第183話 死ぬ気でやれ
side 日暮蓬
私の初恋は、新しい主治医の先生だった。
そもそも、義務教育すら通信教育で済ませた私に他の人との触れ合いなんてほとんどないようなものだし、必然と言えば必然だった。
他に男の人を知らないからこその消去法だったかもしれない、先のない人生にせめて恋という幻想を求めていたのかもしれない。けれど……私にとってはそれが本当に本気の初恋だった。末期の、彼と出会ってからの私は、彼と話せる時間だけを楽しみに、日々死に近付いていく苦しみを耐えていた。
だから……身体が呼吸と鼓動を止めたあの日。
『幽霊』になったあの時。
私は、真っ直ぐに彼の所へ駆けた。
生きている間に想いを告げたことはなかった。できるわけがない……年相応の恥じらいもあったけど、何よりこれから死ぬ人間に告白なんてされても困るのはわかっていたから。
結局、私はある日から急激に状態が悪化して朦朧としたまま、昏睡状態から回復することなく命を失った。なんてことはない、免疫不全からの日和見症感染、奇跡的な回復なんてドラマはなくそのまま他界。よくある話だ。
だから……先生から私が見えるかどうかなんてわからなくても、どうしてももう一度だけ先生に会いたかった。
会って……『好きでした』と言えるかどうかはわからないけど、『今までありがとうございました』って、『私は治してもらえなかったことを恨んだりしてません』って、言いたかった。
それがある種の失恋だとしても、そのお別れが言えれば私の人生は、最後にちゃんと恋をしきったと思えたなら、それで満足できると思った。
そう……夢見がちな箱入り娘の私は、思い込んでいた。
けれど、現実の光景は、思っていたのと少し違っていた。
「煙草、また始めたの?」
「ああ……あの子の親が、うるさかったからな。今まで我慢してた分、少しくらいならいいだろ」
隣に女の人が……女医さんがいた。
休憩室か何か仮眠室かだったと思う。
先生は私が今まで一度も見たことのないラフな格好をしていて、女医さんはなんだか……白衣をそこら辺に脱ぎ捨てて、服を着崩していた。
それに……先生にしなだれかかるみたいに、すごく当たり前に触れ合っていた。
「そう……まだ今日のことなんだし、自重しておいたら? 親御さんはまた来るんでしょ?」
「へっ、構わねえよ。書類やらを渡すだけだ……もうこれきりの縁だってのに、わざわざ咎めやしねえさ」
「だからってねえ……少しくらい、あの子のこと、悼んであげたら? これきりなんて……」
「は? 馬鹿言うんじゃねえよ」
先生はいつも私の目の前でみせていた優しい表情からは想像できないような……酷く気怠げな顔で、その瞳には映らないけれど、目の前にいた私に向かって、確かにこう言った。
「最初から、すぐ死ぬのがわかってた患者だ。それを一々気に病んでたらやってらんねえよ……そういうのは、さっさと忘れちまうに限る」
いっそのこと……私の言葉も姿もあちらから見えないのなら、こっちも何も聞こえなければよかったのに。
『恨んだりしてません』と言うつもりだったのに。
落ち込んでいたら『落ち込まないで』と言いたかったのに。
先生が誰かと付き合っていたとしても、想いだけは伝えたかったはずなのに。
「……ん? わりぃ、ライター貸してくれ。オイル切れか? ……う熱っつ! いきなりかよ調子わりぃ……ん? どうした?」
「……いえ、今、誰かがこっちを見てたような……いえ、気のせいでしょうね」
私は廊下を駆けた。
幽霊が涙を流せるかは知らないけど、間違いなく人生で一番酷い顔だったと思う。瞳が、頭の中が、胸の奥が今にも全身を焼き尽くしてしまいそうなほどに熱く感じた。
なんで自分はまだここにいるのか、今すぐにでも消えてしまえればどんなにいいことか……少し前までは想いを遂げるまでは消えないでほしいと願っていたのに、死んでも魂が残っていたことを心底恨めしく思った。こんな思いをするくらいなら、心臓が止まったのと同時に何も残さず消え去ってしまえばどれだけよかったかと思った。
どこまで駆けたか、どこまで駆けたかはわからない。
生きてたときの身体ならそんなに動ける体力なんてなかったはずなのに、疲れすら感じられない幽霊の自分が憎らしかった。疲労して倒れてしまえればどれだけよかったか、生身ならきっと今の自分は本当に死ぬまで走り続けられるだろうと思った。肉体の限界が来ても消化しきれないこの気持ちのために死んでしまうだろうと確信できた。
