逃げるは恥だか役に立つ。
逃げ方を知らなかったんだと思う。
あの、電通の彼女は、多分、色々な事を必死で乗り越えて来たんだと思う。でも、その反面。決して逃げては行けないと言う強迫観念のような頑固な何かをかかえてしまい、結局自分の命を絶ったのだ。
不謹慎かも知れないが、その、会社の労働時間の見直しも大事だか、それよりも、もう、どうにもならない様ならば、逃げ出す勇気も必要だと、誰かが、あの娘に、囁くべきだったんではなかろうか?会社や、組織に責任があるのは当然だし、何かあれば、その責任を求めるのは、簡単だ。けれども、最後にはやっぱり、自らの命を絶つ事の方が、重大な罪なのだと思う。
世の中は、あらゆる責任に満ち溢れていて、大人である僕たちは、それを自分のできる範囲で背負わなければならない。
そう、あくまで、できる範囲で。
そう言うのは、人間一人ひとり、扱える責任の範囲が違うからだ。責任を負うのが大人の務めだと言うが、自分の持てる荷物の量を見誤らずに、定めて、時に誰かに頼ったり、時に、時間を掛けて、運びやすい様に小分けにするのも、人の知恵としてある。
出来ないものは出来ないと言っていいのだ。
ある意味、無責任でいい。
僕は今まで、無責任に生きてきた。その事を最近では、色々と、咎められる事もあり、まあ、もう少し頑張ろうと思う事もあるが、なんせ、元来の不器用ゆえ、思うだけでは、成果は出ない。人は、そんな僕の様な人間を、努力が足りないと言うが、まあ、そうであったにしろ、なかったにしろ、今生きているだけで、僕は僕を続ける努力をしていないとも言えない。
どんなに貧弱な草も、その草体を支える為に、草体の何枚もの長さの根を張っている。人間もまた然りで、どんなにろくでなしな奴でも、その命と精神を支える為に莫大な、エネルギーを使っている。
五木寛之氏のエッセイからの受け売りだが、要するに、甘えて生きるのにも、生きとし生けるもの全ては、何らかの力を使っていると言う事である。
生きているだけで素晴らしい。
もう、使い古された言葉だが、それはそれで普遍的に正しい。
逃げるは恥だか役に立つ。
あの、ドラマのタイトルは、実に理にかなっていると思う。
「逃げる事は、恥ずかしい事だが、生き延びる為ならやむ終えない」
星野源さんの台詞だったか?
まあ、誰に何を言われようともマイペースで、生き延びる事を考えよう。
ずる賢くても。
まずはそこから。
もし、来世とかあって、あの娘が、また、人間に生まれる事があったなら、次は程よく逃げていいよ。ほら、ドッチボールだって、逃げ足の速い奴が最後には相手のミスボールを拾って、外野に回して逆転する事もあるんだから。




