彼のへの手紙。
新年一発目から、重たい話しですみません。
決して出会う事の無い親友の行方が気になります。
20年前。
僕より、ひとつ年上だった彼は、幼い数名の命と引き換えに、透明な存在としての『僕』とやらを、せめて空想の中ででも、実在の人物として認めて欲しいと世の中に訴えた。
そして、数年前に絶望を歌うかの自伝をだし、彼は、また、世間の注目を集める。
そう、あの、酒鬼薔薇聖斗を名乗った、あいつがいま、どこで、何をしているのかが、僕には、気になるのだ。
誤解するかも知れないが、僕は決して、彼の犯罪から、垣間見えた彼の世界観に感化された彼の信者では無いし、どんなに、彼が自身の孤独を叫んでも、同情はしても、罪を美化、正当化はしない。
それでも、彼を『決して、出会う事の無い親友』と呼ぶのは、彼の起こした犯罪が、僕の、いや、僕たちの事件だと、あの時から思っているからだ。
理由の無い直感だか、確かにそう思い、あの時から今に至る。
あの、キチガイな、イラストや、犯行声明から感じ取った孤独。それを自分の中にも感じた。
兄弟と比べられる孤独。友達と比べられる、ないし、人との違いから感じる劣等感に取り憑かれる孤独。そして、逃げ場を失う孤独。
少年期特有の、まあ、誰もが通過する孤独の中に取り残されている。それが彼なんじゃ無いのかと、僕なりに、あの時から思っているのだ。
孤独ならば、人を殺してもいいとは勿論思わない、ただ、子供から、大人になるにつれて変わる環境の変化に上手く自我を順応出来ない時に感じる疎外感はやはり僕にもあった。そして、今も時々感じる。
わまりがどんどん成長して行き、大人になって行くのに対して、自分は上手く変われずに、同じ所に留まり続けていて、また、後から来た、少年達にも、追い抜かれていく。人は人、自分は自分。無理せず、マイペースでいいと、誰かは優しく言うが、それでも、拭いきれない孤独があって。そんな、孤独の中で、ふと、何かの拍子に、社会を恨んだり、自分を消してしまいたいと思う事がある。
そして、暴走したのが彼なんじゃ無いかと思うのだ。
世界の変化は、誰でも怖い。絶対的な何かが壊れてしまえば、誰だって絶望する。
彼に最初に訪れた変化は、祖母の死だと、彼も世論もそう認知している。厳しい母親と、優しい祖母。2人の間で、彼は、母親に叱られても、祖母に慰めてもらう事で心のバランスを保っていた。それが、祖母の死で砕かれて、彼の世界は変化した。いままで信じていた物が消えたのだ。そして、彼は信じていた物を奪った死に魅せらせて、それを越えようとした。
彼がそう言う行動にうつったのには、僕が思うに、死生観、宗教観の欠如があると思う。
何だか、怪しい話しになって来たと思うかも知れないが。彼の自伝を読んで、やはり彼は、祖母が死んで、この世から消え失せた事が、自分に取って大きな事件だと感じていた様だ。
確かに、身内の死は悲しい。
僕も、丁度彼と同じぐらいの歳に祖母を亡くしているし、20歳の頃に、親友を事故で亡くしている。けれど、僕は、そんな身内の死を、意外とあっさり受け止めた。
生きてる限り、必ず生き物は死ぬ。人も死ぬ。
幼い頃から、僕は漠然と、それが、自然の摂理だと理解していた。
幼い頃に飼っていた、虫や、小動物の死に触れたのが大きいのか、好きだったオカルトから得た死後の世界や、輪廻の知識からなのかは定かでは無いが、生きて死ぬという原理は、一本に繋がると感じていた。そして、死は終わりじゃなくて、嘘か誠か知らないが、死んだ人達が、あの世から観ている。だから、恥ずかしく無い様に生きなさい。と言う言葉をどこかで信じていたきがする。
それが、僕の孤独を埋めていた様に思うのだが、彼にはそれが無かったのでは無いのだろうかと、彼の自伝から僕は感じた。
死者との対話は、時に、自己との対話であり、故人との繋がりを意識する事は、自己のルーツを意識し、アイデンティティを確立する装置である。民俗学か何かの話しでそんな事を言っていた。
日本人、また、あらゆる国々の風土風俗文化に置いて、宗教、オカルトは、人々のアイデンティティを守る役割を果たし、それを基板にあらゆる文化を築いて来た。それが、近代化、都市化が進むに連れて、人々の心から薄れて行った。
お盆休みも、先祖の霊を迎える事なく、海外や、テーマパークに行く時代。
僕や、彼の時代は、そんな、何か大切な物を失った時代の様な気がするし、僕らの世代に、かつて、『キレる17歳』なんて、架空の怪物を当てはめたあの時の大人達もそう危惧していた。
大切な物。
それが何か解らずに、彼は、本を出し、僕はそれを読んだ。
彼は彼なりに、自分が何者なのかを文章を書く事で、探したかったんじゃないかと思うし、僕も、彼を知りたくて、彼のそんな手紙を読んだ。
世間では、彼の行動に批判的だ。
当たり前だ。あんな悲惨な事件を起こし、それを面白可笑しく、恐ろしく完成度の高い文体で世に出したのだから。
そして、彼はまた、姿をけす。
とても、卑怯だ。
僕は彼に言いたい。
「また、次を書け。あれは、まだ未完成だ。だって、君は、まだ、自分を理解出来ていないじゃないか。その自己探求は、君が死ぬまで続くだろうけど、それを続けて行けば必ず、今とは違う景色が見えるはずだ。その間に、君の被害者遺族の方々や、世論は、君を非難するだろうけれど、君が今、ここで逃げたままならば、君を取り巻く世界は変わらないし、事件の当事者も、あの日においてけぼりのままだ。だから、君が今すべき事は、逃げずに、出てくる事だ。あと、『元少年A』の名前も捨てろ。あの名前は、君の歪んだアイデンティティを君自身や、世論に植え付ける装置でしかない。あんなモノにすがっていても、意味なんてない。犯罪者の肩書なんて掲げても痛いだけだ。自分が特別だと思うな。本名は名乗らなくてもいいから、とにかく『元少年A』はすてろ」
彼に僕のこの手紙が届くかは知らない。ただ、彼には、逃げて欲しくない。
彼の犯した罪は、決して許される物ではない。けれども、僕や、あらゆる人々の関心を得たのは、それを見る僕らの心の不安が投影されたからではないだろうか?
最期に、彼の犯した犯罪の被害に遭われた幼い2人のご冥福をお祈りします。




