第百八十八話 蘿蔔《すずしろ》の花に実は生らぬ
夕食をいただいた後、アカネを膝の上に乗せて夜の庭園を眺めているとルリが訪ねて来た。
「ね、ちょっと飲まない?」
そう言ってルリは手に持っていた徳利と御猪口を上げて見せる。
レイバナの酒に興味はあるが、来たばかりの地であまりオリビアから離れるのは気が引ける。
「私の事は気にしないで良いわ。せっかくなんだから行ってきなよ」
なのだが、他ならぬオリビアはそう言ってくれたので、この誘いを受ける事にした。
ルリに案内されたのは部屋から離れた位置の東屋で、此処も夜桜を眺める事が出来る。
ルリが持ってきた徳利と御猪口を机に置き、俺が収納空間から干し肉や腸詰めを取り出して、酒盛りの準備が整った。
「じゃあ改めて、再会に乾杯」
「乾杯」
酒が注がれた御猪口を軽く上げて口を付ける。
「旨いな」
「でしょ? 浦戸家御用達のやつなのよ。あ、このソーセージも美味しいわね」
それから昼間の雑談の続きを再開する。
暫くして酒が進み、人形の俺は酔わないがルリが酔ってくるとこっちまでつられて饒舌になってくる。
「マリーゼの船に乗って来たんでしょ? 和奏と邇助は元気にしてた?」
「ああ、和奏は船の仕事を頑張ってたし、邇助は事務仕事を手伝ってたぞ。あの二人がマリーゼのところで働いてるのってルリの口利きなんだよな?」
「まぁね。前にちょっと関りがあって、食い扶持くらいは稼げる様にしてあげただけよ」
ならあの二人にとってルリは恩人って訳だ。親はどうしているのかは聞いていないが、食い扶持が必要という事は少なくとも楽しい話題ではないのだろう。
「和奏はルリと同じ女中になりたいって言ってたぞ。なんか熱の篭った目で語ってた」
「気持ちは嬉しいけど、流石にあの年齢はねぇ。あと十年、いや、五年は待たないと」
「五年後でもまだ駄目じゃないか?」
レイバナ国でどうかは知らないが、サペリオン王国基準だと五年経っても和奏は未成年だ。
「そうねぇ。オリビアさんみたいに長く気持ちが続いてくれるならその時に考えるかなぁ」
唐突にオリビアの名前が出て、口に含んでいた酒が詰まりそうになる。強引に呑み込んでから、原因であるルリを睨む。
「お前、そこでオリビアを出すなよ」
「えー、だって初めて会った時から殆ど一目惚れだったって言ってたわよ。もう何年になるの?」
「もう……四年は経ってる……」
オリビアがいつから俺に好意を持っていたかなんて訊いた事は無いが、俺がオリビアにあったのは転生して二週間後くらいだから、ルリの言う事が本当なら転生後の年齢と殆どイコールになる。
「それなのにまだ応えてないんでしょ? その気が無いならちゃんと振ってあげないと可哀想よ」
「それは……前にも話しただろ……」
以前にガーデランドの地下洞でミールも交えて飲んだ時に言った筈だ。
「皆は俺とオリビアをくっつけようとしてるけど、俺は人形だぞ。何処まで行っても人じゃないし人にはなれない。一端の恋愛なんて出来ないんだよ」
「だからさ、そう思ってるのならちゃんと振れって言ってるのよ。そりゃあ、ナタリアの立場や気持ちも解るけどさ」
「は? お前に何が解るんだよ」
ルリの指摘は尤もだが、その一言だけは聞き流せなかった。
「何って、私もナタリアも同じ立場だし―」
「違うだろ。俺とお前じゃあ」
俺と同じ?
