欲しいモノ
鼻血注意
マール王国の王都は、それなりに広いプロフーンド湾の中にある入り江の上に存在している半陸半水の都市だ。街の半分は耐水素材製の桟橋の上に作られていて、その桟橋の下にも水棲人種の人々の為の施設が多数築かれている。
街の主要施設は全てその桟橋の上に集まっており、桟橋の上下問わず様々な人々で常に賑わっている。三王国の中で最も巨大な臨海都市であるマール王都は、同時に海運によって発達した商業の街でもあるのだ。
ちなみに水棲人種の人々というのは、下半身が魚である魚人や人魚の事だ。男性が魚人、女性が人魚と呼ばれる彼らは鰭や鱗の色形で更に細かく分類されるが、それを気にする人は殆どいないらしい。水中呼吸と肺呼吸の両方をこなすハイスペックな人々だ。
水棲人種と陸に暮らす人種、陸棲人種のハーフは総じて水人と呼ばれ、体の何処かに鰭を持っている。水中呼吸の能力こそ失われているものの、陸棲人種と比べれば水中適正は非常に高い。その為、海の多いマール王国での水人の社会的価値はかなり高いものになっている。
そんな人々が暮らす水の街の桟橋の上にある宿、ウタヒメ。無事にお偉いさん達を送り届けた俺達は、ルフィノさんの勧めでこのマール王国王都屈指の人気を誇るこの宿にやって来ていた。
「入り口が二つあるんですね」
「水棲人種の人が入れるようにだろうな。中も桟橋と水路に分かれてて、部屋も陸棲人種と水棲人種で違うらしい」
「他の国じゃ絶対見られませんよね。新鮮です」
エルと言葉を交わしながら建物に入ると、落ち着いた雰囲気のロビーが出迎えてくれた。同時に奥にある食堂兼酒場から、高ランク冒険者らしきおっさんやお姉さん達の突き刺さるような視線が飛んで来る。
チラリと目をやると、興味深げに此方を見ている者と特に反応を示していない者、そして忌々しげに表情を歪めている者という三種類の冒険者が確認出来た。一番最後のタイプは注意しておくに越した事は無さそうだ。
「うーん……名が売れてないとこんなもんか」
「何も知らなければ小娘とチビですもんね」
「だよなぁ……」
不躾な視線に眉を顰めているエルと会話しつつ、水槽っぽくなっているカウンターの向こう側にいる美人な人魚のお姉さんに一か月分の料金である大金貨三枚を支払う。ラフなシャツ姿のお姉さんは、さも当然の用に出て来た大金貨に一瞬面食らっていた。
「更に装備も良いし金の払いも良いから何処ぞの嬢ちゃんや坊ちゃんに見られるかもな」
「心外ですね。全部自分で稼いだ金だと言うのに」
エルは唇を尖らせているが、誰もこんなちんちくりんどもが大金を自分で稼いでいると思わないだろ。小娘とチビだし。
お姉さんから部屋の鍵を受け取った後、階段を下りて地下……水面下? 一階の廊下を進む。何でもこの宿、部屋から見える景色が凄いらしい。マール王国王都の冒険者の夢は、毎日その部屋で過ごす事だとか。
先行していたエルが鍵を開け、手を掛けながら俺に視線を向けて来る。それに頷き返すと、エルは視線をドアの方に向け直してゆっくりと押し開け、そして閉じた。
「……何やってんだ?」
「……いえ、何か別世界が見えたような気がしたので……」
「このドアはどこ○でもドアなのか」
エルの代わりに別世界へ繋がるドアの前に立ち、そっと手を添える。始原の熾天使として永い時を生きて来たエルが硬直するほどの世界。一体どんな世界が広がっているのか、天国か地獄か。そんな想像をしつつ、俺はグッと力を込めてドアを押した。
閉めた。
「誰だあいつ!?」
「魚人の方でしょうね……」
俺達がドアを開けた先で見た光景。それは筋肉モリモリ、マッチョマンの変態魚人が窓の外で水中ポージングをしている姿だった。
窓から差し込む水色の光と、そこから覗く美しい海の中の光景。白い砂に覆われた海底から生える桟橋の足に集り、泳ぎ回る色とりどりの熱帯魚。トリゴの街で仕入れた麦菓子やジャーキー等のツマミや麦酒やその他。アロースの街で手に入れた米菓や清酒に餅やその他。ふかふかのベッド。
「あぁ~~~駄目になるぅ~~~」
「……もう帰れないかも知れません」
この世界は公害とは無縁な上に、マール王国は水棲種の人々の為に環境保全に力を入れている為、海の透明度は非常に高い。その為、地上ほどでは無いが海中は遠くまでよく見える。波で揺れる光が踊る光景は、噂以上に素晴らしかった。
更にそこへ加わるのは、グランテーサ王国が誇る大穀倉地帯で生産された良質な小麦や米由来の食べ物や酒。結果、美しい物と美しい景色に侵されて堕ちた化物と天使が誕生した。欲望には勝てなかったよ……。
