第208話 賢者の悔恨
side ???
あるところに、一人の男がいた。
男は、不幸な災害によって故郷と親しい人々を、男の生まれ育った世界の全てを失った。そして、彼は数奇な運命から魔導の探究に人生を捧げる魔法使いに出会い、その術理を学んだ。
いつしか、男は師であった魔法使いすらも越え、さらなる深淵へと突き進み、禁忌とされた領域に触れた。
そうして、それを罪に問われた彼は霊廟の最奥に住む魔王と向き合い、その力によって長い時間を得た。
男は、ある問いの答えを求めて国中を旅した。
そして、多くの腐敗を見た。多くの惨劇を見た。多くの悲嘆を見た。不条理と理不尽と、それらに翻弄される弱き人々を目にし続けた。
やがて、彼はその醜い世界を変えるため、究めた魔導の力を手にして王族へと取り入った。
弱き人々を救うためには、自らが最も悲惨な腐敗の中心へと飛び込み、変えていかねばならないと考えたからだ。
男は、王族を癒やし、護り、唆し、私欲に歪んだ権力者たちを次々と処断していった。男を殺そうとする者も現れたけれど、彼の命を密かに護る猛犬によって、それは悉く失敗に終わった。
けれど、男がどれだけ腐敗を切り取っても、国はよくはならなかった。
既に、手遅れだったのだ。腐っていたのは表面ではなく土台であって、その全てを切り取れば国は崩壊する。王族に権威はなく、殺された権力者の代わりに国を支えられる賢者が現れることもない。私欲を肥やす大臣を消せば無能が穴を埋め、国が回らなくなりどちらにしろ民は苦しむばかり。
そこまで、国は末期に突入していた。
そして……最後の王の時代、彼は選択を迫られることになった。
各地で貧困と飢餓から不満が爆発し、地方の領主たちが王家に反旗を翻した。
もはや、国の民が救われるには古い国そのものが最大の障害だった。そして、明日の命すらいらないと言うような彼らの炎はもはやどうやっても逃げ隠れできるものでも、押し止められるものでもなく、それを終わらせるには王家の消滅が、国の消滅が不可欠だった。
男は懊悩を極めた。
救われるべき弱者として自身を突き動かした国民のために王家を突き放すか。
目的のために取り入ったものの……長く共にあり、もはや民を苦しめる悪政とは関係ないただの冠であったことを知っている王家のために、怒り狂う民を虐殺するか。
不幸なのは、男にはそのどちらもできてしまうだけの力があったこと。自分たちがしていることの意味を理解せず怒りに流される民衆と違い、全てを理解できてしまう賢さと立場があったこと。
必要な犠牲と割りきるには……元はただの手段だったとしても、彼はあまりにも王家の人々の心に寄り添いすぎた。長く生きる中で孤独を深めた彼を真に受け入れていたのは、彼しか頼る者がない、腐りきった宮廷で唯一穢れを持たない……善行悪行以前に、何をする権利も与えられない、たった一つの家族だけだった。
三百年も前に全てを失った男が……意図せず見つけてしまった、血の繋がりはなくとも心で繋がった、育ての親同然にその成長を見守り続けた、家族同然の存在だったのだ。
苦悩の末に、彼は行動を起こした。
何もせぬことも罪、何かをしても罪、であれば自分にできることをしようと決めた。
たとえ、それが……最も大きな罪を、この世に生み出してしまうことだとしても。
side テーレ
私の手の短剣が、隻眼の老爺の胸に突き立ち、その身体が力なくこちらへ体重を預けている。
ここは精神世界。
残留思念が具現化した身体は、痩せ細った老人のように……あまりに、軽かった。
『うむ……なるほど、負の念を散らす術式に……それを逆転した、一点に集める術式か……これは確かに、新しい……』
「……魔王『バウァ・クウ』は、罪悪感や悔恨を主食にする偏食の死霊が元になった野犬の変異体。だから、それ以外の感情を……他人からの偏愛や嫉妬なんかを纏えば食いつくのが一瞬でも遅れると思ったの……賭けだったけどね」
勝負は一瞬だった。
私は、自分に向けて【確定大失敗】を改変した術式を撃ち込み、私に集まる『よくないものの』の内、一部の感情だけを瞬間的に増幅させた。
偏愛や嫉妬も、本人の意識とは関係なく、時には自覚すらしない内に『不幸』に繋がることのある感情の一種だ。私がターレに裏切られたのと同じように。
そして、それは悔悟を抱える罪人の魂を好むという魔王からすれば、咄嗟に噛み付くのを躊躇うほどの異臭を放っていたことだろう。
『そうか……自ら、他者からの負の感情を身に受けるなど、よく決断できたものだ』
「生憎と、他人にどう思われるとかそういう類の心配事はあんまりしない主義なの……じゃないと、やってられなかったから」
野犬の姿をした魔王は沈黙している。
