第275話 神代人の世界観
side テーレ
年に一度の年越しの日。
一年で最も運気の下がる日と言われるこの日、中央都市クロヌスでは大きな事件が重なって混乱を生むことになった。
『研究施設』の幹部であることが発覚したノーラン大領主による、クロヌス大領主へのテロ攻撃。
それを隠れ蓑に行われた蓬に対する裏切りの誘い。
そして、使い魔ライリーによるマスターの異空間誘拐未遂。
一日に起こる事件としてはあまりに大事で、どれもこれも一歩間違えば『研究施設』に対する私たちの体制が崩壊する所だった。
その中でマスターの件に関してだけは完全に身内の問題というか内輪揉めみたいなものだったけど、後でわかったテロ攻撃についての全貌……核爆弾ならぬ高性能爆薬だったとしても、下手に接触して爆発させるようなことがなかったと考えれば結果的に助かったのかもしれない。
何にせよ、それぞれの目の前で起きた事件はそれぞれの奮闘で解決し、夜には屋敷で互いの無事を確認し、ホッと一息つけたわけだ。
まあ、街の被害とか城の修繕とかで仕事が山積みのライエルは明日も大変だろうけど、本人が襲われたこともあって今日ばっかりはゆっくり休むことになった。
それに……
「リィエルの体内に異常な作用をする成分を複数種確認、蓬の話からするとおそらく転生特典で効能をブーストされた薬剤、もしかすると元々が転生特典で生み出された薬剤に別の転生特典を干渉させたものかもしれない。アトリの料理でも完全排出できなかったってことは、それだけ強力に作用してるってことでしょうしね」
いくら大領主といえども肉親をテロリストに仕立て上げられて隠しきれないショックを受けていたライエルには、レインが捕まえたリィエルの診断結果に目を通しての転生特典の専門家としての見解を報告した。
回復の目途がないわけではないといっても、完全に元通りになるかわからないリィエル。その事実を受け入れるためにも今は少し時間が必要だろう。
城の襲撃の時に行方不明になって、敵の捕虜になっていたリィエルはこの世界では異様な技術力で作られた装備品に加えて明らかに肉体的、精神的な改造を受けていた。
今は本人の肉体性能を超えた無理な戦闘の反動で意識不明に近い状態になっていて、念のため拘束されている。
彼女の身体に残留する薬剤と、精神的に残された干渉の痕跡……おそらく、こちらも転生者の能力が関与している。
それが不幸中の幸いと言えるかはわからないけれど、彼女の本来の精神性が薬物洗脳で歪められてしまったわけじゃなく精神操作系の干渉だったらしいおかげで、どうにか回復の目処は立っている。
とは言っても、やられたことの深刻さとやらされたことの罪悪感は軽いものじゃない。薬物を抜いて心を休ませるためには時間がかかるだろう。
幸い、爆破テロによる人的被害は爆発の数や規模から考えれば驚くほど少なかった。
それは、街の兵士たちが避難を素早く完了させたのもあるけど、最初の方の全くの不意打ちで爆発に巻き込まれた人間の多くが『不思議な現象』に助けられたからだそうだ。
曰く、見えない何かに抱えられて火の中から運び出されたとか、生死の境を彷徨っているときに変な被り物をした男に手招きされて、そちらについて行ったら目を覚ましただとか。
まあ、元々年越しの日は死者からの干渉力が強くなる日だ。
運気が下がると言われているのは現世に留まる魂に悪性に傾いたものが多いというだけだから、もしかしたら偶然にも彼らを助けてくれる『善い霊』が居合わせたのかもしれない。
爆弾の被害者の日頃の行いが善かったのか、それともリィエルの日頃の行いが善かったのか……まあ、こちら側の誰かにディーレ様の加護があって、逆に『研究施設』の方には加護がなかったのだろう。
善き行いには善き味方が集まり、悪い行いには敵が集まる。それだけのことだ。今回の襲撃でこちらに重大な人的被害が出なかったのはそういうことだろう。
そう、とりあえず今日の事件は終わったのだ。
リィエルのカルテに目を通して、私のすべき仕事は終わった。もう、今日の内にしておくべきことはない。工房も壊れてて作業とかできる状態じゃないし、後は寝るだけ、寝て明日を迎えるだけなのだ。
そう、眠ればいいだけ、それだけのこと……それだけの……
「…………いやいやいやいやっ! ちょっと待って! 今日は無理! いくらなんでも今日は無理!」
私の現在位置、屋敷の風呂場。
