第304話 VS 土蜘蛛④
side 狂信者
『空を自由に飛ぶ』。
最初から浮遊しているガスや蒸気に掴まり受動的に『持ち上げられる』のではなく、自らの力で、本来地上に縛られるべき肉体や鉄の塊を、風に流されるだけの雲よりも自由に飛行させる。
それは、文明や地域を越えて人類に共有される根源的な夢想の一つ。
神々は天上にあり、仙人は雲を操り、英雄は鳥や星座となり、龍は雲海を統べる。
世界のあらゆる神話を紐解いても、『空を飛ぶ』という能力を持つ知性体が『超越者』と結びつかない神話はないでしょう。
『天空』とは世界共通の聖域なのです。
それも、資格も持たずにそこへ踏み入ろうと身を投げ出せば重い罰を受ける、凡俗の侵入を許さない厳しい世界なのです。
元から天に属する存在に持ち上げられる形で聖域への進入を果たすのは『招かれている』というだけのこと。
自分で飛べない者は、自分の立場を忘れた瞬間に、あるいは天の機嫌を損ねた瞬間に、そこに在る許しを失い本来の世界に強制退去されることになる。
そして、それはもはや物心つかない子供であろうと理解している『人は飛べない』という常識の壁に護られた概念的障壁。
この世界においては、単なる物理的な難易度以上に禁忌としての認識も強く、魔法ですらも実現の難しい難題の一つ。
『天使』であるテーレさんをして、人間は空を自由には飛べないと……それができるのは、神々に許しを得た翼ある者の特権だと言わしめるルールです。使役獣に乗って間接的に空を飛ぶ転生者もいるにしても、それは神々の権限の一部を貸し与えられているに過ぎません。
故にこそ……自身の成長を促進する擬似権能を与えられたとはいえ、自分自身の力でそこに至った彼は、もはや人々の共有する『不可能』という認識の壁に囚われることはない。
「『自分の力で空を飛ぶ』とは生物としての次元数を上げるという偉業そのもの……ライト兄弟に匹敵する大業。其れが成せるのならば、確かにその翼は『そんなこと』も可能なのかもしれませんが……いくらなんでも、神々を恐れなさすぎでしょうそれは」
『土蜘蛛』とは即ち、日本で伝承される強大な妖怪怪物物の怪の一角であるのと同時に、かつて朝廷に従わずその時代の『神』に抗った人々の呼び名。
本名と姿からの渾名だったとしても神々に、世界のルールに抗う彼にこれ以上の相応しき名はないでしょう。
『ォオオオオ!』
『手』の如き翼が、爪を立て宙を裂く。
風を、大気を押し退けるのではなく、両手で絹の膜を裂くように『空間』を貫き、虚空への『穴』とする。
かの剣の少女が次元を切り開き転移を可能としたのとは違う、その向こうに何もない、本来は触れることの叶わない次元へと繋がる、三次元世界においては球体と認識される上位次元への門を開く。
そして、彼はその身体を変形させ、翼の生えた人型を保ちながら『肢』の大部分を右腕に集め、目の前に剥き出しにされた虚空へと腕を突き込み……大地が揺れる。
『ォォオオオオ!!』
周囲の光景が歪む。
空が縮み、大地が波打ち、揺れの中で上下の感覚すらも定かではなくなる。
そして、それは彼の虚空へと突き込んだ右手が、色も大きさも定かではない形容し難い質感の何かを引っ張り出すと同時に加速していく。
いえ、これは……
「光の屈折や、地面の震動ではない……? まさか!」
彼の手の中で、引っ張り出されたものが一部を虚空に伸ばしたまま、球体に近い形状へと歪曲されていく。
そして、その姿すらも目視が難しくなっていく中……私の視界の端に捉えたのは、私と同じ装備を身に纏い、私と同じ武器を構え、私と同じ姿勢で構える人影。
いえ……それは私自身。
振り返ると見える、『振り返った姿』の私自身。
鏡映しでもなく、トリックでもなく、蜃気楼でもない。