主人と密着していて攻撃できないのかとも思ったけど、どうやらもう敵意そのものがないらしい……それが、主人の心と繋がっているからかどうかはわからないけど。
「あの中で……あなたの記憶を見たわ。王族に取り入って、気に入らないやつを消すために唆して、最後には本当に心から信頼されてたのに裏切って……歴史に残ってる通りのろくでなし」
『ああ……そうだ……その通りだよ……アランとナタリアの娘よ、汝が恨むべきは父母ではない、この儂だ。過酷な運命を背負わせたのは、儂なのだ』
「……『民が我を殺せば王家に抗う民が災厄に斃れるだろう、王家の徴を受けし者が我を殺せばその悉くが滅びるだろう』」
『それは……』
「あんたの死後に見つかった儀式場に刻まれていた言葉、あんたの呪いの設定式でしょ。根本は因果応報の術式、あんた自身に『王朝』そのものへの呪詛を付与して、自分を殺した側にそれが向くようにしていた……王家も国民も『国』そのものだから。そして、結果としてあなたを殺したのは民の側じゃなくて、あなたの粛清を恐れた貴族の方だった」
『……バウァ・クウの記憶を見た。王家が滅び、貴族が消えても国は割れ、戦乱の時代が訪れただけであったと……儂は、結局どちらも救うことができなかった。ただ闇雲に……ナタリアに、その胎の子に、あまりに大きな罪を負わせてしまっただけだった』
『王朝』が滅んで、それまで悪政打倒のために団結していた地方領主たちは互いに次の王座を巡って醜い争いを始め、多くの無力な人が死んだ。
伝説の大魔法使いだろうと、未来の全てを見通せるわけじゃない。『王朝』が世界に与えた苦しみを、その罰を未来に遺すことがさらなる悲劇を呼ぶと考えたことは、自らもその歪みに人生を翻弄された男の思い描く未来としては妥当なものだったのだろう。
私を壊そうとしたのも……自分の失敗を、清算するためだったのだろう。生まれる前の罪、私自身が何もしていないにも関わらず背負わされた罪から生まれた呪いに苦しむ私が、もう苦しまないように完全に壊そうとした。
私も、あの闇の中で、何も考えられないようになってしまいたいとどれだけ思ったことかわからない。
けれど……
「赦すよ……私の母親も、最期に恨み言を言うようなことはなかった。あなたに呪われたのがわかっていても……誰よりも国のために尽くして、それで最期に国の人間に殺されたあなたが怨むのは当然だと思っていたから」
『違う……儂が名付けた子を、その伴侶を、どうして怨めようか。あの子らを裏切っておいて、新たな苦しみの時代を招いておいて、どの口でそんなことが言えるものか』
「それでも赦す……そのおかげでディーレ様に出会って天使になった私は、ある男を救った。その男は、たくさんの人を救ったよ。だから、あなたも、あなたを赦してあげて……あなたが幸せになりたいと思うのは、いいことだから」
きっと、この老爺が誰も呪わなくても、戦乱と同じような時代は訪れた。
権力者への恨みの消えない民衆がむやみやたらと地方の貴族まで捕まえて粛清していけば、指導者も監視者もいない王朝の跡地には、飢えと無法の時代が訪れるか他所からの侵略で多くの民が死ぬことになっただろう。
どちらがよかったかなんて、誰にもわからない。けど、これだけは言える。
「あなたが一番不幸にしてしまったと思ってる女の子は……不幸の中でも、頑張って幸せになれる強い子だよ。だから、信じて……おやすみなさい、おじいちゃん」
『ああ……ナタリアの娘、テーレよ……「知らせる者」、祝福を届ける者、か。名付けてやってほしいと頼まれていて、叶わなかったが……いい、名じゃないか』
まるで、孫を溺愛する祖父みたいに、私を撫でる老爺。
その表情は、もう大魔法使いのそれじゃなく……ただの、罪から解放されて人並みの幸せを手にすることだけを求めて歩き続けた、どこにでもいる枯れ木のような手をした、おじいちゃんだった。
『すまなかったな……汝のこれからに、赦しと幸福の在らんことを』
目が覚めると、身体が炎に包まれていた。
というか、火焔の腕に掴まれていた。
「うぉあっつ!? あれ、いや熱くないけど痛だだだだ! 何これ全身メッチャ痛い! 掴まれて痛いのか筋肉が痛いのかわからないけど余すとこなく超痛い!」
「テーレさん! よかったー! ようやく戻ってくれたーっ!」
「あ、やば、いまパキッていった! どっか変な音した! ギブギブギブ! 抱きしめるなら魔人じゃなくて生身でやってー!」
「じゃあえーいっ! むちゅっ!」
火焔魔人が消えたと思ったら、蓬が生身で抱き付いてキスしてきた。何このテンション。もしかして、なんかあった? あんたそういう趣味じゃないでしょ?