かれこれ一時間くらいずっと浴槽で唸ってる。
どうしたものかと考えながら答えがまとまらずに悶えてる。
「あぁ……もぉ……私の馬鹿……なんで部屋決めの時に同室でいいとか言っちゃったのよ……工房で寝るわけにもいかないし……」
私の寝室とマスターの寝室は同じ部屋だ。
反対側の壁際のベッドで分かれて寝ているけど、十歩分も離れていない。
いざという時にマスターを守れるようにと、私がそうしたのだ。当然、仕切りらしい仕切りもない。私は自分の工房を持っているからプライベート的な区分けはあんまりいらなかった。
けど、いざこうなると問題が起こる。
私はあいつに……とっさのこととはいえ、キスをしたのだ。それも、唾液の交換どころか無理やり流し込むような強引にもほどがある……あまりに熱い、ディープキスを。
「ぁ~~~~~~!! ブクブクブク!!」
感触を思い出してしまったせいで思わず出てきた叫び声を手で押さえつけ、それでも漏れ出そうになったものを湯船に潜って泡にして吐き出す。
今日はもう、ずっとこんな感じ。
事後処理とかに熱中してごまかしていたけど、浴室の鏡に映る顔は信じられないほど真っ赤っか。ふとした時にフラッシュバックする記憶に、完全に翻弄されてしまっている。
嫌だったわけじゃない。
不快だったわけがない。
後悔なんてしていない、むしろ躊躇わなくて心底よかったと思っている。
ただ、わからないだけだ。
自分がどうして心を乱してしまっているのか、こんなにも心を乱していいものなのか。
私はそこまで、あいつのことを、彼のことを……
「いやいやいやいやっ! だからって同じ部屋で寝るとかさすがにどうなの! デートはライリー巻き込んでそういう方向に行かないようにしたけど! もうライリー精神体に戻ってるし! ていうかあそこまでのことやっといて同じ部屋で『じゃあ普通にお互い別々に寝ようか。おやすみ』とか言えるわけないじゃん! 完全にあそこまでやったら行くとこまで行く流れじゃん! 子供が寝付いて大人の時間に入るやつじゃん! そうだよ! そこら辺を曖昧にして話進めちゃった私が悪いんだよ! チキンでヘタレな私の自業自得だよ!」
あの時点で、『仕方なくやったんだから勘違いしないでよね』とか、それか素直に『助けられてよかった』って泣きつくかすればよかったはずだ。あくまでも救命行為としての側面を強調していれば、それかもっと純粋に身を案じて混乱していたことをちゃんと示していれば、あの『行為』もそれほど重大な意味を持つこともなかったはずだ。
一応取り繕いはしたけど結局わけわかんないこと言っただけになって未解決のままになってるのが問題だ。
テンパって半端に余裕を演じた私が悪い。
やろうと思えば、数秒遅れても携帯食か何かを出してあいつの口につっこむ手もあった。どれくらいの量が必要かわからなかったあの状況なら、むしろそっちの方が確実だったはずだ。
なのに私は、とっさにああやって動いた。
そう……私は無意識に、最後になるかもしれないあいつとの接触をあの形に求めたのだ。
問題は、あいつがどう認識しているかなんてことじゃない。
私がどうしても、あの行為を単なる『手段』として割り切れていないこと、あいつへの好意と不可分の行動として意識していることが問題だ。
単にそういう方向へのエスカレートを防ぐだけなら、工房が使えなくてもいくらでも手はある。なのに私は、手段じゃなくて動機を求めてしまっている。
自然に別の部屋で夜を過ごす口実を探そうとしてしまっている。
それとなく距離を置く理由を見つけようとしてしまっている。
あいつは、私が『そういうことはしたくないから勘違いしないで』と言えば、間違いなく変なことはしない。『忘れてほしい』と言えば、本当に何事もなかったかのように振る舞ってくれるだろう。
けれど、そういうことが言えないから困っている。
『従者』としてあいつには嘘のつけない私は、自分の心にもない願いを言葉にできなくて困っている。
「『なかったこと』になんてしたくない……関係を進めたい……の、かもしれない」
また、蓬にヘタレって言われそうだ。
そうなのだ、口実も手段もいらない。このまま湯船から出て、服を着て、『今日は走り回って疲れた』とか言いながら何事もなくベッドの中に逃げ込めばいい。そうすれば、何事もなく済む。
いつかみたいに、あいつは私の休息を邪魔しないように静かに寝てくれる。
