第四十話 あさきゆめみし
いくらテンタクルビーストが宿主のダメージを無視して動くとはいえ、四肢を斬り落とされれば動きようが無いだろう。
けれどこっちのダメージも小さくない。左腕は軋みを上げているし、大きく裂けたスカートの下からは深い刺し傷が覗いている。
だがそれも終わりだ。
橙色の光沢を放つ芽を切り落とされ、巨体が沈黙する。
倒れないのは、周囲の木々から張り巡らせた鋼の糸で身体を拘束しているからだ。
アリアの鋼糸を残しておいて良かった。
そうでなきゃ、これだけの数を一度に縛るのは俺の神経糸だけじゃ不可能だった。いや、出来なくはないけど、そこまですると俺自身も身動きが取れなくなる。
さて、息を吐いている暇なんて無い。
一秒でも早く帰って薬を作らないと。
鋼糸に魔力を通して操り回収する。
日が昇った森の中、屋敷に向かって走りだした。
「グルゥ」
細切れになったテンタクルビーストと宿主の山。その臭いを一匹の獣が入念に嗅ぎ回っていた事を、俺は知らない。
帰り着いたときには既に昼を過ぎていた。
逸る気持ちを抑えて部屋の扉を叩く。
「ナタリア、っ、酷い怪我!」
扉を開けたオリビアは僅かに喜色を滲ませていたが、俺の姿を見て一転する。
「いえ、動作に支障はありません。今すぐ薬作りに取り掛かります」
「駄目よ! まずナタリアの手当てをしないと!」
「時間がありません。優先順位を間違えないでください」
俺を気遣ってくれるオリビアを強引に黙らせる。
半ば押し入るように部屋に入り、作業に取り掛かった。
ちらりとオフィーリアの様子を見ると、今は眠っているようだ。
収納空間から錬金鍋を出し、レシピに従い材料を揃える。
薬草の類は既に庭で摘んできた。
確認し、再確認し、錬金鍋に材料を入れて蓋をする。
鍋に魔力を流し込むと、中が淡い光を放ちだした。
錬金術に必要なのは魔力の量ではなく繊細さだ。
俺の魔力が髪の毛よりも細い幾千万の指となり、材料の成分を分解していく。
この薬は冷やす必要があるので、魔法で冷気を発生させて鍋を外から冷やす。攻撃魔法未満の基礎現象で済む程度で助かった。
やがて鍋の中に琥珀色の液体が出来上がった。解呪薬の完成だ。
これでオフィーリアに飲ませるだけだが、寝ている人間に薬を飲ませるのは危険なので起きてもらわなければいけない。
「ご主人様、起きてください」
もうこのまま目覚めないのではないか。
そんな不安に駆られながらも、努めて冷静に声を掛ける。
「ん……ナタリア?」
オフィーリアがゆっくり目を開け、俺の名前を呼んでくれた。これだけでもう安心して膝から崩れそうになる。
だけどそういうわけにもいかない。
「ご主人様、薬が出来ましたので飲んでください」
まだ夢現なオフィーリアを抱え起こし、解呪薬を匙で取って口へ運ぶ。
血色の悪い紫色の唇に解呪薬が吸い込まれる。
オリビアがコップに入れた水を差し出し、少しずつ流し込むように嚥下される。
薬を飲み込んだオフィーリアは意識が覚醒してきたのか、穏やかな目を俺に向けた。
「今のはテンタクルビーストの解呪薬ね」
「はい。勝手ながら、ご主人様のメモを基に作りました」
「そう…もうテンタクルビーストを倒せるまでになったのね…」
目を細めるオフィーリアに背筋が凍りついた。それは命が救われた人間の見せる表情ではなかったからだ。
「お母様、もう大丈夫なのよね? これでお母様の呪いは解けるのよね?」
オリビアも察したのだろう。縋るように問うが、オフィーリアが無常にも首を横に振った。
「私が冬獣夏草の薬を試さなかったのはね、それでは解けないと気付いたからなの」
瞬間、足が震え、今にも崩れ落ちそうになる。
俺が耐えられたのは、俺より先にオリビアが膝を突いたからに他ならない。
「うそ……」
呆然と呟いたオリビアに、オフィーリアは目を閉じてもう一度首を振った。
「嫌! お母様、死なないで! 私を一人にしないで!」
とうとう堪え切れなくなったオリビアがオフィーリアにしがみ付き、叫ぶように泣いて懇願する。
だがオリビアがどれだけ泣こうとも、事実は変わらない。それはオリビア自身も、この場にいる全員が理解していた。
それでも、それでもオリビアの願いを無駄だと、意味の無いものだと断じるのは、誰にも出来ない。
「大丈夫よ、オリビア。貴女は一人じゃないわ」
「お母様…うん、わかってる…ごめんなさい、っ」
少し落ち着いたのか、オリビアは涙を溢れさせながらも身を離した。
「オリビア、ナタリアと二人で話したいから、少し席を外してくれるかしら?」
「ぐすっ、はい…」
オリビアは涙を拭いながら、危なげな足取りで部屋を出て行った。
「思ったより落ち着いているのね」
「本気で言っているのでしたら流石に怒りますよ」
「ごめんなさい、意地悪だったわね」
俺だって転生してからずっと世話になってるんだ。実の娘のオリビアと同じくらい、なんて言うのはおこがましいが、悲しいに決まってる。
それなのに何も出来やしない!
くそっ!
主人が死にそうだっていうのに何も出来ない、馬鹿で無能な木偶人形が!
