第206話 罪の沼底
side テーレ
史上最強の死霊術者グリゴリは、生前に魔法研究の禁忌に触れて『死刑』を執行されたことがあるという伝説がある。
かつての『王朝』の領土の東端、広大な砂漠の広がる魔力稀薄地帯『無神領域』の中にある稀少な魔力濃度的な意味での『オアシス』の一つに、『裁きの霊廟』という地下空間があった。そこは、『王朝』があった頃には処刑を兼ねた試練の場所として利用されていたと言われている。
そこは、元は巨大監獄に附設された罪人の遺体を埋葬されるために造られた場所だった。強大な魔力を持つ犯罪者を収容するには、魔法での脱出が難しく専門の知識がなければ遭難が避けられない『無神領域』の砂漠に囲まれた『オアシス』が収容に適していたからだ。
けれど、その特別な監獄に投獄され、死んでいった強力な魔法使いたちの遺体が数多く納められた霊廟には、いつしか彼らの魂の残滓を喰らう死霊や悪霊が集まるようになった。
彼らは、大きな罪を犯して死んでいった者の遺体に遺された強い残留思念……つまり、『罪の意識』ばかりを喰らう内に偏食的な性質を持つようになり、罪深い人間のみを好んで襲うようになったとされている。
そうして、監獄が死霊の被害で閉鎖された後、罪人ばかりを襲う死霊が無数に徘徊する霊廟は、いつからか死罪判決を受けた犯罪者を閉じ込め、死霊に襲わせるという使われ方をされるようになった。しつこく冤罪を主張する死刑囚に対して、『本当に罪がなければ生きて出口まで行けるはずだ』と告げて、入り口に押し込んで蓋をした。
けれど、まったく罪を犯さず生きているような人間なんてまずいない。死霊たちは侵入者の心に囁きかけ、生涯のあらゆる行いに罪を問いかけ、そのほとんどを喰らい尽くした。
その『裁きの霊廟』の主と呼ばれたのが、罪人の遺骸だけを喰って育った野犬が死霊たちと結びつき変質したとされる大死霊。
辺境の地下空間の王として語られる魔王『バウァ・クゥ』。
罪人がどんなに強大だろうと、決して倒されることのなかったと言われる霊廟の断罪人。全ての悪行が暴き出され最も熟成された罪人の魂を出口の間際で襲いかかるという、罪人の最期の恐怖を刻む怪物。
正確な記録のないほどの大昔。
グリゴリは魔法の研究が禁忌の域に踏み込んでいるとされて死罪を言い渡され、『裁きの霊廟』に押し入れられ……そして、生還した数少ない人間の一人だと言われている。
『裁きの霊廟』を抜けられるということは、死霊たちに襲われなかったということ……そして、魔王『バウァ・クゥ』に見逃されたということ。それにより、グリゴリは無罪放免となり、その研究は禁忌とは無関係のものだったと証明された。
……伝説上は、そうなっていたはずだ。
けれど、その『バウァ・クゥ』の特徴と合致する魔王がグリゴリに使役されているということは……
「信じられない! まさか、『裁きの霊廟』の魔王を倒して生還してたなんて!」
仮初めの翼で不安定になりつつある精神空間を飛び回りながら弓矢を射かけるけど、粘性の炎みたいな黒犬はびくともしないし、矢が直接グリゴリへ届くこともない。
魔王『バウァ・クゥ』の権能で周りの精神空間そのものが歪められていて、矢が狙い通りに飛ばない。それどころか……
「くっ!?」
射かけた矢が黒く染まって返ってきたものを、光輪で防御する。呪詛の属性を付与されたらしい矢は不気味な炎を振りまきながらもどうにか弾かれて四散する。
下に向けて矢を放ったはずなのに、まるで真上に打ち上げた矢が落ちてくるみたいに矢が飛んでくるんだからやってられない。私の精神空間だっていうのに、法則が乗っ取られつつある。こっちの術式は予め死霊術に有利に戦えるように組んであるのに、ダメージを与えられている気がしない。
『大きな口を叩いておいてその程度か、七十の時の儂よりも貧弱ではないか?』
「うっさいわね! 転生者でもないのに一人で魔王を倒せる人間の方がおかしいのよ!」
私自身、浄化系魔法が苦手なのがかなり痛い。
それを補うために時間をかけて土蔵の術式を準備しておいたんだけど、魔王相手は想定外にも程がある。有効打がないどころか、逃げ回るので精一杯だ。
『ほれ、逃げてばかりではこいつは倒せんぞ。まったく、儂の若い頃は、もっとなぁ』
「こんな時に年寄りの長話聞く余裕ないわクソジジイ!」
魔王が尾を振ると、槍のように鋭く伸びた死霊の槍が何本も群れになって私を追尾するように飛んでくるから、剣で弾く。けど、攻撃が重い……防御が光輪だけだと貫通するかも。
