第136話 対神試験
side テーレ
私が医術を学ぼうと思ったのは、神聖系の魔法、浄化や癒しの魔法がなかなか上達しなかったことが原因だった。
魔法は精神を現実世界に反映するという奇跡。
それだけに、精神の奥底に潜んだ私の『悪』、『やってはいけないことをしたい』という願望は治そうと思えば壊したいという欲求を、浄化したいと思えば穢したいという背徳を呼び起こし、それが邪念として混ざり込んだ魔法は他の天使のように相手をきれいに癒すだけの力がなかった。
そこで私は、精神性が反映される魔法ではなく純粋に知識と技術だけがものを言う、薬学や化学に基いた医療技術の知識を求めた。
そもそも肉体ではなく魂が生命の主体となる天界で、当たり前に魔法という奇跡で生物を治すことができる天使の世界で、それができない人間が使うために確立された医学を学ぼうという思想は明らかに異端だった。
現世も多少の薬や傷の縫合などの文化はあるものの魔法が主体でほとんど発展しない分野、他の世界の視察の仕事などを受けて持ち帰った知識で独学の技術を確立するのは限界があった。
そこで、私は天界での伝手を辿って『医術』に関係のある概念を持つ神々や天使に教えを請おうとした。この世界では技術が発展していなくても、人体や薬の効果について詳しい彼らから知識を得られれば魔法に頼らず『生物を治す』という技術を極められるのではと思った。
けれど、それは困難を極めた。
他でもなく『癒し』を司る彼らにとって、私という『不幸』を招き寄せる性質を持つ存在はとても関わり合いになんてなりたくないものだった。司る性質が性格にも影響を及ぼす以上、私のような傍にいるだけで状態を悪化させるという存在は、さながら手術室に入り込んだ雑菌のごとく嫌悪の対象であって然るべきだった。
そんな時、各所で門前払いをくらっていた私に目を向けたのが……『医術』や『薬学』どころか、全ての学問を網羅する『知識』そのものを内包する大天使様。
私の『悪』をものともしない、真に生と死を超越した立場にある存在……私みたいな下っ端天使にとっては、同じ天界にありながら天の上の存在だったはずの、アジム様だった。
アジム様は超越的存在だ。
『個』という概念に囚われず、無限に分体を生み出すことができる。
なんでも、主神様が天界を再構築し始めた頃は従属神や天使たちの役割が定まるまでの間はその能力を用いて、天界の仕事全てをアジム様だけで処理していたらしい。
今でも仮にすべての神々や天使が主神様に反目したとしてもアジム様と主神様がいるだけで天界のシステムが機能するとすら言われているくらいの規格外な存在だ。
労力で言えば、私に医術という自身の持つスキルの内の千分の一の知恵を与えるために分体を一人割り当てる程度は、暇潰しにもならないだろう。けれど、アジム様が私にそんなことをする義務は全くなかった。
私は否応なく、医療技術を学べるその機会に縋り付いた。
アジム様自身の分体を使った生物の構造の理解や、治療の実践や私の調合した薬の実験にまで付き合ってもらって、私はこの世界の人間の持っている医学薬学を越える技術を体得した。
アジム様がどうしてそんな気まぐれを起こしたのかは、今もわからない。
もしかしたら、現世の人間がまだ理解できないでいる技術を広めるための布石として、丁度良くそれを学びたがっていた私を見つけて技術の伝達に利用したのかもしれない。
現に、私がこうして『従者』として現世に来て調合した薬や、方々で行う医学的な治療によって技術体系に何かの革新が起こる可能性は大いにあるだろう。
それぐらい、そういうふうにしか思えないくらい、私に医術を教えていた時のアジム様は淡々としていて、考えが読み取れなかった。それこそ、冷血で鋭い蛇のような眼差しは本当に感情というものが読み取れなかった。
アジム様は天界で最強の大天使。
天使の中で最も天界という『システム』に大きく食い込んでいるが故に、アジム様個人としての考えというものが読み取れない……ともすれば、ないのかもしれない超越者。
ただ、一つだけ言えるとしたら……
「マスター! そのアジム様が現世に現れたとしたら……それは、天界のルールに関わる、世界に影響のある何かが起きたってことだよ!」
アジム様は善も悪も超越した存在。
最強の大天使として、従属神とされる数多の神々を通して現世を統べる主神様の、その絶対的主権を維持する最高戦力。
だからこそアジム様の強さは理不尽であり、同時に理不尽な理由では絶対に振るわれることがない。
それはある意味、私にとっては善意の女神であるディーレ様の善良さと同等に、この世界で最も確かだと信じられる真理の一つだ。
side 狂信者
「『なるほど、了解しました。つまり、戦っても絶対に勝てないし、理由がなければそもそも襲われるようなことはあり得ない、と。また動きが激しくなってきたので余裕ができたら連絡します』」
はてさて、確かに言われてみれば私には攻撃される理由がないために実害を受けていない。