既に時間が大分遅くなって来ていた為、俺達は夜になるまで変化する潮の流れや入射光を楽しむ事にした。時折窓の外を通る魚人や人魚が微笑ましそうに見て来るが、そんな事は気にしていられない。早くあの精神衛生上非常に宜しくない筋肉を忘れなければ……。
そうこうしている内に日は西に沈み、東側から昇った月の光が代わりに海に差し込んで来た。幾分か暗くなったものの、この世界の巨大で明るい月は問題無く海底まで照らしている。
太陽の光とは違う神秘的な月の光の帯が海底を踊る。その様子をぼんやりと眺めていると、部屋に備え付けられている施設の確認をしていたエルが戻って来た。
「あ、チコ。この部屋お風呂が付いてるらしいですよ。しかも水中風呂で、魔道具に魔力を注いでおけば外から覗かれる事も無いそうです」
「へぇ、そりゃ凄い。眺めも良さそうだな」
「折角だから入りましょうか。チコ、先に行ってて下さい」
「あいよ」
エルの言葉に従い、バッグの中から着替えを取り出して水中風呂へ向かう。脱衣所にあった魔道具に魔道具を注いでからタオル一枚を腰に着けて扉を潜れば、ほぼ全面をガラスに覆われた水中風呂が姿を現した。
白磁の砂の上に覆われた敷石を伝った先には、磨かれた石で造られた黒光りする立派な浴槽が湯を並々と湛えて俺を待ち構えている。上を見上げれば、ガラスと外からの視線を遮る結界と海面の向こうの空にある月が見えた。
目を横に移してみれば、部屋の窓からも見えた海中の光景がより広く見えるようになっている。時折泳いでいる人も見えるが、誰も俺に気付く様子は無い。魔道具は正常に作動しているようだ。
全力で気配を探って本当に魔道具が作動しているか念入りに確かめてから、タオルを外して体を洗う。此処で活躍するのがクラウディオ印の石鹸と洗髪剤。俺の話を元にクラウディオ商会が開発した大人気商品だ。値段もそこそこの為、貴族から平民まで広く浸透している。これが広まる以前は灰で洗っていたとか何とか。毛に絡みそう。
この二つの開発を成功させてくれたクラウディオさんに感謝しつつ体を洗う。他の誰かが後で入る浴槽の中に必要以上に汚れを持ち込むのは、俺の中では御法度です。
泡までしっかり流し終わった後、ほかほかと湯気を立てる浴槽の中へ手を入れる。少しヒリッとした痛みを感じる丁度良い温度だ。それを確認して、俺は湯の中に身を沈めた。
「……はふぅ」
色々な物が一気に抜けて行くような脱力感と共に気の抜けた声が出る。やはり風呂は良い。この広い世界を巡る冒険や血湧き肉踊る戦いも楽しいが、風呂はそれを楽しむ為の活力を補給してくれる。風呂上りの酒も最高。入りながらも良いけど。
あ、それと長風呂した後はちゃんと水分と塩を取りましょう。倒れるよ。
それにしても、前世では高所にある絶景温泉やら絶景風呂はよくあったが、海中風呂とは今日まで聞いた事が無かった。まぁ安全上の問題やら立地条件やらもあるし、環境汚染もある。何よりも、此処まで透明な内海は存在していなかっただろう。
この世界にはマール王国王都が存在するこの入り江という立地があり、既存素材より質が高い魔獣素材がある。そして何よりも魔法があって、耐久力や覗かれやすさを補う事が出来る。正に異世界だから出来る贅沢な風呂だ。すんばらしい。
「失礼します」
「あーい……あーい? えっ」
カラカラという扉を開く音と共に、エルの無機質な声が聞こえて来た。極自然に返答してしまったが、何かがおかしい……そうだ、何でエルが俺の入って来る風呂に入って来てるんだ?
慌てて振り向けば、タオルを体に巻いただけのエルがゆったりとした動作で歩いて来ていた。
「ふぁっ!? えっ何で入って来てんのおかしくない俺まだ入ってるんだけどすっぽんぽん何だけど何でエルまで裸になってんの訳が分からないよ誘惑するなら別の方法でやれませんかね!?」
……ふぅ。
「落ち着きましたか?」
「落ち着いたけど落ち着いてない。何で入って来てんの? 馬鹿なの? 死ぬの?」
「馬鹿かも知れませんけど、死にはしませんよ。それに私は先に行っててと言ったのであって、先に入ってとは言ってません」
そう言うと、エルはササッと体を洗って俺の隣にするりと身を滑り込ませて来た。その間に俺に出来た事と言えば、タオルを腰に巻く事くらいだ。事前に洗っておいて助かった。いや、エルが入って来た時点で助かってないけども。
というか、風呂の中で素っ裸に近い男女が二人→しかも一人は誘惑しようと虎視眈々と狙っている→アッー! となりませんかね?
