知識を知らなくても、理論上は現代でも生まれ得るとされている『第一世代』に近いだろう。
彼の術理の基本は、本当に現代日本人の生活において不自然のない範囲で習慣的な『儀式行為』を『ちゃんとやること』。
長い歴史の中でいろんな阻害要素を織り交ぜられて形骸化させられてきた儀式行為から神秘の断片を蒐集して、その共通点から本来の必要要素を抽出して、独自の理論で本質を復元している。
遠い昔から伝統の保護と秘匿が染み付いてしまった『正統派』の魔術師……他流派の要素を気軽に取り入れられる寛大さと柔軟さを失ったワタシたちからは失われて久しいやり方だ。
何より、それを特別な技術ではなく『人間が当たり前にすべきこと』だと認識して当たり前にやっている。
よく、日本人の不信心さの揶揄として『クリスマスにはケーキを食べ、大晦日には寺で鐘を撞き、正月には神社に行く民族』という表現がある。
それだけの短期間に宗旨換えすらすることなく三つの宗教的イベントを掛け持ちするという行為が、他の宗教に生きる人々よりも多くの儀式を行いながら最も信じていない証拠になるという皮肉だ。
それと同じような理屈で『全てを信じるということは何も信じないことである』……そう言って憚らない人間は多い。
自分に都合のいい時だけ自分に都合のいい教えだけを語る、休日や祭が欲しいためだけに宗教的なイベントを口実として利用する。『儀式』を表面だけをなぞればいい『作業』として処理する。多くの宗教を信じられるのはその全てをどうでもいいと思っているからだと。
その日本人からしてみれば、何か一つの宗教を真剣に信じているというだけで他の国の人間は自分たちよりも狭量で融通が利かないと、どこかで偏見的に見下している部分もある。
まあ実際のところ、日本人のそういうところは逆に世界から見れば無根拠な選民意識に見えて日本人への民族単位での不信感に繋がってるんだけど、それだってまた偏見だ。
日本人の中にも、『儀式』を『作業』で済ませない人間もいる。
その行為を面倒くさがって『しなくてもいい理由』を探すための屁理屈をこねるためでなく、真剣にその意味と意義についてを考え、重要な本質を見極めようとする人間だっていても不思議はない。
そして、『儀式』というのはただ説明書通りに手足を動かし、文章を読み上げるだけのものじゃない。
一般人に知られているものは形骸化した効力の薄いものだとしても、そのルーツは何らかの意図や意味を持った『儀式』だ。
その中には生活を安全で安定したものにするための合理的な習慣に端を発したものもあれば、科学的に利のある行為が統計的に見つけ出されたとされるものもあり、表の世界では科学的には全くの根拠ない迷信だと言われているものも……その中には、まだまだ表の世界の理解の追い付かない論理によって発生したものもある。
たとえば、食事前後の日本人にとっては基本的な『儀式』である『いただきます』や『ごちそうさま』だって、本来は立派な魔術儀式になり得るものだ。
食事という行為の意義の確認。摂取する食物、その栄養素の『使い道』を意識的に明確化することで、肉体の発達や栄養の貯蔵を効率化する『自分の肉体を操る術』の基本。
あり得ないような時間の断食を耐えたり、偏った栄養しか得られない環境で健康体を維持するという極限状態に対応して生まれた生存術。魔術的にルーツを辿れば『強い生き物を食べてその強さを取り込む』という原初の魔術儀式の必須要素を抽出した簡略版でもある。
表の世界では『より筋肉質になった自分をイメージしながらトレーニングした方が効果が高くなることは科学的に証明されている』なんて言われたりもするけれど、それは統計的に『そうしたらそうなる』ということを確認できたというだけで、実のところ脳や意識というものに関して『どうしてそうなるのか』というのが解明されたわけでもない。けれど、多くの人間は『科学的に証明されている』『科学的な根拠はない』という言葉だけでかなりの影響を受けるのだ。
今の表の世界の住人に『食材に真剣に感謝するほど肉体を健康にできる』などと言ってもそれこそ宗教を疑われるか、良くても教育のための方便と思われるくらいだろう。
真の『儀式』には目に見えない要素が強く関わる。
簡単に目に見える効果を求めようとする人間ほど形から入ろうとして指の角度や道具にこだわり、本質を見失う。日本人にとってはありふれた神社へのお参りというような『儀式』だとしても、手を打つ回数や投げ入れる金額に気を配ることは多くとも『念じ方』には気を配らないことが多い。
もちろん、選ばれた者への特権や才能なんてものじゃない。
誰でも、ちゃんとやろうとすればできるはずのことだ。
ただ、それをちゃんとやろうと思い続けるには信念や、信仰や、確信が必要だ。
それを、彼の場合は小さい頃に読んだ一冊の魔導書から取り込んだ世界観が補った。
まさかその記録を付けた人間も、そうなるとは思わなかっただろう。