けど、浄化系術式を編み上げた武具類が何とか保ってるってことは、私の身体はまだ土蔵の魔法陣の内側にいる。蓬が食い止めてくれているはずだ。
けど……バウァ・クゥが犬が濡れた身体の水滴を飛ばすような動作をすると、死霊弾がさっきとは比べ物にならない数になって殺到する。
「巣穴に投げ込まれる餌ばっかり喰ってた番犬の癖に器用じゃないの!」
『ふっ、それは偏見というものだ。かつて行われていた試練は処刑しようにも手に余る罪人に免罪をちらつかせ、その命脈を絶つ天然の断罪者であったと同時に、こいつが餌を求めて霊廟から這い出ることのないように定期的に罪人が捧げられていただけのこと』
光輪と剣を同時に防御に回して全方向から集まる死霊弾を迎撃する。けれど、あまりの集中攻撃にすり抜けた一本が翼を掠める。しかも、死霊弾の掠めた部分から黒い染みみたいなものがジワジワと拡大し始める。
「呪いか! それも私に効く程の強度なんて!」
光輪で呪いを受けた部分の周りごと切り取ってどうにか侵蝕を止めたけど、その分スピードが落ちた。
これだと、また同じことを何回かやられれば防ぎきることも逃げ続けることもできなくなる。つまりは、ジリ貧だ。この精神世界では、あっちがやったみたいに時間稼ぎをしたら味方が助けに来てくれるなんてこともない。だったら……
「こっちから……ハァァアア!」
急旋回、からの光輪の出力を最大限に上げた状態での突撃。
狙いは魔王じゃなく、その使役者である死霊術者。思うように進まない弓矢も、放った矢を浄化の光として拡散させることで世界の歪みを可能な限り緩和させて、その中を剣で切り込んでいく。
『そうか……これ以上足が鈍る前に決めに来たか。その思い切り、判断としては悪くない。だが……』
あと、もう少し。
翼も光輪も異世界の法則に侵蝕されながら突き進むけど、剣はその刃を何とか保ってグリゴリの首に迫る。バウァ・クゥも、私のギリギリの軌道変更に動きが追いついていない。
取った、そう確信した。
目の前に、速度とか姿隠しとかそういうのとまったく異なった形で、初めからそこにいたかのように大口を開ける魔王の姿が現れる、その瞬間までは。
「えっ……」
『此は罪を喰らう者。どれだけ速く飛ぼうとも、自らの内なる罪からは逃れられまいて』
私は、溺れるほど濃く重い闇に自ら飛び込むことになった。
side 日暮蓬
こんな感覚は初めてだ。
いや……前世で、死ぬ少し前の時以来、かもしれない。
「はあ……はあ……うっ……」
テーレさんを包むオーラは最初より大分濃くなっていて、そうと知らなければその中に人がいることなんてわからないくらいになっている。
そして、その力も強くなってきているし、何より……
「その、黒いの……少し、反則……だよ……」
黒い犬みたいなオーラに噛み付かれると、魔人の炎そのものをごっそり削られるというか、その部分が黒く染まって上手く機能しなくなる感覚がある。そして、それが広がる前にその部分を完全に消して新たに魔人を再構築するんだけど、それがいつもやってるみたいに単に魔人を出し入れしてるときと比べてかなりの精神力を消耗する。
テーレさんは、『守護者』は精神を具現化するような転生特典だと言っていた。それに基づいて考えるのなら、あのオーラは私の精神に何か深刻なダメージを与えているということなのだろう。
今は疲労感が酷いだけだけど、かなりの汗もかきだしてるし、足もふらつく。魔人の大きさを土蔵の扉への通せんぼうに必要な最小限の大きさにしているから消耗は小さめだけど、それでも結構キツい。
あっちは休んでいるのかこっちの隙を窺っているのかわからないけど、じっとこちらを睨んだまま動かない。このまま、気は抜けないけど少し休めたら、もう少しどうにか……っ!
「グゥゥゥ……」
テーレさんを包むオーラが、より濃く、そしてより大きく膨らんだ。
精神世界の方で何があったのかわからないけど、あんまり良い傾向ではなさそうだし……こっちも、楽になれそうな感じではない。
最悪の場合、土蔵の扉を閉めてテーレさんを封印しなきゃいけないけど……それは、まだ早いはずだ。
「信じてるよ……テーレさん!」
黒い犬の姿をしたオーラが飛びかかろうとするように姿勢を低くするから、私も気合いを入れ直して魔人で構える。
何度目かわからない衝突が再開した。
side ???