私は関係の変化を怖れながらも、何事もなく今夜をやり過ごしてしまうのも怖くって、ここでウダウダと時間稼ぎをしてしまっている。
私は……また、したいのだ。
今度は洗脳の手段でも救命行為でもなく、単に目的としてああいうことをしたい。
あの時は必死で、やり始めた時には自覚がなくて、感じる余裕なんてなかったけど……自覚が出てきて、思い返して、真っ赤になってしまっても、全く悪い気分ではなかったのだ。
ラタ市での一度目とは、まるで違ったのだ。
相手への認識が違うだけで、ちゃんと好きになった相手としたというだけで、同じ行為のはずなのに全然違ったのだ。
私は……
「マスター……私は、あんたのことが……」
また、声にする前に口許を沈めてしまおうかと少しだけ思う。
そうすれば、私の言葉は誰にも伝わらず泡と消える。
そうやって全て吐き出してしまえば、きっとやりすごせる。声のない人魚姫の恋心のように知られることなく終わらせられる。
けど……一度くらい……
「マスターのことが、す……」
「テーレちゃん生きてるニャ? もう一時間くらい入ってるけど湯あたりとか大丈夫……」
「にゃぁああああああ!」
「あ、意外と元気だったニャ」
戸を開けて入ってきたのは、チョコレート色に焼いた肌を隠すことなく晒した全裸の女……転生者かつ芸術家、アトリ。
女だからって何を勝手に入ってきているのかと思ったけど、直前の言葉を考えると私の無事を確認しに来たのだろう。私が肉体的に頑強だといっても、万が一はあるかもしれない。
まあ、確かに不自然なほど長湯しすぎているのは事実だ。あっちに非はない。
けど……
「なによその格好、まさかあんたも入る気?」
「ニャハハ、まあまあそう睨むニャ。テーレちゃんも、一人で悩んでても解決しないって思ってたところじゃないかニャ?」
「……まさか、さっきから外で聞いてたとかって言わないわよね」
「聞かれて困るようなことを呟いてたのかニャ?」
そのいつも瞳孔が開いているように見える瞳からは本心が読めない。『万能従者』で心内を読もうとしてもどこまで知られているのかわからない。
アトリと向き合うのは、見透かされているような気がしてどうにも苦手だ。
「……別に、大したことじゃないし」
「そっかニャ。じゃ、お邪魔するニャ」
私の言外の拒絶を無視して私に向き合うように湯船に入ってくるアトリ。
小さな屋敷だと言っても湯船には二人や三人くらい入っても窮屈にはならない。けど、私をまっすぐ見つめて薄く微笑むその表情に圧を感じる。
面白がるように、まるで……色を覚えたばかりの妹でも見るかのように、興味深げに私を見つめている。
これで、『何でもない』って言っても無駄だろう。アトリは私が今日、朝からマスターを探していたことを知っている。いくらなんでも、今の私が自分の変化を隠しきれるとは思っていない。
「……なによ、笑うならもっとわかりやすく笑っていいわよ。私だって今のみっともない自分を笑えるなら笑いたいくらいなんだから」
「ニャハハ……なんてね。笑ったりしないよ。恋する女の子は美しいからね。安心して恋愛経験豊富なお姉ちゃんに相談なさいな」
「誰がお姉ちゃんなのよ、私は二百歳よ? あんたよりずっと年上だわ」
「二百年生きてて恋の一つも知らない筋金入りのおぼこちゃんに偉い顔できる経験値があるの?」
「うっ……」
天使としては二百歳は若い、それは否定のしようがない。
恋なんて知らないことにおかしいことはない。
けど、そもそも天使が人間に恋をするなんてこと自体があり得ないことだ。天使だからって年齢でマウントを取れる立場じゃない。
「なによ……あんたに、今の私の何がわかるってのよ。自分でもよくわかんないくらいなのに。相談してなんになるっての?」
「そうツンケンされると寂しいけど、そうだね。じゃあ一つ当ててあげよっかなー」
「当てるって、何をよ?」
よく占い師が使うような誰にでも当てはまるような性格判断でもしてきたらお湯ぶっかけてやろうと思って身構える。
アトリは私のそんな攻撃態勢を知ってか知らずか、私の顔をじっと見つめて……ニヤリと笑った。
「テーレちゃん、狂ちゃんにキスしたんでしょ? それも、深く考えずにその場の勢いで。それで、今になって冷静になって恥ずかしくなっちゃったんだよねー。違うかな?」
「ぶふぉぁ!」
あまりにも具体的に今の状態を当てられ、動揺で思わず溺れかける。
なんでわかった?