はっ……もしかして、さっき集めた偏愛とかの感情が……
「ぷはっ、てかマジで身体動かないんだけど……私、ちゃんと手足あるよね? 背骨とか折れてないよね?」
「もうほんっとうに大変だったんだから! 一度本気で変になった時、死ぬ気で押さえつけたんだからね! ……その、足首とか変な方に向いてるけど、ティアさんが言うには預かったポーションで治るらしいから」
「ぎゃー! やっぱり重傷!」
「だってそれだけやっても止まらなかったんだもん!」
まあ……それは、本当のことだろう。
何せ、魔王クラスの死霊が身体に入ってきたんだから、それを食い止めるには無茶をする必要があったのだろう。むしろ、戦闘系転生者だといっても独力でよく止めたものだ……明日明後日は筋肉痛で地獄だろうけど、それは覚悟しよう。
魔王『バウァ・クウ』なんて千年ものの大物魔王なんて、そうそう斃せるものじゃ……あれ?
「そういえば、『バウァ・クウ』は……」
「……バゥ」
……なんか聞き覚えのある動物の声がして、なんとか首を動かしてそちらを見ると、蓬に抱き上げられた私の手に、匂いを良く嗅ぐように鼻先を近付ける黒い犬がいた。結界の基点に刺しておいたはずの短剣を咥えている……というか、その毛色と尋常な生物とは思えない赤く輝く瞳は……
「バ、バウァクウ!?」
「バゥァ、クゥ……」
黒い犬は、私の目の前に不承不承といったような態度で地面に置いた短剣に向かって吸い込まれるように姿を消す。
その刀身は漆黒に染まり、毒々しい呪詛の気配を放っている。
「まさか……私に、宿替えするっていうつもり?」
…………返答はない。
けれど、いつでも出てこられるのに短剣に取り憑いておいて、そのままどこかに封印しろという話でもないだろう。喜んで仕えるというようにも見えない。
けれど、『罪悪感』や『悔恨』だって、『よくないもの』の原料の一つだ。私の側にいれば、それだけでも食い扶持に困ることはない。前の主の痕跡が世界から消滅した今、行く当てもないし私の所にいてやる……という、ところだろうか。
私は腹から抜け出しただけで、調伏したとは言えないけど……あのおじいちゃんの、最期の贈り物、ということなのかもしれない。
私に操りきれる自信はないけど……
「……いいわよ、グリゴリ。あんたの償いきれなかった分は、私が引き継ぐ……負債も遺産も、ちゃんと全部持っていってやるわよ」
私と蓬の様子を見かねたティアが速歩でポーションを持ってくる。よく見れば、土蔵はボロボロだし、私と蓬のぶつかり合いの余波でも受けたのか肌も服も泥だらけだ。
とりあえず、するべきことは……
「蓬、ティア。心配かけてごめんね……助けてくれて、ありがとう」
まずは謝れる時に、謝れることから謝っておこう。
世界に罪を遺さないように。私の心に罪が残らないように。
何だかんだと愛されテーレ。
これもある意味では『呪い』の一部なのかもしれないですね。トラブルの頻度と人脈の広さは裏表ですし。