そして、コムギさんもそれを理解しているために、攻撃されない私を盾にしながら戦うことで圧倒的な強さを持つ大天使アジム様との戦闘を何とか成立させているようですが、さすがはテーレさんの『万能従者』の完全上位互換、私に攻撃を当てずにコムギさんだけを攻撃しようとじりじりと間合いを詰めてきています。
となると、むしろ異様なのはコムギさんの方ですね。
アジム様が私に攻撃して来ないとはいえ、私がテーレさんと通信できるくらいの余裕をもってアジム様の攻撃を防いでいるのですから。単純に壁としてアジム様との間に動かすくらいではすぐに対応されてやられているでしょうし、動きが激しすぎて私は死なないまでももっとダメージを蓄積させているでしょう。
となると……
「コムギさん、この空間からの脱出手段はありますか?」
「ん、出口? 創れるけど、創らないとないよ?」
「では、それにどれくらいの時間がかかりますか?」
「5秒くらい同じ所にいないとムリ!」
「5秒ですか、長いですね!」
戦闘の動きが激しすぎて5秒どころか1秒たりとも同じ座標に留まっていられない状態です。こうして話している今も高速移動の真っ最中ですし。樹木を召喚して壁を作っても2秒と保ちません。
というか、未確定でしたがこの空間はやはりアジム様の創ったものらしいですね。そうでなければ出口を創るなどと言わず空間ごと元に戻せばいいわけですし。
であれば……
「では、もしや天使様の気を逸らすようなことができれば、その一瞬を突いて素早く出口を創れたりというのは?」
「うーん、できなくはないけど……気を逸らすのも私なら、やっぱり無理だよ? 出口創る余裕ないからね!」
「いえ、あなたにはそちらに集中していただければ大丈夫です。気を引くだけなら、一瞬だけどうにかなるかもしれません」
「……あなたが手伝ってくれるの? ちょっと意外」
「もちろん、ただでとは言いません。しかし、そうでもしないとしばらく終わりそうにありませんので。テーレさんを心配させてしまいますし」
追い込まれていますが、コムギさんはまだまだやれるご様子。アジム様の方も言わずもがな。
しかし、振り回されている私は下手をすると直接的な攻撃を受けることがなくてもこの急激な動きに耐えられず参ってしまうかもしれません。
事故が起これば私の肉体など簡単に千切れ飛びかねないこの状態を続ける賭けというのはさすがに御免です。
ですので……
「あなたの目的は勝てないまでもあの天使様への鬱憤を晴らすこと、『やっつける』というのは別に『倒す』でなくてもいいでしょう。ならば、一回だけでも天使様を出し抜けたら、あの天使様があなたを逃がさないようにと仕掛けたこの空間の檻を抜け出せたら……それで満足してもらえませんか?」
まあ、別の解決法もなくはありませんが、コムギさん……いえ、彼女の動きを邪魔してアジム様に捕まりやすくするというような方法は、後々のことを考えるとやめておきたい選択肢です。
ですので、少し無茶にはなりますが、テーレさんの言っていたアジム様の真面目さに頼るとしましょう。
そして、同時に……私が一度はやってみたかった『実験』に、ご協力願いましょう。
神々が現存し、神代が続くこの世界において人間の力が、どの程度まで届くものなのかということを確かめるための実験に。
「矛盾命題、『全能の神は自分の持ち上げられない石を生み出せるか』。この世界の全てを総べる神ならば、『在るもの』と『創りしもの』に差異はないでしょう」
まあ、そうやって大層なことを言ってみても、やることは単純なのですがね。
ただ単に『真上をとってもらう』。それだけです。
コムギさんは地表のアジム様を囲うように大樹を一度に大量生産し、その梢を掴んで天頂へと向かいます。
これまでの植物召喚を遥かに超える本気の一撃のようですね。
並みの相手ならば、成長し一体化していく大樹に挟み潰されてしまうのでしょうが、流石は大天使アジム様。光輪が障壁のようになり、樹木の圧力を押し返しています。
足留めにはなっている……のですかね。
まあ、受けて下さるというのならありがたい。胸を借りることとしましょう。
「じゃあ、いくよー! ポイっと」
コムギさんによる投擲。弾はもちろん私です。
私はあくまでも受動的に、私を担いでいたコムギさんから落とされる、それだけです。
「アジム様。私が彼女に『落とされて怪我をする』というのは、放置するとマズいのでは?」
位置はアジム様の真上。
といっても、私がぶつかったところでアジム様にとっては大したダメージにならないでしょう。むしろ、私の方が受けるダメージは大きいはずです。
まあ、それは私が生身の場合の話ですが。
アジム様は動揺もせずに私の落下する軌道に片手を伸ばします。
今回のように数百メートルの落下では難しいかもしれませんが十メートル程度なら下位互換能力の『万能従者』を使うテーレさんでも私をキャッチするくらいはできるでしょう、アジム様ならそれこそ片手間で足ります。
ですが……
「【さあ 思考実験を始めましょう】……【矛盾命題 神を試してはならない】」