報告では具体的にどうやって引き戻したかなんて一言も話してないのに。まさかアトリ、こいつエスパーか。
「アハハハ、やっぱりテーレちゃんはわかりやすいねー。彼からはやらないだろうしテーレちゃんからだろうとは思ったけど、随分と熱烈にやったんだね」
「ななななにいってんのよ! ど、どこにそんな事象があったって証拠よ! ね、捏造なんてさせないわよ!」
「そんなリンゴみたいに真っ赤になっといて説得力ないよー。まあ、そういうことにしてあげてもいいけど……もしそうなら、それが『キス』にカウントされないなら、彼の貞操はティアちゃんに取られちゃうんじゃなかったかなー?」
「うぐぐっ! それは……キスじゃなくは、ないから……」
そう、そうなのだ。
あれを完全な救命行為ということにしたら、私はティアとの賭けに負ける。私はどうやっても、あれをキスと認めなければいけない。
そうだ、事前にデートの相談をしたアトリからしてみれば私があいつとキスしているのはほぼ確定事項。
アトリが当てたのは、私が冷静に既成事実として淡々としたキスを済ませたか、勢い任せにやったのかという二択だけ。私の動揺の度合いを見れば、そのどちらかを推測するくらいは難しくない。
やっぱりダメだ、今の私がこのアトリに言葉で勝てるイメージが浮かばない。
舌戦なんて、相手を騙し弱みを突くのに必要な才能そのものである『悪意』を刻まれた私にとって独壇場であるはずなのに、勝ち目が全く思い浮かばない。
仮にアトリを騙せたところで、私自身の中にあるものを誤魔化すことはできない。
……『悪意』なんかじゃ、『恋』相手に勝ち目なんてどこにもないらしい。
「……仕方なかったのよ。あの時は、それ以外に思い浮かばなくて、時間もなかったから……」
「ふーん、仕方なくやったんだ。じゃあ、やっぱり本当は嫌だった? 二度と同じことなんてしないって思ったの?」
「そんなことっ! ……そこまでは、思わないわよ。ただ、今度はもっとムードとか、計画とか……」
「なるほどねー。仕方なくしたことだけど、嫌なことじゃなかったんだねー。で、『今度は』ってことは、またしたいんだ?」
「こ、言葉の綾よ……でも、もしも二度としないなんて言われたら……」
「ふーん、へー、なるほどねー。キスくらいは気軽にできる関係になりたいけど、その先はまだ怖いんだねー」
図星だ……いや、単に言葉にされてしまったから、自分の中の整理できていなかった部分を改めて認識しただけなのかもしれないけど。
私は怖がってる……別に、破瓜の痛みとかそういう具体的な苦痛が怖いわけじゃない。もっと、漠然とした恐怖がある。
「私は……ラタ市、あいつが転生してからの最初の街で、あいつにキスしたことがある。あの時も、かなり強引に、激しくやった。あの時はちょっと私も平常じゃなかったから、本気で堕とすつもりでやった。けど……」
「……今回の方が、ずっと気持ちよかったんでしょ? 相手を好きになって、好きな相手との行為になって、単なる手段としてのキスとは全く違う体験だった。『仕方なく』しなきゃいけない段階が終わったはずなのに、すぐには止められないくらいに」
「……あんた、まさかあの時どっかから見てた?」
「見てなくてもわかるよ。ワタシも、何人も女の子に恋をさせて、綺麗にしてきたんだから」
そういえば、蓬の話によるとアトリは芸術家として石や紙を加工するだけじゃなくて、人間すらも『加工』していたらしい。
それは猟奇殺人的な意味じゃなくて、生きたまま人間としてより美しくするコーディネーターみたいなこと。その手段として、本人が自分を美しく保つモチベーションのために『恋』をさせてきたとも聞いた。
アトリ自身、男女問わず何人も恋人がいたというのなら……今の私みたいな状態なんて、見慣れたものなのだろう。
「ワタシが見たところ、テーレちゃんは狂ちゃんのこと十分に好きだし受け入れてる。それこそ、今日みたいなことで狂ちゃんに必要なのがキスじゃなくてそれ以上の行為でも、迷わずできるくらいに。でも、まだ自分からそれを申し込むには至っていない……なんでだと思う?」
本人に動機や理由を尋ねるなんておかしな質問だと思う。
けど、それはアトリが知るためじゃなくって、私が自分で考えるためのきっかけ、思考の方向性を与えるための言葉なのだろう。