それだけ苦しくて。
心がバラバラになってしまいそうで。
自分が自分でなくなってしまうような思いさえして……
「生者かと思えば幽鬼とは、最近の若者にしては珍しくはっきりした魂ネ。依頼は受けてないケド……」
暗闇の中すれ違った私とそう変わらない背丈の女の子が、私を見て話しかけてきた気がした……いや、話しかけたというより一方的に、慰めるように。
そっと頭を撫でるように首筋を指でなぞられた……そんな、気がした。
「仕事のついでヨ。何があったか知らないけど、悪霊なんかになるより綺麗な内に成仏した方がましネ。今度こそ、しっかり生まれ変わるといいヨ」
不思議と、パンパンに膨れていた風船から空気が抜けるみたいに気持ちが楽になっていく感覚と共に、気を失った。
次に私が目覚めたのは、豊穣の女神を名乗る『神様』の前だった。
そして、私は今になってまた、あの時の感情を思い出し始めている。
私の前から飛び立とうとするドラゴンの翼を掴んで、私から離れていこうとするピエロの前に石を投げる。
『治してくれる』と言ったのに。
さっきまで、私の手が届きそうなところにいてくれたのに。
地面に落ちて、自分たちが安全じゃなくなったら、治してくれなくなっちゃうの? 私を治すために頑張ることより、自分が痛い思いをしないことの方が大事なの?
「もっと、傷付いてよ……もっと、引きずってよ……もっと、苦しんでよ……」
ドラゴンが身体をぶつけてくる。
私はそれを炎の腕で受け止めて、さらに熱くする。
ドラゴンは暴れて逃れようとする……私から、離れようとする。
「手遅れだから……? 今の医術では根治できない病気だから……? 同じような人は他にもたくさんいるから……? そんなこと関係ない!」
ドラゴンが苦し紛れに火を吐いてくる。
けど、そよ風みたいだ。そんな今さっき始まったばっかりの苦しみから生まれた火なんかより、私の方がずっと熱い。私の方がずっと辛かったんだから! 私なんて、私なんて……!
「私なんにも悪いことなんてしてないんだよ! 悪いのはパパとママなのに! なんで私だけなの! なんで私だけ! 健だって外で遊べるのに! お姉ちゃんだって学校行きたかったのに!」
拳をそこらに打ち付けると岩山の壁がひび割れて崩れる。
地面が揺れて、地割れが起きる。
「どんなに頑張っても治せない病気だなんて最初から知ってるよ! 長生きできないなんてわかってるよ! 私なんかをお嫁さんにしたい人なんていないなんて言われなくても理解できるんだよ! でもさ! 私にとってはそれが人生の全部だったんだよ! 何万人もいる同じ病気の誰かが死んだんじゃなくて、世界にたった一人しかいない私が死んだんだよ!」
炎と共に吼える。
周りに広がった熱気が全てを焼き焦がす。
地下水でも沸騰したのか、地面から蒸気が噴き出して周りを白く染める。
「長生きできないってなによ! どうせすぐ死ぬからって、かわいがっても後で辛いからって病院に閉じ込めて贈り物でごまかして! 大人になれないのがなによ! 私にとってはたった十五年でもそれが人生の百パーセントだったのに! 他のみんなは五倍も六倍も長生きできるなら十五年くらい私に向き合ってくれていいじゃない! 私だってずっと頑張ってたのに! 注射も薬も文句言わずに我慢したのに! 本当は早く死んでもいいから一度くらいテレビで見たようなキャンプとかしてみたかったのに! 生きてても辛くて未来なんてないのに、みんなが生きろって言うから頑張って生きたのに!」
周りをがむしゃらに引っ掻く。
焼き切られた岩が崩れて雪崩をおこす。
「私は死ぬまで頑張ったんだから死ぬ気で治してよ! 辛いからって妥協しないでよ! 医術の発展に貢献したとかきれいごとでごまかさないでよ! 私は未来の誰かなんかじゃなくて私を治してほしかったの! 治せないとしても……未来なんかじゃなくて、この私と向き合ってよ! 死ぬほど全力で治してよ! 私が死んだら死ぬほど悲しくて苦しいって思ってよ! かっこつけずにみっともなく泣いてよ! 微妙な悲しみ方して女の慰め求めてんじゃねえよ! 勃たないくらい本気で落ち込めよ!」
水蒸気が晴れていく。
さっきの二人を探して視線を彷徨わせるけど……姿が見えない。匂いも薄くなっていってる。
水蒸気で見えなくなったあの時に……逃げられた?
