文化の違いで仕方ない?
文化の違いで仕方ない。
そう言う文化何だかなら仕方ない。
それは、諦めか?それとも対岸の火事を眺めるだけの無関心か?
今、クルド人問題を初めとする外国人問題で垣間見える課題として、日本人のそんな、諦めと、無関心が見える気がする。
文化の違いは確かにあるが、その文化が未来永劫残して行くべき価値のある文化財的意味があるのか?それとも、時代の流れによって変化すべき物なのか?そこを見極めて行かないと行けない。
中国の纏足や、インドのクマリも確かに文化であるが、纏足は女性が逃げないための足枷の側面があり、インドのクマリは、少女を神格化し崇め祀るのだが、その分少女を世間から隔離する事になり、両者とも人権侵害だとして、国際的な倫理のもとで議論されている。纏足に至っては、消滅している。
そんな中にで、中東文化圏に存在する氏族主義、家父長制も、果たして残して行くべき価値のある文化なのか?どうかの問題が見えてくる。
石井孝明氏をはじめとするクルド人問題を扱う著作やレポートからクルド人の氏族主義と家父長制による、女性や子供の人権侵害が報告されている。かつての日本もそんな時代(氏族主義は無いが)家父長制。父親の意見が絶対と言うのがあったが、彼らのそれは、父親の威厳とかそんなレベルではない。
アメリカの事件を例に上げるのなら尊属殺もやむを得ない。それぐらいの強い権限を父親や氏族と言うものが持っている文化圏である。
氏族の意見は絶対。
家族との繋がりを大事にするそう言えば聞こえは良いけれど、繋がりの強さが女性や子供、または発言力の乏しい人の意思や自由を奪うのであれば、それは、忌むべき文化で、改善の必要がある様に思える。
確かに、家族や親戚、親類との繋がりは大事だが、それ以前に、一人ひとり違った思想の人間である事を忘れてはいけない。
先日クルド人青年の性加害の裁判があった。
「人を殺したわけではない」と彼の親族は暴れ騒いだが、懲役8年の刑は勿論覆らなかった。むしろ、もっと長くてもいいぐらいだ。
めちゃくちゃな話だが、僕はこの青年の語った言い訳が気になった。
トルコでは差別が無かった。
日本に来てから差別を受けるようになった。
トルコには友達もいて、充実していた。
日本に来てから孤独だ。
日本には自分の意思出来た訳ではなく、出稼ぎの父親に仕事を手伝う為に呼ばれてきた。
クルド人はトルコに迫害を受けているから、日本に亡命したと言うのが、クルド人の言い分であるが、彼の証言から、その事実が怪しいのが伺える。また、父親に呼ばれてきたと言うのも、クルド社会における氏族主義よる自由意思の欠如が見える気がする。
クルド人の問題の真偽は、これからは先も続くと思う。
が、彼の様に自由意思を剥奪され、社会的に堕ちていく青年がいる。それが忌むべき文化の弊害で生じる事象ならば、それを対岸の火事と無関心では居られない。彼等がそんな忌むべき文化をこの国に持ち込みんでいるのであればそれを黙って見過ごしてはならない。また、対岸の火事だとしても、世界にはそんな忌むべき文化や観衆で傷つく人がいると言うのも忘れてはいけないと思う。
これから先、日本は、大量の移民を受け入れると言っているが、その前に、受け入れる移民達の持つ文化を理解し、ただの文化の違いと言うのではなく、まず、モラルとして、彼らの人権を尊重できるのか?また、既存の日本人との共生をする上で、平等に罪を罰することが出来るのかを問わなければならないと思う。
差別も偏見もよくないが、それを理由にアンモラルを許しても行けない。
今後日本は、モラルとアンモラルの見極めをして、共生の道を考え無いと行けないと思う。