だったら私は、自分の中を見つめなきゃいけない。
俯いて下を見る。
お湯を見つめて、そこに映る自分のどこか怯えた顔を見て、内面に向かって問いかける。
どうして私は、この先に進むのを怖がってるのか。
何がなかったら、私はもっと素直に彼を求められるのか。
考えて、考えて、考えて。
やっと見つかった小さな恐怖の核を捕まえて、丁寧に言葉に変える。もしかしたらアトリは答えなんてわかっていて、私が答える必要なんてないのかもしれないけど。
言葉にすれば、はっきりする。
「怖いから……あいつがじゃなくて、私自身が。二百年も大して変わらなかった私の心が、あんまりにも短い時間で大きく変わりすぎてしまったから。今すぐに、これ以上変わってしまうと……どうなっちゃうのか、まるでわからないから」
『恋は人を変える』と言うらしいけど、それは天使も例外じゃなかったらしい。
私は一生、何も変わらないと思っていた。
人間に好意を持ったって、それこそあいつに言ったように家畜の延長くらいにしか……利用価値の有無よりも優先してしまうほどに夢中になることなんて、そんなことになってしまう自分なんて、想像すらしていなかった。
だから……
「アトリ……私、怖いよ……これ以上あいつに情を移したら、心を預けちゃったら、いつか壊れちゃう。あいつを戦いに巻き込んだこと、危険な旅に付き合わせたこと、もう少し後悔しちゃってる。あいつが死ぬのが怖い……もしそうなったら、私の心も壊れちゃうかもしれない。だけど……」
「テーレちゃんは『天使』だから、どんなに大切に思っても、どれだけ愛しく想っても、自分だけが残されることがわかってる。だから、好きになるのが怖いんだね」
「今だって、あいつが死んだらって思うと胸が張り裂けそうになる……ライリーが『生と死の狭間』なんて世界にあいつを引っ張り込もうとした気持ちも、何をしたって失いたくないって気持ちも、今はよくわかるよ」
人間は、こんな思いをして生きているのか。
『癒し手』の一族は、ココアは、こんな思いをして恋をして、血筋を残してきたのか。
愛した男に先立たれて、それでも今では笑顔で暮らせているのか。
私には想像できない世界だ……とても、真似なんてできない。
「『天使は人間に恋をしない』……天界ではそう言われてる。だって、人間はすぐに死んじゃうから。天使がそこまで相手を好きになる前に、人間の方はいなくなっちゃうからって。なのに……私とあいつが出会って、まだ精々十ヶ月だよ? 一年も経ってない、それなのに……」
「人間ならむしろ長すぎるくらいだけどね。一目惚れって言葉もあるくらいだし……だけど、テーレちゃんはそうじゃないんでしょ? 狂ちゃんのことを見てきて、いろんなことを知って、だんだん好きになった。元は利用するくらいのつもりで、むしろ扱いにくくて嫌いなくらいのはずだったのに、いつの間にか好きな気持ちの方が勝ってた。そして、今日のことで離ればなれになりそうになって、他の女の子に奪われそうになって、自分の気持ちに気付いた」
そう、最初は……変なやつとしか思わなかった。
前世では何も信仰していなかったはずなのに信仰心がやたら強くて、ディーレ様にすぐ忠誠を誓って、扱いやすいかもしれないと思ったら、まるでそんなことなくって勝手なことばっかりして。
けど、無能ってわけでもなくて、自分を利用しようとしか思っていなかった私のことを助けたりして、他の天使との交換すら蹴って。
それから、治療院ですごいところもあるってことを理解して、一度は距離を置いて。その時に自分の気持ちも少しは整理して、関係をちゃんと見直した。
あの時は……まだ、好意といっても『一緒にいると退屈しなくて楽しいかもしれない』程度だった、と思う。ルビアがあいつに好意を寄せていた時も、どちらかというと所有物を盗られることへの危機感に近かったような気がする。
私の道連れ、旅のパートナー……まだ、そんな意味合いだったはずだ。
けど、一度離れてから合流したあいつはすごく強くなってて、私よりも強いくらいで、いつの間にか方針を委ねていた。
戦力的な安心感もあったけど、私の指図なんてなくても想像を超える戦果を挙げるあいつを見て、その判断を信じて頼ることができるようになっていた……信用を超えた『信頼』が、私の中に育っていた。