神秘の担い手が消え去ることを危惧して簡潔な基礎を残した魔術師も、記録が読まれる半世紀と少し後の時代には誰でも世界中の情報がワンタッチで検索できるシステムができて、護られるだけだったはずの『無知な人々』の手で『守護者』が焚書しきれないほどに神秘に繋がる情報が出回るとは思ってなかっただろうし、その複数視点からの知識を利用して形骸化した『儀式』を独学で『実用化』できてしまう人間が現れるとも思わなかっただろう。
狂ちゃんの場合、彼が日常的に『正しい儀式』を行えることに関して本人は疑問を持っていない。
疑問を持つまでもなく、彼にとってのそれは『手を洗う時にはちゃんと指の間まで石鹸で洗うこと』『歯を磨くときには隅々までちゃんと磨くこと』といったことと同レベルで当たり前のこと。他人がちゃんとできていなかったからと言って、自分の周りのみんなが『雑な人間』であったからといって自分まで同じようにして自身の心身を損なうようなことではないのだ。
だから、疑問がない。
本当に、当たり前にその術理と効力を理解できてしまっているが故に、自分が既に『魔法使い』の一人であることに気付く余地がなかった。
そして同時に、どこにも属さずマニュアルに従わないタイプの『神秘の担い手』であり、その定石を踏んでいなかったからこそ、彼はこの世界に転生できたともいえる。
基本的に、この手の『異世界への転生』というもの、特に相手方の世界の神々からの招来を受ける場合、ワタシたちのような現代に隠れ生きる魔術師は転生の候補に挙がることはない。
それは、ワタシたちのような神秘の薄い時代に生まれた魔術師は自分自身の神秘……こちらで言うところの魔力量、現実強度の最大値、あるいは現実への優先度を底上げするために契約手順がマニュアル化された安全な神格との契約を結ぶからだ。
ワタシに限っては前世の記憶が本物であることを確認するために前世の縁を通して『美の女神』との契約を結んでいたから特例みたいなものだけど、他の魔術師は死後の魂が勝手に異世界の神々の手に渡ることはない。
けど、狂ちゃんの場合はそもそも『信仰』という心の在り方が、現代人ではなく神代人のものに近い。
現代人は『神』を『言葉』や『名前』で認識する。元をたどれば同じ『神様』を信仰しているはずなのに、伝承される国の言語やその過程での派生の違いで相手を『異教徒』として認識して殺し合うこともある。
けれど、『宗教』という概念の必要なく神々というものを受け入れていた神代の人間は、信仰する神が違うことで争うという感覚はなかった。自然のあらゆるものに宿る神、その中でも特にお世話になっている神に特別の信仰を寄せることはあっても、それが他の神々への信仰や敬愛と全く矛盾しない……『他の神様を認める』という程度の行為で信仰が揺らぐことのない世界観があったのだ。
太陽の美しさを認めようと星空の偉大さを貶める理由にはならず、大海の雄大さを讃えようと自分たちを支える大地への感謝を損なったことにはならない。
クリスマスに救世主の生誕を祝い、大晦日に覚者の悟りに倣い煩悩を自覚し、正月には森羅万象に新たな一年を生きる意志を宣誓する。
それを『どうでもいいから』で済ませるのではなく『全てに敬意や感謝を感じられるから』という姿勢でいられるのなら、『異世界の神様』というだけで拒絶反応を持つことはないだろう。
ある意味『中立』を保っている状態だったからこそ転生者候補用の『宗教的採用基準』をすり抜けてしまったのかもしれないけど。
彼には、自分にとって当たり前のそれが『魔法』であるという認識はない。
きっと、誰かに指摘されたとしても認識を改めることはないだろう……何故なら、それは結局のところ『誰でもやろうと思えばできること』だからだ。
彼の扱う中でもっとも強固な魔法と言える『禁戒』だって、突き詰めてしまえば『自分で決めたルールを守る』というだけのこと。
『破ればほぼ確実に運命死する』という条件が付与されるだけで、それ自体は誰だってやろうと思えば必ずできることだ。
まあ、今の彼はたぶんその誓約のおかげで『祭壇』を奪われたことで『届け物を責任をもって届ける』という宣誓が『嘘』になりかけていて死地に赴くほかない状態になっているわけだけど。
「ふむ、なるほど……なかなか面白い話であるな。アトリよ、妾にもっと話を聞かせるがよいぞ」
話は現在に戻る。
ワタシが今いる場所は『異教大陸』と呼ばれている、狂ちゃんたちのいる大地とは少しだけ大きな海を隔てた別の大地。
もっと厳密にいうのなら、その大陸の一大文明の首都、王城であると同時に神殿の役目を果たす大宮殿。
ワタシは、目の前の人物……いや、目の前の『とても高貴な存在』を絵に描かせてもらう条件として、『面白い土産話』をしているのだ。
いくつか話をして、結構な『面白い話』のハードルの高さに苦戦したけど、ようやく琴線に触れる話だと認めてくれたらしい。
「はい、偉大なる『神王』の望みとあらば、幾夜なりとも」
いろいろ伏線ばら撒いたのが昔過ぎて忘れられてないかとか不安になる今日この頃。




