僕の悪魔。
人格者に成功者はいない。
僕の中の悪魔がそう叫ぶ。
「所詮、世の中は競争だ。結果と効率による利益を生む知恵と能力のある者が富と名声を得る」
30数年生きてきたなかで、人格者たる人々にもあい、成功している人もいるが、やはり、組織の中、社会の中で、成功者と呼ばれる奴らを見ると、人格よりも、技能や、能力が優先される現実は否定出来ない。
「生産性が上がれば、安全と品質を見ると余裕が出る」
かつて、僕の上司だった成功者の言葉だ。
僕はこの人が苦手で、今も苦手だ。
彼の言葉は、利益に、余裕が無ければ、社員の生活の保障は、得られないと言う、どこかの経営者の言葉と重なった。
僕は、この考えは、嫌いだ。
どんなに、余裕が無くても、守らなければならないモノがあるそう思う。
けれども、そうしなければ、勝てないのが、現実だ。だから、どんなに、理不尽な事を言っても周りを奮いたたせ、チームを良い結果に導く彼の能力は、社会や、組織に置いて、確かな力になる。それは、認めざるおえない。
弱い人間は努力をしろ。
力が欲しければ上を目指せ。
それが、出来なければ、消えるのみ。
戦えないヤツは、屑だ。
生きることは、とにかく、戦いなんだと思う。そうやって、この国も世界も大きくなった。
けれども、戦えないから、生きる資格が無いとは思いたくはない。上手く、走れず、転んで、泣いている子供だって生きている。
結果主義の世の中で、行き場を失う様な人々はやり場の無い傷みが解るから優しい。
だがそれは、弱い者の傷の舐め合い、慰め合いで、何の利益、力にはならないと多分思う人間がいるだろう。ある意味正しい。
いつか話した、ろうあ者の友人と話す度、僕の中の悪魔が喋る。
「おまえは、弱いから、自分と同等か、下のヤツとしか、居られないんだ」
悪魔の言葉にある考えがよぎる。
障害者も、それを支援する人格者も、競争に勝てなかった負け組だ。
あの、相模原の事件から1ヶ月が過ぎた。
あいつのした事に、あらゆる著名人が、意見を述べて、世の中のあり方を問い掛けていた。
「どんなに綺麗事を言っても、世の中は弱肉強食だ」
彼らの意見に、悪魔は、鼻で笑いながら言う。
何かを欲しがるなら、貪欲になれ。弱き者を喰らい尽くしてでも、勝ち残れ。
悪魔の言葉を肯定するかの様に、そんな社会の言葉が、ただよう。
「だから何?」
僕は、一言、そんな“歪んだ正論”に反抗する。
みじめだけど、弱いけど、今のままでいい。だって、結果を出すには、走り続け無ければならないじゃないか。死ぬまで、いや、死ねために。
そんなの面倒くさい。
そんな生き方するぐらいなら、どっかの、芝生の上で、風の匂いをのんびりと感じたい。
やっぱり、僕はダメ人間だ。