受け止められる直前に発動する私の魔法。あくまで『アジム様がキャッチに失敗してもダメージを受けないため』ですがね。大天使でありテーレさんの師とも言えるアジム様を攻撃するために魔法を使うなど、さすがに畏れ多い。
しかし、結果として攻撃とは言わずともアジム様の行動を阻害してしまうというのは仕方のないことでしょう。
「…………【我を試すか?】」
おそらくは魔法を使って私の落下の衝撃を打ち消してそのまま上昇を続けてコムギさんを追うつもりだったのでしょう。私という盾を落として囮として、空間から抜け出す。それが定石でしょう。
しかし、それは【神を試してはならない】を発動した私の座標が『上』へ向かうということ。
『何者にも持ち上げられない石』を持って高度を上げようとしたのです。魔法で衝撃を打ち消しても、私自身の魔法は打ち消されていません。
そして何より……これは『対神術式』。
自発的解除にすら条件を付けて出力を過剰強化したのです。いくら大天使様相手であろうと、そんな一言で解呪されてたまりますか。
まあ、解呪ではなく『砕く』つもりなら別かもしれませんが、私自身に害を与えるような術式を使わずに外部から解呪ができるほど安全な術式ではないのです。
何せ、この魔法の命題は、有名な『矛盾』についての思考実験。
『全能の神は誰にも持ち上げられない石を創造し、またそれを持ち上げることはできるか』。
ゲーム的に言ってしまえばバグ誘発不可避の特殊物理演算を誘発する魔法なのですから。
ちなみに、なんでそんな危ない魔法を作ったかと言えば、『やってみたかったから』という他にありません。
神々が実在し、魔法という『全能』が存在する世界に転生したのですから、前世では思考実験でしかできなかったものを実証してみたいと思うのは至極当然のこととして、せっかく合成に使えそうな魔法や能力があったのです。
そりゃあ、やるでしょう。
もしも機会があれば試してみたいと、そのためだけに物理的ステータスが無限の神々を相手にしても問題なく通用させるための魔法を作ったのです。最も主神様に近しい力を持つであろう大天使にお目にかかれたこの機会に使わず、いつ使うというのか。
……まあ、作ってみたら意外と魔力消費や発動速度も悪くないので普段の戦闘でも使っているわけですが。
して、気になる実証実験の結果は……
「……【我の顎は其処へ届く】」
アジム様は自らの身体で私を柔らかく受け止めながら、肩の蛇を伸ばしてコムギさんへ向かわせました。
実験としては成功。私の重心自体は高度を上げていません。
しかし、落下もしない……押し上げようとすればするほど重くなるという性質を即座に理解し、その対応として最適解である『減速させつつ落下させ続ける』という行動に瞬間的に移行しましたか。
その僅かな動揺によってコムギさんの出口創造にかかる時間が短縮されるとしても、それでも逃げ切りは不可能。それはアジム様の反応からわかりました。
ですが……これは、予想していましたかね?
『【確定大失敗】!』
コムギさんの作り始めた『空間の歪み』に外部からねじ込まれるテーレさんの干渉。
通信越しにお願いしたときの当人はかなり嫌がっていましたが、こちら側だけでもやると言ったら嫌々ながらも了解して下さいました。
しかし、それでも後一押し……仕方ありません。
ここは異空間化しているはず、ならば周りに被害が出ないと信じましょう。
「【神を試してはならない】解除。詠唱省略、【過剰浄化 神のものは神の手に】」
私はコムギさんやテーレさんのように空間にピンポイントに穴を開けるような手段は持ちません。ですので、助けになるかはわかりませんが……この魔法の対象は周囲の空間そのものです。
まあ、今回利用するのは発動時の副作用の方ですがね。精度も必要ないし手加減無用のつもりで詠唱は敢えて省略です。
魔法の最も基礎にある原理は、自身の内外の現実強度を変化させて優先度に上下の差を作るということ。
そして、空間の現実強度を下げるということは、事物がそこにあるという事情の絶対性……この特殊な空間の安定性が落ちるということでもあります。
対空間設定の魔法で少しでもこの空間が不安定化すれば儲け物、といった所ですがね。
「えーい!」
『アジム様! お許しください!』
揺らぐ空間、モノクロの世界に混ざり始める現実の色。
アジム様の手に僅かに力が入りました。
そして、残っていた方の蛇頭が口腔に熱を溜め込み……
「……【否、現世を滅す故無し】」
指を鳴らすような音と同時に、世界の色彩や風景が標準的なものに戻ります。
コムギさんが空間の壁を割る前に隔離の権能を解いた、というところでしょうね。つまりは……
「バカマスター! アジム様に刃向かうとか馬鹿なの!? 死ぬの!?」
テーレさんの叫び声。
そして、落下傘のような植物をパラシュートにしてゆっくりと降りてくるコムギさん……いえ。
「私たちの勝ちのようですね。満足しましたか……『豊穣の女神』アルファ様?」
私の問いかけに、こっそり天界から現世に遊びに来ていたのであろう彼女は地母神とは思えない幼く快活な笑顔で応えて下さいました。
「うん! ありがとね!」