そして、その後は戦場や転生者たちとの衝突を経て、大まかな方針を任せながらも危なかっしい行動を支えるようになった。最初の目を離したら死地に飛び込んでいるんじゃないかって心配じゃなくて、あいつのやることを応援できるように、ちゃんとサポートできるようになったんだと思う。
「私は……あいつに、知らない内に自分の大きな荷物を預けてたんだと思う。『聖地創建』っていう目標を計画して、一人でディーレ様の信仰を守ろうとして、ターレに裏切られて……一人で全部やろうとしていたことを、あいつが支えてくれるようになってて、知らない内に重心を任せてた。だから、あいつが急にいなくなって倒れちゃうのが怖い……のかも、しれない。これは、いけないこと?」
「それはワタシの決められることじゃない。けど、少なくとも彼はそうなってほしいと思って、そのための力を身につけた。頼っても、嫌われたりしない。テーレちゃんが彼を失うことを怖いと思うのは仕方のないことだとしても、それは自分可愛さのためなんかじゃない。もしも仮に、彼がケガや病気で何もできなくなっても、テーレちゃんは彼を見捨てたりしないでしょ?」
「それは……そう、だけど。あいつの方は、そうじゃないかもしれない……あいつが私を好きだとしたら、それは頑張ってる時の私だから。あいつに頼って、楽をしようとしちゃったら……」
「それは違うよ。一緒に頑張ろうとしてくれる人の力を受け入れるのと、自分の荷物を放棄して楽をしようとするのは全く違う。それにね、彼はテーレちゃんがどんなふうに変わったとしても、テーレちゃんのことを見放したりはしない」
「どうして……どうして、そう言えるの?」
私は……こうして『恋』らしきものを始めて自覚してみて、あいつが私に向けてくれる『愛』というものがどういう意味なのか、また分からなくなっていた。それも、関係を進めるのに抵抗を感じていた大きな理由だ。
あいつは、私に接するときにここまで胸がはち切れそうな想いをしてくれているのだろうか。
これが私からの一方的なものだったとしたら……私たちの関係の上で間違った在り方だと思われてしまったら、否定されてしまったら。それが、たまらなく怖い。
だからこそ、知りたい。
アトリがどうしてそんなことを言えるのか。
あいつにとっての『恋』や『愛』とはどういうものなのか、あいつにとっての私はどういうものなのか。
勇気を振り絞って問いを投げる私を見てアトリは……少しだけ思案した後、短く嘆息して答えた。
「そうだね……テーレちゃん。テーレちゃんはもう、狂ちゃんについてたくさんの面を見て、いろんなことを知ってると思う。だから、彼が他の人と違う価値観を持っていても、受け入れられると思う。だけど、一応確認しておくよ……ワタシが今から話すのは、ワタシの目で見た彼の認識の話。違う言語での思考に近い、同じ言葉に他の人とはちょっと違う意味の込められた世界観の話。それを、敢えて他の『ありふれた大多数の普通の人』の言葉に置き換えたもの。いざ聞いてみたら、テーレちゃんの望む認識とはだいぶ違うと思う。それでもいい?」
私の望む認識とはだいぶ違う。
それは……覚悟は、している。
元々、あいつは私を『信仰する女神に仕える天使』として特別視していた。ターレのことがあってディーレ様の眷属の中でも特別だという認識が確認できたとしても、根本的に異種族であることは変わりない。今の見た目が人間に近くても、やっぱり本質的に人外でしかない私のことを人間のように好きになることはない……それを、確認することになるかもしれない。
それでも……
「それでも……聞きたい。じゃないと、どうしたらいいかわからないから」
「そっか……じゃあ、教えてあげる。狂ちゃんがテーレちゃんのことを見放さない根拠っていうのはね? 狂ちゃんがテーレちゃんのことを……」
唾を飲み、アトリの言葉を待つ。
あいつにとっての私が、どんな存在なのか。
この想いに報われる目はあるのか。
一瞬であるはずの溜めが永遠にも感じられて……ようやく、言葉の先を認識する。
「テーレちゃんのことを……『お姉ちゃん』みたいに想ってるからだよ」
…………認識して、理解するのに数秒かかる。
『オネエチャン』……?