本当にただ、地平の先に見える自分自身の姿。丸い地球の上で、極限に視力が良ければ自分の後ろ姿まで見えるのではないかというあり得ないはずの冗談が現実に起こっているような不可思議。
まるで、両手で握り潰されてひび割れながら皺を寄せていくような大地の上、もはや右を見ても左を見ても、その先に自身の姿が見えている。
「空間のループ……いえ、非ユークリッド化! あの虚空から引き出されたものは、この周辺空間の『裏地』ですか!」
この空間、この世界が絨毯の上に固定された模型だとするのなら。
土蜘蛛さんの行っていることは、自分の足下の絨毯を引き裂いて、その裏から手を伸ばして隣の模型の真下の絨毯を引っ張り出し、その先を『袋』にして握り潰そうとするようなもの。
だからこそ、普段は絨毯の表の住人である私たちが絶対に見ることのできない……形容することのできない『絨毯の裏地』が彼の手の中に在り、『袋』の中で絨毯の面に沿ってしか物を見ることができない私には一周回って自分の背中が地平の先に見える。
どれだけの力があればできるのか、彼以外に誰ができるのか。
そして、彼が『袋』の口となる絨毯の隙間を閉じ、完全に逃げ場のなくなった空間に……彼の思念が震動のように響く。
ここは既に、彼の手の中にある『球体』の内側、出口の握り潰された隔離空間。
『暴虐が嗤い弱者が泣く、それが摂理というのなら』
それはおそらく、彼の心にあった決意。
『破砕槍』を名乗っていたあの悪漢に告げるべきだった言霊。
『その法は俺が砕く、その世界は俺が壊す』
文字通り、世界の法則を砕くほどの復讐心。
文字通り、世界を壊してしまうほどの憎悪。
『弱者に安らぎを、理不尽に壊れぬ毎日を』
そして、それは同時に罪なき人々にまで破壊を振り撒きたくはないという彼の理性の一線。
世界を壊しながら、世界を守る。
それを実現するために空間の真理を暴き、壊すべき世界のみを掴み出すに至ったその意志の現れ。
『暴虐に恐怖を、逃れられぬ破滅を』
どこへ行こうと逃げられぬ、ループする空間の檻。
どこへ行こうと等しく届く、彼の握撃。
『壊すべき世界』は、既に掌の上に。
『示そう。悪が生き、罪なき者が死ぬ世界が続くと思っているのなら』
比類なき力を得ながら。
世界を統べることすら可能なはずの腕力を手に入れながら。
ただそれを、不当な力による理不尽を正すために。
自分と同じように、愛する人と同じように、ある日突然『世界』が壊されるという眠れぬ不安を人々から除くために。
他人の世界を手前勝手に終わらせる悪の徒に、ある日突然『世界』が壊されるという眠れぬ恐怖を知らしめるために。
『【其れ即ち杞憂なり】』
かつて、古事の元となった誰かが見た悪夢の光景。
天地が崩壊し、何人たりとも逃れられぬ世界の終焉。
彼の憂いた事象、今ここに『現実』に……
side 土蜘蛛
俺が掴み出した『空間』のあった場所には球体となった虚無だけが残る。
その本来の座標から体積を無視して手の中に収まった『空間』を圧搾する手に力が籠もる。
力を込めるほど、堰き止めていた激情が止めどなく溢れてくる。
『ォォオオオオ!!』
この男は、彼女の仇ではない。
この男に向ける怒りは、正当なものではない。
そんなことは、理性では解っている。
だけれども……やはり、これは単なる八つ当たりではなかった。
『ガァアアアア!!』
俺はやはり、赦せない。
この男が、赦せない。それは、仇を奪われたからではない。
もっと理不尽で、身勝手で、言葉にもできなかったどうしようもない感情。誰に言おうが、理解されるはずもない子供じみた動機。
『何故だ!! 都合のいいヒーローみたいにやつを倒してくれるのなら、それができるのなら……なんで、こんなに遅く現れたんだ! なんで、彼女を守ってくれなかった! なんで……最初に会った転生者が、お前じゃなかったんだ……』