そんな事を考えていたが、俺の隣に身を沈めたエルは特に何か行動を起こす事は無かった。俺と同じように脱力しながら、ガラスの向こう側の海中を眺めている。話し掛けて来る事もなく、極自然にそこにいるだけだ。
張り詰めた様子も無く、リラックスした表情のエル。その横顔を眺めていると、緊張に強張っていた俺の体も次第に解れていった。警戒を解けば、必然と他の場所に意識を回す余裕が出て来る。主に視覚、次に聴覚、そして思考の方にだ。
纏め上げられた艶やかな銀髪は美しく光を反射しており、普段は隠れているうなじと合わせて艶やかに見える。そこへ風呂の暖かさで上気した肌と布一枚隔てた先にある裸体、更に小さく聞こえる息遣いが加わって――
――もしかしたらこれ、エルの策謀か?
とりあえず、俺は精神を落ち着けてエルと同じようにのんびりする事にした。ひっひっふー。
「あら、引っ掛かりませんでしたか」
「やっぱりそうだったのか!?」
俺がラマーズ法で心を落ち着かせていると、唐突に顔を此方に向けたエルがスッと目を細めて笑った。俺は声を荒げて噛み付くが、エルは柳に風とそれを受け流してグッと伸びをする。コイツ、まだ誘惑する気か。
「その辺にしてくれ。俺が耐えられない」
「あら? 私は別に構わないんですよ?」
目を逸らしながら頼むと、エルはそれを無視して此処ぞとばかりに体を密着させて来た。腕に当たる素肌とタオルの感覚に、ただでさえ血が昇っている顔に更に血が昇る。それを感じてか、エルは更にエスカレートして足まで絡めて来た。
柔らかい素肌と素肌が触れ合い、擦れるくすぐったい感覚から逃れようと暴れるが、俺の首に腕を回したエルを剥がす事は出来ない。逆に足を絡め取られて身動きすらも儘ならなくなってしまった。
そのまま浴槽の端まで追い詰められ、逃げ道をエルの腕に塞がれた。壁ドンならぬ風呂ドンで抵抗する術を失った俺に、妖しい笑みを浮かべたエルが迫って来る。明らかに風呂とは違う原因で上気した頬が無駄に色っぽい。その姿、正に女神の如し。
「ふふふ、捕まえました」
膝を股に、肘を脇に入れて完全に動きを封じて来たエルは、そのまま俺に圧し掛かろうとして来る。胴体が密着して体重が掛かり、エルの顔が文字通り目と鼻の先にまで迫って来た。潤んだ瞳が微かな興奮と好奇心を湛え、俺を射抜く。
キュッと軽く締め付けられる感触と、全身に掛かる重み。そのひとつひとつに動悸を激しくする心臓がやけにうるさい。体中に巡る熱い血が、更にその温度を増して沸騰しているような感覚に比例して、俺の全身がカッと熱くなる。
「緊張しないで下さい。何も心配する事は無いんですよ……」
女性特有の甘美な香りが鼻を擽り、愛おしい温もりが全身を覆う。柔らかな素肌の感覚や熱い吐息、全てが俺の中を乱し、精神を昂ぶらせようと刺激してくる。このまま誘惑に身を委ねてしまおうかという考えが脳裏にチラつき、体から力がスッと抜けた。
「――止めろ」
耳が口元にまで寄っていなければ聞き取れないような、本当に小さく微かな呟きはエルにしっかり届いたらしい。動きを止めたエルの顔から表情がスッと抜け落ち、首に掛かる腕に力が弱まった。
しかしエルは俺の上から退こうとはしない。相変わらず俺の動きを封じたまま、何時も以上に感情の抜け落ちた瞳で俺を見つめている。俺もそれを真っ直ぐ見返し、一歩も引く気は無いと言外に突きつけた。
痛々しい拒絶の沈黙が続いたのは、果たして数秒か数分か数時間なのか。それは分からないが、暫く時間が経ったその時、エルが倒れ込むようにして俺に抱き付いて来た。
誘惑してきた時とは違う、縋るような抱擁。俺の首元に顔を埋めたエルは、何時の間にか解けていた髪を湯面に広げながら囁いて来た。
「……チコは、何が望みなんですか?」
一言。たった一言の言葉に、エルの気持ちは全て表されている。義務感が強い故に主への忠誠を果たそうと必死に籠絡しようとして来たが、対象の反応は芳しく無い。色仕掛けに出てみても拒絶された。もうどうすれば良いのかが分からない。
故に俺へ直接質問して来たのだろう。籠絡すると言っておきながら籠絡出来なかったという屈辱がバレる事も厭わずに、ただ主への忠節を示す為だけに。
その事実に、そしてそこまで到った俺の思考に、頭の中が急速に熱くなる。もう止まらない。
――欲しい。
その艶やかな足も、華奢な身体も、白磁のような肌も、繊細な手も、可憐な唇も、灰銀の髪も、瞳も、血の一滴まで、エルの何もかもが欲しい。そしてそれ以上に――
「エル」
名前を呼ぶと、エルは不安そうな表情を浮かべた顔を見せてくれた。俺は彼女の顔を両手で包み込むようにして固定すると、正面から彼女の銀の瞳を見つめる。そして嫉妬心が荒れ狂うまま、極自然にその言葉を口にした。
「――俺はお前の心が欲しい」
次回予告
「詰め所……いや、神殿で話を聞かせてもらおうか」