それは、つまりは同じ親から生まれた人間の、自分より先に生まれた個体、その内の女性側だけを指す言葉のことだろうか。でも……え?
「い、いやいやいやいやいやっ! ちょっと待って! いくらなんでもそれはおかしいでしょ! 確かに実際に年上ではあるけど、異種族とか他人とか利害関係とかそういうの飛ばして『姉』って!」
「アハハハ、まあそれはそうなんだけどね。ちょっと語弊があるとすれば、彼にとってはそもそも『天使』って大きなくくりが『お姉ちゃん』に近い認識なんだよ。ついでに言えばワタシとかは『守護者』の類として『お兄ちゃん』的な認識をされてる部分あるから厳密な説明をするとややこしくなるんだけど……」
少しよくわからないことを言うアトリ。
けれど、私の頭には『お姉ちゃん』の下りが衝撃的過ぎて頭に入ってこなかった。
「とにかく、彼にとって『天使』は基本的に『お姉ちゃん』みたいなもので、テーレちゃんはその内で一番自分の世話を焼いてくれる特に大好きなお姉ちゃん。本当に好感度が天井知らずで……望まれたら貞操だってなんだって喜んで差し出しちゃうくらいにね。うん、血の繋がった実姉とかだったら完全に犯罪になるレベルのシスコンだと思ってくれていいと思うよ。でも、大きさとか深さはともかく、愛の向け方は『お姉ちゃん』へのもの。でも実際は実姉じゃないし健全でしょ?」
「いやちょっと待って……え、何その情報。反応に困る……」
まあ、確かに一緒に旅をして人間の感覚で言えばそこそこ長いわけだし『家族』って認識になっているとしても全くおかしくはないと思う。
けど、その上で二親等の肉親と同じ愛し方をされていて、なおかつ禁断のラインを軽々飛び越えられるとか言われると恋愛感情を持って大丈夫なのかどうなのかがよくわからない。
幼馴染が『姉や妹みたいに思ってるから好きだけど恋人になれない』みたいな理由で振られることはあるらしいけど、『姉みたいに思っててその上で貞操捧げるくらい好きです』とか言われてもそれはそれで反応に困る。
「まあ、困るのはわかるけどね。彼はそもそも人生経験の中で『異性愛』って概念が溶けちゃってるから。彼が誰かを個人として愛するには、それ以外の愛情に置き換えるしかないの。彼に限らず神代人が全体的に近親者とか肉親との恋愛とかに抵抗感が薄いっていうのもあるけど、それを除いても『姉への愛』っていうのは、最後まで無条件に甘えられる存在への愛の象徴だから。安心できる居場所、叱られることはあっても見捨てられることのないと信じられる存在、そして男としての自分が大きく強くなったら守ってあげられるようになるべき存在。それは、彼がテーレちゃんに求めているものとも言い換えられるかもね」
「甘えられて……見捨てられることはなくて……強くなって守る……」
「まあ、テーレちゃんが『お姉ちゃん』っていうのも、あながち間違ってないと思うけどね。転生者が転生の時に神様の力で『生まれ直し』をしてるって言うんなら、テーレちゃんは人間の魂から天使に転生した存在で、同じ女神ディーレ様に『生まれ直し』をさせてもらったんだから。狂ちゃんは結構そこら辺の形式にこだわるタイプだし。テーレちゃんは異種族がどうだとか寿命差がどうだって距離感の『遠さ』を気にしてるみたいだけど、むしろ彼からしたらテーレちゃんはそこらの人間よりもずっと『近い』はずだよ」
確かにそれは……異様な図々しさというか、距離感の近さは最初から感じていたことではあった。
最初のラタ市で私にいきなりキスされて、魅了対策で性的な感動がなかったとしてもあまりにも動じなかったのも……私を姉みたいに思っていたのなら、『突然のイタズラ』と言えないことはない出来事だ。
