今日も彼女は泣く
それを見たのは偶然だった。面倒事から逃げている最中に遠目から見た光景。自分と同じ年頃の少女がただ静かに湖の前に佇み水面に花を投げ入れている。その姿がひどく印象的だった。その花を見ている少女の目が気になったからだ。祈るような悲しいような、ただ一つ確かなのは少女が泣いていたことだろう。実際に涙を流していたわけではないが、確かに泣いていると確信できた。それからだ、彼女の姿を探していたのは。どこに行くにしても彼女を探していた。
幸いなことに彼女を公の場で見かけたのはすぐのことだった。彼女はどうやら伯爵の娘らしく、控えめな令嬢として周囲に認識されているようだった。どうして湖に花を投げて入れていたのだろうかという疑問が彼女を見るたびに浮かび上がる。しかし、さして親しくもない人間がそんなことを聞いても相手に不快感を与えてしまうかもしれない。そう考えるとどうしてもその疑問を彼女に聞くのが憚られた。しかし、その疑問をそのままに出来るほど自分は大人ではなかった。
だから彼女に近づいてみた。親しくなればその疑問の答えを得る事が出来るだろうと思ったからだ。幸い、自分の家格は彼女より一つ上の立場である侯爵だった。相手の家から見れば無下には出来ない立場なのを利用して彼女に話しかけてみた。もしかしたら、変な邪推する人間もいるかもしれないが節度ある距離を保てば問題はないだろうと思いその点を注意しながら彼女に近づいた。
初対面での印象は礼儀正しい貴族のご令嬢。良くも悪くも貴族としての在り方をよく理解したご令嬢だった。自分の置かれた立場を理解した上での会話だったので常の自分であればつまらないという感想を得たのだと思う。しかし私にとっての彼女の価値は彼女のあの行動理由だけだ。多少の距離感なんぞ気にせず彼女にとって遠すぎず近すぎない距離感を保ちながら距離を縮めていった。
親しくになるにつれ、彼女は貴族として達観した価値観を持っているということを知った。貴族という立場はただの自分の商品価値の一つであり、それを利用して自身の家に利益をもたらさなければならないという言を聞いた時は苦笑するしかなかった。
なぜなら、自分も同じ価値観を抱いていたからだ。浮名を流す貴族や家格に関係なく恋愛結婚をする貴族がいないでもなかったが、自分には到底そういったことは出来そうになかった。それは自分の人生にそこまでの価値を感じなかったからだ。ただ、それなりの人生を歩む方が楽だと知っていたからだ。貴族として定められた道を歩めば、無駄な労力を使うこともなくそれなりの安定した地位を築ける。そういった流される生き方を好んでいた。
彼女も同じような生き方をしていると知った時、だからこそ疑問が過ぎった。なぜ、そういった生き方をしている彼女が自身の感情を露わにして花をあの湖に投げ入れているのかと。
彼女は今なおも月に一度あの時見かけた湖に花を投げ入れている。
私は彼女とある程度の距離を築くことに成功したが、未だにその行動理由が聞けなかった。というのも、逆に距離が近くなったことで彼女にとってのテリトリーというものを知ったからだ。彼女はある程度であるなら自身については語ってくれるが、彼女にとっての琴線に触れることなら外に漏らさないという性分だった。
彼女のあの行動理由は間違いなくその琴線に触れるという確信があった。自分と似た性質を持つからこそ殊更そうだろうと思う。別の手段で彼女の行動理由を知るという手もあったが、私は彼女の口からその疑問に答えて欲しいと思っていた。
だからこそ、別の手段を講じてみることにしてみた。といっても、そこまで難しい手段ではなく彼女の月一の習慣を乱すようにしてみた。彼女が湖に花を投げ入れるのは決まった周期だった。月初めの満月の日に花を投げ入れているのだ。だから、その日に決して断れない用事を作ってしまえばいい。例えばそう―――。
月は初めの満月、彼女は我が家の茶会に来た。親しくしている友人を我が家に招待してみた。家格としてはこちらの方が1階級上なので基本下の家格の人間は断ることはできない。それを利用してみた。夜は夜で晩餐会があるので彼女が湖に行く時間はない。そこで彼女がどういった行動に出るかそれが私の密やかな企みだった。
当日を迎えた時、彼女は表面上いつもと同じような表情だった。言動も特に取り乱した様子もなくこれは失敗したかと思ったが、どうやらそうではなかった。
が
いつもの湖にいる彼女はあらかじめ用意していたのであろう花を湖に投げ入れようとしていた。
やあ、月夜がきれいな夜だねと声をかければいつもと同じような口調で彼女はそうねと答えた。この段になっても冷静な彼女は驚くほど理知的だ。なのに、上の家格の家からわざわざ馬に乗ってこの場所にまで来た。夜遅くに出ており、家人に見つからないようにしているとはいえこの行動は貴族にとって非常に好ましくない。自分を一つの商品として見ている彼女にしては珍しい行動だ。だからこそ、かねてからの疑問を質問することが出来る。
この場所で何をといえば、献花よと答えた。紫色の花をただ静かに彼女は投げ入れる。ぽちゃんぽちゃんという音を立てながら一輪ずつ花は落ちていく。花はゆっくりとただ静かに水面へと沈んでいく。近くで見る彼女の瞳は不思議なほどに澄んでいた。けれど、泣いていた。声なき声で泣いていた。
誰にという言葉は喉奥で消えていった。ただ、ああそうかと気づいた。彼女は届かない相手に花を贈っている。それは彼女にとって過去のものとなっていない。今なお続く心の在り処なのだろう。だから、彼女はこの湖に通うのだ。今なお眠る自分にとって愛おしい人に花を―――。
恋をした少女は今日も声なき声で泣く。あなたを愛していると―――。
一種の恋の在り方。過去を忘れられない少女は恋を過去にしたくないから今日も傷つくと知りながら献花して泣き続けるというただそれだけの恋のお話。
因みに紫の花はシオン。花言葉に籠められた意味が彼女のただ一つの主張です。