正しいと言う幻想。
『仕事の出来ない奴は、こんな、行動をする』
こんな、見出しのネットの記事を最近よく、目にする。
仕事が出来ない人間を面白可笑しく、優越感たっぷりに、書き連ねているそんな記事にムカつく事がある。
仕事の出来ない奴は、行動に無駄が多いだの、会話も、「はぁ」とか、「はい」「いいえ」しか言えない。条件反射的だの、趣味がないだの、あらかた、自分にも当てはまるので、自分が言われているみたいで、余計に腹だたしく思うのである。情け無い話である。
悔しければ、それを糧に、変わればいい。多分、ほとんどの人がそう思うだろうし、僕も、少なからず、思うのだが、それよりも、そんな、記事を面白可笑しく書いている奴の気が知れないと、ひねくれているが、強く思ってしまうのだ。
常々思うのは、そんな風に、他人を笑う奴は、僕は、友達としては、いらない。そんな奴、そいつが、どんなに、仕事が出来ようが、社会的に成功していようが、僕は、そいつを、人をランク付けして、差別する奴なんだと、軽蔑するだろうと思う。
僕の、オカン。母は、保育士という仕事柄、障害のある子供も見てきた。そんな母に子供の頃よく言われた。
「人を見た目や、能力で判断してはダメ。色んな人がいるんだから」
そんな、幼い頃の潜在意識に刷り込まれた、道徳感のせいか、僕は、やっぱり、人をランク付けする様な奴は、好きになれない。
その一方で、もしも、自分が、逆に、出来る人間だったらと考えると、多分、同じように、出来ない奴を見下してしまうだろうと、考えてしまうのだ。
理由は無く、いつもの直感だ。
なんせ、人間は弱い。
立場や環境が変われば、少なからず、その考え方も変わってくる。それは、自然な事で、よく言えば、適応力とも言えるが、ようは、流されやすいと言う事である。立場や環境が変わっても、ぶれずにいられる人は、ある意味超人である。
僕も、そうなりたいが、正直無理だ。簡単に、流される。
けれども、今、見えている、感じている風景をどう思い、どう考えるかは、出来るはずである。それが、正解かどうかは、解らないが、自分で間違っていると思う事だけはしない。人を故意に傷付ける様な事はしない様にしよう。そう思う事は、今できる。
カッコつける訳では、無いけれど。大事なのは、今である。
今現在において、正しいと思う事をやり遂げる。人間は、そんな、もんでいい。
正しさに、正解など無いのだから。