笑わせるなよ。
「お前は前世も今も女だろ。俺の前世は男で、今は女だぞ」
性別程度で、なんて軽いものじゃない。自意識も周囲からの認識も、アイデンティティを構成する重要な要素だ。それが変わってしまった衝撃は、決して小さくなかった。
何より――
「それに、お前はまだ人類じゃないか」
腕に魔力を集め、鋭利な刃を構築する。転生してすぐの頃に習得し、今ではもうすっかり使い慣れた魔力刃が、夜の闇の中で青く輝く。
それをもう一方の腕に当て、一気に切り裂いた。
それなりに深い傷だ。人間だったら、盛大に血を噴きだして、痛みにのた打ち回っているだろう。なのに血はおろか、涙すら流れない。
「見ろよ。切ったって血が流れないんだぞ。痛みも感じない。こんな身体で、生きてるって言えるのかよ?」
そしてこの傷さえも、自動修復機能によって生物の治癒よりずっと早く直ってしまう。
「確かにお前は俺と同じ転生者だよ。でもそれだけだ。性別も変わって人間じゃなくなって、生きてるのかすら不安な俺の気持ちが、お前に解るのかよ!」
別に、常にそんな不安に苛まれている訳じゃない。でもたまに、今の自分を他人の様に考えてしまう時がある。
服装だってそうだ。女物の服も下着も、自分自身じゃなくてゲームのアバターを弄る様な気でいた。そうでなければ、何の抵抗も無く身に着けるなんて出来ない。
「解らないわよ! 今までそんな事一度も言わなかったクセに、解る訳無いでしょ!」
「言える訳無いだろ! 最初は漫画やラノベみたいで面白いって思ってた。普通よりずっと強くて便利な身体で、周りの人にも恵まれて、なのにそんな格好悪い弱音吐けるかよ!」
これは俺が弱いからだというのは、俺だって解っている。でも、それでも思ってしまう事は止められなかった。だからせめて、口には出さない様にしていた。
「それでも、この身体だから、今もこうしていられる。それにオフィーリアと約束したんだ、オリビアを守るって」
オフィーリアが魔導人形ナタリアを創造ってくれた。俺がそこに転生したのは偶然かもしれないが、それに気付いた上で受け入れてくれた。その恩に応えなきゃいけない。
「ふーん、じゃあオフィーリアさんのせいなんだ」
「何だと?」
「だってそうでしょ。オフィーリアさんのせいでこんな人形の身体になってしまって、メイドでいなくちゃいけなくて、オリビアさんの気持ちに応えられなくて、自由が無い。アンタ今そう言ったのよ」
「……俺は……」
「人間でも男でもなくなったのは解ってるのに、人形にも女にもなり切れてない。前世からの自分を貫く覚悟も、今の自分を受け入れる覚悟も無い。結局、アンタは怖いんでしょ。生きてる実感が薄いのも、今と前世の違いを受け入れるのも、真剣に恋をするのも、オリビアさんと向き合うのも、全部怖いから逃げてるだけじゃない」
「――っ!」
即座に否定する言葉が出なかったのは、自分でもルリの言う事が図星だと解っていたからかもしれない。
本当にオフィーリアとの約束を果たそうとするなら、人形に徹するべきだった。前世の記憶も男としての意識も捨てて、自由な時間など望まず、ただ無私にオリビアに仕えるべきだった。
でもそれは出来なかった。それだけの勇気が無かった。
全部俺が弱いせいで、そんな自分が嫌で、認める事すら出来なくて、知られるのが怖くて、気付きながら見ない振りをして、考えない様にして、取り繕って、ずっと逃げてきた。
「そうだよ。怖いよ……怖くて、逃げて悪いかよ……」
「それがどれだけ他人を傷付けてたと思ってるの。いつまでも待ってくれる訳じゃないからね。逃げ続けるなら、無理矢理にでも向き合わせるわ。そうでしょ、オリビアさん?」
ルリの視線が横に流れ、俺は思わずその後を追ってしまった。
「え……」
振り返ると、そこには今一番この場に居て欲しくない人が立っていた。
聞かれた―
いつから―
知られた―
何故―
嫌われる―
どうすれば―
終わりだ―
視界が霞む。閉ざされる。
思考が纏まらない。
どうしていいのか判らない。
「オリビア……」
俺は理解が追い付かないまま呆然と呟き、そして逃げ出した。