本当ならもっと優秀で忠実な魔導人形が出来る筈だったのに、なのにそこに俺が、俺なんかが転生ってしまった。
「ありがとう。貴女がいてくれてよかったわ」
「そんなっ!」
「大丈夫よ。貴女はいつも私の予想以上の成果を出してくれたんだから」
オフィーリアの笑みが余計につらい。いっそ泣き喚いてくれた方がどれだけ楽な事か。
「ねぇ、今は二人だけだから、敬語はいらないわ。本当の貴女で話して頂戴」
一瞬、何を言っている意味が解らなかった。思惟が纏まらない俺を後押しするように、オフィーリアは補足する。
「前世のままの素の貴女と話したいのよ」
「どうしてそれを!?」
予期しない言葉に、思わず言外に肯定してしまった。
「だって貴女、料理や家事が出来たり、銃を扱えたり、創造られたばかりじゃありえないんだもの。誰か死者の魂が宿ったと考える方が納得出来るわ」
言われて俺は自分の迂闊さを嘆いた。
それもそうだ。
創造られてばかりの赤ん坊同然なのに人並みに家事が出来て、しかもこの世界には他に無いであろう銃を使いこなすなんて、普通はありえない。
「それで、私の予想が正しければ貴女はあの人と同じ世界の、少なくとも銃が存在する世界の人間よね?」
「銃だけじゃなく、この家にある魔道具も旦那さんが発案したなら、十中八九そうだよ」
俺は自己嫌悪で頭を押さえながら呻くように応えた。
「ふふ、それが本当の貴女なのね」
「…軽蔑したか?」
「まさか。言ったでしょ。貴女がいてくれてよかったって」
俺はこの人の役に立ったのだろうか。
いつも教えられ、守られるばかりで何も返せていないというのに。
「ねぇ、私が魔導人形を創造ったのはオリビアの為だけど、貴女が望むのなら自由になってもいいのよ? 私が主人権限を譲渡せずに死ねば、誰も貴女を縛る事は出来ないわ」
「主人権限云々は別として、俺にとってあんたもオリビアも大事な人だ。今更離れる気なんて無いよ」
「そう。ありがとう」
オフィーリアは口元に手を添えて苦笑する。その意味するところは俺には判らない。でも拒否されていないならそれで充分だ。
「じゃあ、これを渡しておくわね」
そう言ってオリビアが出したのは、一本の鍵だった。
「隣の物置の鍵よ」
それは忘れもしない、ブラックホークが保管されていた場所だ。
「私が今まで溜めた素材や貯金があるから、自由に使って。それで何年かは生活に困らない筈よ」
「解った」
「それと、前にブラックホークの使い心地に関して話してくれたでしょ? あの人が生前設計していた魔銃の中で条件に合いそうなのを幾つか作っておいたから」
「部屋に篭って何してるのかと思えば、銃を作ってたのか…」
「もう一人の娘に、私からのプレゼントよ」
娘か…
俺にとってオフィーリアは…
いや、これは気の迷いだな。
「オフィーリア…」
俺はオフィーリアの耳元に口を寄せた
「俺の名前、――――だ。」
「そう、いい名前ね」
オフィーリアは褒めてくれたが、俺は首を横に振る。
「その名前を俺が名乗る事は二度と無いから、一緒にあの世へ持って行ってくれ。俺は魔導人形のナタリアだ」
前世の“俺”はもう死んだんだ。
今の俺はオリビアを支える為に創造られた魔導人形だ。
「ありがとう。魔導人形に宿った魂が貴女で本当に良かったわ」
そう言って微笑むオフィーリア。
それを受け入れる。今俺に出来るのは、それくらいだ。
二日後、オフィーリアは眠るように息を引き取った。
庭の片隅、木の陰に隠れるように二つの墓石が並んでいる。
一方に彫られている名は、俺の主、オフィーリア・エトー・ガーデランド。
もう一方の名は、シューマ・エトー。
庭に墓があるなんて知らなかった俺は、ここに来て初めてオフィーリアの旦那の名前を知った。
オリビアが花を、俺はワイン瓶を供える。
「ナタリアがお供えするのがワインなんて、意外ね」
「私からではなくアリアさんからです」
「なるほど。確かにアリアからならお酒よね」
オフィーリアと話したあとアリアに現状を伝えると、オフィーリアに会いに行く気は無いと言われた。
アリアはオフィーリアの従魔だし、二人は仲が良いのだと思っていたが、実はそうでもないのかと心配になった。それをオフィーリアに話したら、アリアらしいと言って笑っていた。
二人の仲は俺には解らないものらしい。
だがこうしてお供えの品を預けてきたので、やはり悼む気持ちはあるのだと、変に勘繰った事を申し訳なく思うと共に安心した。
「ねぇ、ナタリア」
「なんでしょう」
「昨日も一昨日もあんなに泣いたのに、まだ涙が出てくるの。どうしたらいい?」
俯いたままボロボロと大粒の涙を零すオリビアに、俺の言う言葉なんて決まっている。
「泣けば良いではありませんか」
死者を偲んで泣くのは生者の特権だ。それが母親なら尚の事。
「泣き虫だって思わない?」
「思いません」
「受け止めてくれる?」
「いくらでも」
振り返ったオリビアは、勢いそのままに俺の胸に飛び込んできた。
「うぅっ、お母様、お母様っ、うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ」
俺はオリビアを抱き締めながら、オフィーリアと同じ癖の無い黒い髪を優しく撫でる。
空を見上げると、まるで俺達の悲しみなんて関係無いと言うかのように、理不尽なくらいに青い空が広がっていた。だがどれだけ悲しくても、俺の視界が歪む事は無い。
「泣けないって、こんなにつらかったんだな……」
オリビアに聞こえないように、それでも口に出さずにはいられなかった。
俺は転生して初めて、人形の身体を恨めしく思った。
第一章 漆黒の魔女 完
次回から第二章に入ります