第二十五局 ゲーム開始 一本場『ボクサーズフラクチャー』
痛い……
下卑た笑みを浮かべる男たちに、無抵抗で殴られ続ける南先生。
想いを寄せる人のそんな姿を見ているだけで、張り裂ける程に胸が痛む……
何でこんな事になったのだろう?
北原さんの男性恐怖症の原因。南先生の空手選手権不戦敗の原因。すべての原因が、四年前の、あの場所で起きた出来事に起因している。
わたしを含め、南先生、真琴さん、北原さんがいたあの場所。
大阪中央体育館で起きた出来事に――
そして、複雑に絡み合っていた糸が、一本にまとまった。
しかし、そのまとまった結果が、いま目の前で行われている惨劇であり、この惨状だ。
「凄いですね――南先生の動体視力と反射神経は驚異的です」
「はい。インパクトの瞬間、上手く打点をズラしてダメージを軽減している、でございます」
目前の惨状を、顔色一つ変えずにジッと見つめるメイドたちの会話。
格闘技の心得のないわたしには、詳しい事など分からない。しかし、いくらダメージを軽減しているとはいえ、ゼロではない。
事実、左の瞼は切れて出血しており、口角からも血が流れ落ちている。
「おい、どうしたデブ公――もっと気合い入れて打って来いよ」
「んだとっ!?」
「そんなへなちょこパンチじゃ、そっちの気はすんでも、コッチがヤラれた気になんねぇよ」
いま、先生を相手に拳を振り上げている男は三人目。太めでガッシリとした体格の男だ。
ここまで五十回近くも一方的に殴られている先生。にもかかわらず、先生は唇に笑みを浮かべながら、相手の男を挑発した。
なぜ……? なんで、わざわざ相手を怒らせる様な事を……
先生の意図がつかめないわたしの目の前で、相手の男は激昂に顔を紅潮させ、大きく拳を振り上げた。
「なめんな、オラーッ!!」
直後に聞こえて来た『バキッ!』という嫌な音に、わたしは思わず顔を背けた。
「上手い」
そんなわたしの耳に届いた、不謹慎とも取れるつばめの言葉――
そのセリフに、わたしは眉を吊り上げ、反射的につばめの方へと目を向けた。
「え……?」
しかし、ジッと前を見つめるつばめの横顔に、わたしは言葉を飲み込んだ。
そう、口元へ微かだけど笑み浮かべる横顔に……
祖母の代から西園寺家に仕えている彼女。付き合いの長さで言えば、この中で一番長い。当然、彼女の人となりはよく知っているつもりだ。
そして彼女は、間違っても知人の危機にそんな笑みを浮かべる様な女性ではない。ましてや、つばめの強く握りしめた拳には自分の爪が食い込み、うっすらと血も滲んでいるのだ。
では、何が起こったの? わたしが目を背けた、その一瞬に……
わたしは、恐る恐る視線を正面へともど――
「ぐがああぁぁぁああぁぁぁーーーーっ!!」
わたしが正面を戻した瞬間だった。
さっきまで先生を殴りつけていた男は、自分の右手を押さえて跪き、大きな悲鳴を上げた。
「くくくっ、ずいぶんヤワな拳だな、オイ? 肉ばっか食ってないで、少しは小魚を食えよ、デブ」
額から、スーッと流れる血にも気を止める事なく、口元を綻ばせ、膝を着く男を見下ろす先生。
「中指と薬指の中手骨骨折――それに、おそらく手首も重度の捻挫を起こしているでしょう」
「完全にボクサーズフラクチャー、でごさいますね」
冷静に状況を分析するメイドたち。
ボクサーズフラクチャー? それって、確か硬い物などを殴った時、逆に自分の拳を傷めてしまう現象だったはず。
しかし、なぜ? 何が起こったの……?
「今まで、南先生はインパクトの瞬間に打撃を受け流す様にして衝撃を逃していました。しかし、今回は受け流さずに正面から受け止めたのですよ」
「しかも、わざわざあのおデフを挑発して、大振りの打撃を誘って、それを受け止めた、でございます」
「それも、人体で一番硬いと言われている額で――」
「とはいえ、あの大振りパンチを、臆する事なく正面から向かって行くように受け止めるなど、並の胆力で出来る事じゃねぇ、でございますよ」
「そして、あの拳ではもう続けられないでしょう。つまりおデブさんは八発目でリタイア……十二発ほど得をしましたね」
わたしの疑問を察する様に、状況を解説するメイドの二人。
あの一瞬で、そんな事が……
それに撥麗さんの言う通りだ。勢いよく向かってくるパンチを正面から額で受け止めるなんて……考えただけでもゾッとする。
そんな信じられない様な事を、サラッとやってのけた先生は、口元に笑みを浮かべながら奥に控える男達へと目を向けた。
「オラ、次っ! さっさと出ろよ。とっとと終わらせて、仮想研の女を観るんだからよ」
額から流れる血を拭う事もなく、男達に向けて手招きをする先生。
「ちっ! そんなに観てぇテレビなら、病院のベッドで観せてやるよっ!!」
その手招きに応じ、次いで出て来た金髪の男が先生の頬を勢いよく殴りつけた。
つばめの言う通り、確かに十二発は得をしたかもしれない。
しかし……
しかし、それでもまだ、あと二人――まだ、1/3以上残っているのだ。
先生が一つ殴られるたびに――苦悶の表情を浮かべるたびに、わたしの胸にもズキンッと痛みが走る。
ホントにツライのは先生なのに、見ているわたしの方が、先に限界を迎えてしまいそうだ。
「ああ~っ、もうっ!! 我慢の限界ですわっ!!」
と、そんなわたしよりも、白鳥さんが少しだけ先に限界を迎えたようだ。
「撥麗っ、つばめさんっ! あなた達なら、こんな馬鹿げたゲームとやら、止められるでしょう!? 今すぐヤメさせなさいっ!!」
止められる……?
白鳥さんの発したその言葉が、わたしの方の限界も少しだけ早めてしまった。
「つばめ、撥麗さん、お願い……もうこんな無意味な事は、ヤメさせて……」
わたしは、張り裂けそうな胸の痛みをこらえて、掠れた声を絞り出した。
「確かにつばめさんとなら、よく吠えるしか能のない小僧共の百人くらい、締め上げるのは容易いですが……でございます」
撥麗さんは顔をあげ、一方的に殴られる先生を観て歓喜の声を上げる男達をぐるりと見渡してから、隣に立っているつばめへと目を向けた。
「しかし、お嬢様方――確かにコレは馬鹿げた事ではありますが、決して無意味な事ではありませんよ」
「何よりそんな事、南先生が望んでねぇ、でございます」
無意味ではない……?
こんな馬鹿げた事に、いったい何の意味があるというの?




