多様性を考える。
トランス何々。
最近そんな言葉をよく聞く。
まあ、メジャーなのはトランスジェンダーで、性的自任?心と体の性の不一致をどうとらえるか、身体の性ではなく心の性を重視するという社会的流れがここ最近では主流になりつつある。
それは一見素晴らしい事でもあるのだが、その弊害も出てきている様で、自称精神が女性と主張する男性がイタズラ目的で、女性専用のトイレや、浴場に入り込むという事件も度々起っている。そんな現状を考えると、今の性的多様性はまだ、ただの感情論で実用性のないものの様に思える。男女の違いを無くそうと世論は謳い始めているが、男女の違いがあるからこそ、回る世界もあると思う。
女性にも、男性と同じ仕事上での役職を、女性にも、社会的な活躍を。
素晴らしいが、正直、勝手にせえよ。と思う。
Twitterにて、フォローさせてもらっている、ある若い女性がいるが、彼女のツイートで婚活や仕事の愚痴を目にするが、そこで見えてくるのが、女性と言う立場と、社会的な需要だと思う事がある。
結婚や出産は若い方がいいと言う世間の声と、女性でも仕事をバリバリこなそうと言う声の板挟みで苦しむ今の女性のリアルが感じる。
男性と同じ様に働けと言う一方で、出産育児も同時にこなせと言うのは、正直女性にとって、一杯いっぱいなんじゃないか?と思ってしまう。
男性と同じよに働きたい人もいれば、古き良き時代?の良妻賢母の様に家庭に入り、夫を支えたいと思う人もいる。
それは、男性でも同じで、家庭に入っているから、紐だとか、専業主婦だから、ニートだとか言うのは間違っている。
僕の母は元保育士で、仕事と家庭を両立していた人だけれども、主婦としての彼女の姿は、決して楽なものではなかったと思う。毎日の献立を考え、家を常に清潔に保ち、家計の計算もする。彼女が保育士の仕事をしていなかったとしても、主婦と言う言う仕事は、重労働であったと思う。
男女の差ではなく個人個人の社会的な活躍とは?
何かしらの活躍を求められているが、活躍する事が全てだろうか?そもそも活躍とは?
何かに秀でていなければならないのか?人の役に立たなければならないのか?
時々そこの疑問を感じる。
怠けて生きていけばいいとは思わないが、しかし、生きるために必死で頑張っているそれだけで、褒めるに値するのではないかと僕は思う。なにも結果なんて出せなくてもいいとさえ思う事がある。
そんな昨今、新しい、トランスが生まれた。
トランスエイジ。
心と体の年齢の不一致。
まあ、昔から、精神年齢と言う言葉はあったが、その精神年齢を全面的に出そうという話らしい。
とあるニュースの話題で、そんな青年のインタビューがあった。
彼は、僕と同じ、39歳だが、心は28歳と言い、公的な手続き以外は、自称年齢を口にしているとの事だった。
彼がそう言った行動をとるきっかけとなったのが「いい年なのに、そんなことも解からないのか?」と職場で言われた事がきっかけだったと言う。
正直、現実逃避だなと、僕は思ったがそれと同時に、年齢に合ったスキルや立ち振る舞いを周りに求められる苦痛と、求める社会の在り方の問題を感じた。
仕事や勉強のスキルなんて、正直、年齢と比例するのか?と考えれば、必ずしもそうではないと思う。僕の様に要領が悪く、20年以上同じ職場に居ても一向に仕事を覚えられない人間も居れば、1年かそこらで、あらかたマスターしてしまう人もいる。努力は平等でも結果は不平等だ。
仕事だけではなく、趣味や興味だってそうだ。いい大人でも絵本が好きな人もいるし、年端も行かない小学生なのに、株や債券に興味を持つ子だっている。
社会や回りが思う、年齢や性別でのらしさとは実は曖昧なものなのかも知れない。でも、そんな曖昧な杓子定規に縋り付きたいのも人間の性である。
多様性の叫ばれる今日でも、その杓子定規は存在していて厄介だ。だからこそ、多様性も認める運動も感情論ではなくて、実用性が今後問われてくると思えるし、より、慎重に議論されるべきなんだと思う。
自分らしく生きるのは素晴らしいが、自分らしさほど、曖昧で、いい加減なものも無い。だからこそ、個人個人が悩み、迷いながらこそ、自分に合った答えを出して行かなければならないのだと思う。