「もう……どうしてみんな、いなくなっちゃうの……」
これまでも、そうだった。
冒険者の人たちも、転生者の人たちも……みんな、私を化け物扱いして襲って来たり、逃げようとしたり、話も聞いてくれなかったり……私は、ただ……真剣に向き合ってほしかっただけなのに……
「もう、治せなくてもいいから……死ぬ気で、向き合ってよ……誰か、私に触ってよ……」
もう、誰もいない場所にいてもしかたない。
人の匂いのする場所に行こう……人がたくさんいる場所なら、誰か一人くらいいるかもしれない。
私を見てくれる人が……私を本気で退治してくれる人が。
もう、それでもいい……どうせ、治らないのは最初からわかってるんだから。
「了解しました、日暮さん」
知ってる声がした。
知ってる匂いがした。
ああ……そうだ、思い出した。私は、ずっとこの匂いを探してた。あの森の中の街で『悪い転生者』を倒したという人を……街一つを支配するような転生者から逃げずに戦って、転生者とは思えないような戦い方で勝ってしまったという……他の転生者の人たちと違うかもしれない彼を。
彼は……狂信者さんは治療のために脱いだのかいつもの黒衣を着ていない、脇腹に血の滲む包帯を巻いた姿でそこに立っていた。
何か魔法でも使っているのか、身体に金色の光を纏ってるようにも見える。
それが狂信者さんの防御力を上げる効果でもあるのか、普通の人が立っていられないような熱さのこの空間に立っている。
「ゼットさん、あれをやります。熱伝導の低下と冷却に集中してください……血液消費への配慮は不要です、全力でないと死にますから」
脇腹の傷口から、黒く変色した血が流れ出て、身体の表面に植物の蔓が伸びるみたいに刺青の如く広がって魔法陣らしきものを形作る。その瞬間から、狂信者さんの周りの空気の感じが変わる。匂いもほとんどしなくなって、周りの風景も少し歪んでいるように見える。
防御魔法……のようなものなのかもしれない。そんなもので、私の火焔を防ぎきれるとは思えない。離れて語りかけるとかで精一杯だろう。
「日暮さん、先に言っておきます。これまで、私たちはあなたの能力について『解決』を手伝ってきましたが……元々こちらはあなたを『治さなければいけない患者』だとは思っていませんでした。まあ、日暮さん自身が不便していたのはその通りですし、睡眠中の独り歩きは原因究明が必要でしたが、あなた自身の能力に欠陥があるわけではありませんでした。ただ単に強すぎて、あとは少々不器用なだけで、『暴走』はしていない。暴走しているとすれば、日暮さんがあなた自身の精神をうまく扱えていないというだけでしょう」
「狂信者さんは……私が、心の病気も持ってるって言いたいの?」
「いいえ、思春期の心とはそういうものなのでしょう。むしろ、そのくらいの方が極めて健全ですよ……あなたのその気持ちは、間違ってなんかいません。周りの人間から粗雑に扱われれば不快になって当然です、自分の生活や治療費がずっと親から出されているものとわかっているからこそ、もっと見てほしいという願望を身勝手な我が儘のように思ってしまって溜め込んでしまうというのも順当です、もっと論理的でありたいという反面、望んでもないのに湧き出る非論理的な感情に振り回されて周りの物や人に当たってしまう……」
狂信者さんの目は、私の目を真っ直ぐに見つめていた。
その瞳には私の赤い炎がはっきりと映り込んでいた。
