人は神々に関心を持つが、神々は人間に関心を持たない。
去年の暮れに、4回目のコロナワクチンを打った。
午前中の予約で朝9時に病院を訪れて摂取をうける。
その帰り道、ふと思い立ち、子供の頃に秘密基地にしていた神社に立ち寄った時に、あるフレーズが頭に浮かんだ。
「人は神々に関心をもが、神々は人間に関心を持たない」
強い風が吹いていた。
グオウ、グオウと唸りをあげて、小さな神社の境内を拭き退けていく。
古い年神様がさり、次の年神様が来るような風。
どこと無く神聖で、それでいて自由な風が吹いていた。
心地よく、何か特別な力をくれるような風。
だけど、風は自由気ままに吹き抜けているだけ。
僕が勝手に風に神々の姿や神聖さを投影しているだげだった。
そうか、神様とは、自然そのものなんだ。
自然そのものの息吹。土の匂いに、雨の匂い。陽の光の温もりに、肌を心地よく撫でていく風の感触。そんな当たり前にある物のに心地よさを感じた時に、僕は、そこに神様を見ている。
ようは、神々とは、人間の想像物に過ぎないと言う事で、神々の存在とは、それに関心を持った時にはじめって現れるのかも知れない。
確か、物理学だか、粒子力学だかで観測者がそれを観測した時に初めてその現象が現れるなんて話があった気がする。
まあ、それはどうでもいいとして、つまりは神々は、人が関心を持ち想いを馳せる時に存在するだけであって、神々そのものは、人間の事なんてどうとも思って無いと言う事である。
だって、人の想像物に過ぎないのだから。
人は神々に関心を持つが、神々は人間に関心を持たない。
それを踏まえて、昨年から続く、某宗教団体の問題を考えてみる。
信仰の自由をとやかく言うつもりもないのだけれども、多額の寄付金やら、お布施やらを信者から受け取っていると言う事に違和感を、我々外の人間は感じるが、某宗教団体の中の人間は、その宗教の神なり仏なりを信じて崇拝している。
崇拝する事で、彼らは心の安定を感じているのだろうけど、やはり、その神だって、人間に関心を持っていない。
そう思いと、信仰とは実に虚しい物の様に思えてくる。
神に尽くす事に意味はない。
信じる事に意味がある。
神々の存在を感じるのは自己満足だ。
何かに見守られている、何かに癒されている。
そう思うだけでいい。
それ以上の、奉仕。
お布施なり、寄付なり、修行なりは、ハッキリ言って意味は無い。
神々は人間に関心を持たないのだから。
幸せとは、人々がそう感じる感性で決まる。
よほどの戦争や紛争に巻き込まれない限りは、人々は、幸せを想像し、創造出来る。
あの日、風の吹き抜ける神社で僕はそう思った。