それに、私の本質を知っても疑問の一つもなく取り返そうとしたのも……たとえば、それが『実の姉』だったのなら、どんなに悪条件を並べられても、とにかく理由不要で取り返そうとするのもおかしくない。
あれだけ私への好意を露わにしながら、『従者』という転生特典を持つ転生者としての権利を行使して肉体関係を求めてこないことにも合点がいく。
単なる『主従』ではなく『姉弟』のような関係だという認識があるのなら、どんなに好意があっても歯止めがかかるというものだろう。
けれど……
「私は……あいつを、弟とは思ってない。恋人みたいに触れ合いたいって思うのは……だめ、かな?」
「ううん、テーレちゃんがそれを望むなら、それでいいんだよ。彼も、テーレちゃんをお姉ちゃんみたいに想っていても、ちゃんとお姉ちゃんじゃないことをわかってる。血が繋がってたとしても禁忌を侵せてしまう程に愛していて、その上でどこまで深く触れ合うかをテーレちゃんに任せてる。何より……本当の肉親のように、何があっても切れない繋がりがあると信じてる。だから、テーレちゃんは彼に嫌われる心配だけはしなくていいの」
本当に……私にとって、都合の良すぎる話だ。
私を姉のように想っている。もし、私があいつ以外の誰かを好きになったとしても、あいつが私以外の誰かを好きになったとしても、あいつが私を助けるのは当たり前だと思っている。
その上で、もしも私が本物の姉と弟が踏み込んではいけない領域での関係を求めたなら、いつでもそれに応える準備ができているというのだから。
私たちの関係について、主導権の全てを私に委ねている。
後は、私がどうしたいか……私が、どこまで勇気を出せるかだけを求めている。
「やっぱり……いきなり大きく変わるのは、怖い」
「うん、そうだね。無理はしなくていいんだよ」
「でも……少しだけ、少しずつなら、変わって行きたいと思う。いつか、あいつがいなくなると思ったら怖いけど……だからって、今の気持ちに、もっと触れ合いたいって気持ちに、我慢なんてできそうにないから」
「そうだね……じゃあ、そろそろ上がろっか。ワタシが入ってからも長風呂だと、狂ちゃんも心配しちゃうから」
「……うん」
まだ少し浸かっていくというアトリを残してお風呂を上がり、身体を拭いて寝巻きに着替えた。
男を誘うような薄いものじゃない、いつも通りの布地の長袖。
香水を付けたりもしない、あくまでいつも通りの寝る準備を済ませる。
そして……寝室の前で立ち止まって、一度深呼吸をする。
マスターがまだ眠っていないのは気配でわかる。何かを期待するように興奮しているわけでもない、いつもの日課の覚え書きでもしているらしい。
ドアを開けて何も言わなければ、昨日までと同じように私たちは向かい合った別々のベッドで夜を明かし、何事もなく朝を迎えることだろう。
私の中に誘惑が生まれる……『それの何が悪いのか』と。踏み出すことなんて誰にも強いられていない、彼も望んでいないのではないかと。
けれど……それを遥かに上回る胸の高鳴りが、単なる緊張とは違う、甘い期待に近い熱が私を突き動かそうとしているのを感じる。
私は……身を投げだすようなつもりで、その熱に身を任せて、一歩を踏み出した。
「今日は……あんたのベッドで、一緒に寝させてもらうわよ。また勝手にいなくなられても困るし……何があったって、離さないから」
添い寝くらいはいくらでもやったことがあるはずなのに、今夜は彼の吐息や体温を意識する度に胸がバクバクしてしまって、心臓の音を聞かれちゃうんじゃないかって思いながら狸寝入りするので精一杯で。
結局全然眠れずに新年の朝を迎えてしまったというのは、私だけの秘密だ。
異種族で年上だけど精神的に一回りくらい子供な義理の姉で仕事上は従者。
属性が混雑しているテーレさん。