「日暮さん、あなたはずっと『いい子』だったんでしょうね。自分が生きるために周りの人がどれだけ力を貸してくれているかを、人が一人では生きていけないということを物心つく前から知っていたからこそ、自分が借りを作っていない人間が周りに一人もいなかったからこそ、その恩に仇を返すようなことができなかった。あなたは恩義に厚く、常に感謝を忘れない素晴らしい心を持っていた……だからこそ、その激情を自分一人の胸に溜め込んでしまって、そこまでの強さを得た。興奮して、泣き出してしまえばそれだけで心配をかけてしまうからその気持ちを表に出すことすらできなかった……私の想像ですけどね。そうでもなければ、ここまでの『守護者』は生まれないでしょう」
狂信者さんが、こちらへ足を踏み出す。
より熱い、私の近くへ、自分から踏み込んでくる。
その顔には汗が浮かび、平気ではないことがわかるけど……止まらない。
「日暮さん……あなたには、世界を恨む権利がある。あなた自身に悪意も過失もなかったのに、ただ運が悪かったというだけで、あまりに多くのものを失った。ただ十五歳で雷に打たれて死んだというよりも、より多くのものをです。その十五歳に至るまでの人生のほとんどを厳しい条件で生きることになったのですから。それを無為だというつもりはありません。その十五年そのものを失ったというつもりはありません。あなたの人生です。できることが限られていたとしても、その中で必死に幸福を求めた大切な時間だと思います」
また、地面から蒸気が噴き出す。
魔人が縮み始める。何故か……近付いてくる狂信者さんの姿を見て、その言葉を聞いて、火勢が弛んでいく。魔人の大きさが五メートルを下回って、地面に私自身の足がつく。
「だからこそ……誰にも真似できないようなその忍耐の結果であるその姿を愛おしく思います。必死に我慢して、周りの皆さんの幸福を護ってきたからこそ、今度は自分がこれだけ怒ったとしても罰は当たらないという確信がある。今度こそ自分を束縛するものを全て破壊してでも幸せになってやるという想いは、狂おしいほどに美しい。だからこそ……」
水蒸気の向こうから、その影が見えるほど近くまで歩み寄った彼の影。
囮や身代わりなんて奇をてらったものじゃない……本当に、生身のまま、どうやってか全身に火傷を負いながら、同時にそれを回復しながら。
私との間にある魔人の身体、火焔の障壁に石化した両手を差し入れて……物理的な遮断性をもつそれを、力尽くでこじ開けて、身体を差し入れた。
そして、私のすぐ前……私がこれまでの人生で一度も体験したことがないくらいの近距離から、私の顔を見つめながら、私の顔をその瞳に映しながら、笑顔を解いて、彼自身その表情に慣れないようにぎこちなく眉間にしわを寄せて、叱りつけるように強めに言った。
「いつまでも前世のことでいじけてないで、さっさとセカンドライフを楽しみなさいって話ですよ、この頑固者。私と違って、せっかく青春の間に転生できたんですから。青春なんてすぐに過ぎちゃうんですから、拗ねてる時間だけ損しますよ」
右手の石化を解いて、中指を親指にひっかけて力を溜めてからの……軽いデコピン。
本当に軽そうな動作に見えたのに、その衝撃は思いのほか強くて、それこそ意識が飛ぶほど痛かったんだけど……
「ごめっ……ん……きゅぅ……」
誰かにデコピンされたことなんて、今まで一度もなかったのを思い出して……なんだか少しだけ、嬉しかった。