わかっている。
そんなことを言われても、困るだけだと。
その時には、この世界に存在すらしなかったのだ。存在すらしていないのに誰かを救うことなど、どんな都合のいいヒーローにだってできない……神だろうとできはしない。
けれど……思わずには、いられないのだ。
運命を恨まずには、いられないのだ。
『逆の立場ならお前もそうしていたなど、そんなことはないはずだ! お前は、一度であの男を倒した! 俺とお前が逆だったのなら、彼女と一緒にいたのがお前だったのなら……悲劇は、きっと起こらなかった!』
そう、これは俺自身の弱さへの後悔の裏返しだった。
彼女を護れなかった自分への、どうしようもない怒りの転嫁だった。
わかっていても抑えられない……俺自身の中の、理不尽だった。
空間球を握る腕に更なる力が入る。
空間の中は圧縮され、きっと何人たりとも生きてはいられまいとは解っていても……
『応えろ……狂信者……』
納得させてくれ。
俺の勝手な期待に応えてくれ。
お前が勝ち、俺が負けたのは単なる相性やその場の運によるものではなかったと。
お前は、都合のいいヒーローではなかったが、やつという悪人を誅殺するのに相応しい、理不尽にとっての理不尽だったと。
やつが俺の手にかかる前に死んだのは、それ以上にやつの悪事に相応しい不条理な運命がやつに襲いかかったのだと、やつは然るべき報いを受けたのだと。
お前に、その執行人としての資格があったのだと、思いたいのだ。
やつが最後に知ったのが不運な敗北ではなく、他人に与えてきた理不尽な恐怖を今度は自分が受ける立場になったという絶望だったのだと。
『さあ……どうなのだ! 狂信者!』
俺は、本気で狂信者を殺そうとしながら、心から願った。
この一撃が破られることを。俺自身に手加減はなく、不運もなく、その上で狂信者が俺の殺意を打ち破ることを。
そして、その瞬間……
『本っ当にっ……無茶言ってくれますねあなたはっ!」
その瞬間に起こったのは、ある種の不可思議な現象。
俺の前に、突然出現した狂信者。
だが、一瞬でそれは不可思議などというものではないとわかる。
突き出されたその武器が放つ光が、世界の『裏地』に触れて理解した空間の真理がその現象を悟らせる。
狂信者は、『空間』を破って現れたのだ。
本来的に、普段の空間でそんなことをすれば世界の空間の裏に落ち込み、虚無の彼方へと吸い込まれるであろう荒業……だが、今に限っては、その『裏地』は俺の手の中、通常空間へと繋がっている。
あらゆる属性のエネルギーを生成しうるその武器が『空間を穿つ』ことを可能とする力を引き当てれば……手の中の空間球を破いて『零れ落ちる』こともあり得る。
そして、違う次元を通して体積の無視された裏返しの空間球から飛び出した瞬間に、狂信者には通常空間での縮尺が適用され、突然現れたように感じられた。
この攻撃のために、核が剥き出しに近くなった俺の懐へと。
『グォオオ!!』
「ハァアアア!!」
反射的に動いた左腕の迎撃は、長い爪のように伸ばされた『肢』によって確かに狂信者の身体を、脇腹から肩まで袈裟斬りに両断した。その手応えがあった。
だが……狂信者は、それを一顧だにしなかった。
空間を貫くのに無理をしたのか、全体に亀裂が入り崩壊しないのがおかしい武器を、それでも全力で俺の『核』へと押し込む。
先端から崩壊するそれを、それでも構わずと……剥き出しになる武器の『核』を、聖骨を俺の『核』へと突き立てるように。
『グォァアアア!!』
それは、もう二度と味わうことのないだろうと思っていた感覚。
だが、今度は理不尽に一方的に打ち負かされたのとは全く違った。
死力を尽くした果てで得られる、敗北の味だった。