あるところに、小さな村があった。
山間の谷間にポツリと存在する、争いからも縁遠い平和な場所だった。
けれど、ある日そこに外の人間が来た。
村の人々は彼らを歓待し、丁寧に扱った。地理的に貴重な外の情報や技術を持ち込んでくれる来訪者は手厚くもてなすというのが習わしだった。
彼らは、満足して帰っていった。村人たちは、習わしに従って彼らをもてなし、送り出したことを善い行いだと信じて疑わなかった。
けれど、次に彼らが来たとき、彼らは隣国の軍隊と一緒に現れた。
神の名の下、諸国統一を掲げたとある軍の遠征部隊が、『補給』のためにその村へと押し寄せ……備蓄を奪い、人々を殺していった。
遠征部隊の中に、その村の存在を知る者がいたばかりに。
その村が、人畜無害でろくな抵抗もできない人々しかいないことを知っていたばかりに。
蹂躙された廃村には、ただただ無力に打ち捨てられた村人たちの亡骸が転がるのみだった。
あるところに、小さな国があった。
長年中立を決め込み、自ら他国を攻めることなく民の平和と伝統を守り続ける小さな国だった。
しかし、ある世代の王家の姫に近付く者があった。
恋すら知らぬ箱入り娘はその者の手練手管に翻弄され、騙され、巧みに利用されて内政の秘密を教えてしまった。
隣国の息のかかったその者は、その情報を元に国を内側から切り崩した。国の支柱となっていた人々を家臣たちを暗殺し、後ろ暗い重鎮の弱みを握り、召使いたちの家族を人質にとって平和だった国を滅亡に導いた。
たった一人の少女の恋心を踏みにじり、都合のいい道具に変えて彼女の何よりの宝を粉々に打ち砕いたのだった。
あるところに、聡明な学者がいた。
彼は、多くの人々が望む魔法を実現するために半生を研究に費やし、人々の幸福を願ってその基礎理論を公開しようとした。
けれど、完璧に組み上げたはずのそれは、政府の息のかかった権威ある学者たちによって強引に否定され、学者はペテン師の烙印を押され、長い時間をかけて積み上げた富も名声も失った。
研究で書き上げた理論式は夜盗の放火で家ごと灰になり、再度行った実験は何度やり直してもその度に妨害を受けたかのように失敗し続け、何度も必死に最初の成功を訴えても誰にも信じられることはなかった。
彼が路頭で餓え死にしたことで、その研究が成功していれば国の強権を危うくする大きな力を民に与えてしまうものだったことを知る者は、表社会からは誰一人いなくなった。
罪、罪、罪。
数え切れないほどの記憶の断片が意識を呑み込む。
あらゆる時間、あらゆる場所、あらゆる視点で繰り返される罪悪の濁流。その中では、自分が女であり、男であり、政治家であり、兵士であり、学者であり、乞食であり、犯罪者であり、罪人だった。
一気に流れ込んでくる体験の感覚に、自分が今どんな姿なのか、どこにいるのか……どういうものなのかも、曖昧に乱れ続ける。
『これ……は……なに……?』
溺れる、罪に溺れる。
空気を求めて、救いを求めて口を開けばさらに罪が流れ込む。
苦しい、苦しい、痛い、痛い、辛い、辛い。無理やり流れ込んでくる濁流で、胸が張り裂けそうだ。
水みたいにどんどん喉の奥に流れ込んでくるのに泥みたいに重くて、コールタールみたいに粘ついて吐き出せなくて、毒みたいに焼け付く痛みを生み続ける。
こんなものが、この世界に……
『辛かろう、苦しかろう。神に認められた統一王、大義の上での遠征、平和を築いた華々しい英雄譚……それも、一皮剥けばこんなもの。こやつは、儂と共に国土を巡り土地に焼き付いた罪を喰らって生きてきた……儂と離れてからも、餌には困らんかったようじゃな』
誰かの声が聞こえてくる。
知ってる声のはず、聞き覚えがあるはず……誰……?
話しかけてくるのは、誰? それを聞いてるのは……
『無駄に藻掻くのをやめるがいい……諦めて沈め。自我など手放してしまえ。この程度で溺れるのなら、この世は汝にとって地獄そのもの……それらは他でもない、汝へ向けられしものじゃ』
わからない、何も見えない、聞こえない。
怖い、怖い、こわい、こわい、誰か、誰か……
『……今度こそ眠るがいい、腐った大樹に芽吹いた最後の若葉、終わるべき時に終わり損ねた歪な蕾よ。どのような形であれ……汝は、汝自身のためにも生まれぬ方が幸福だったのだ』




