手を汚して
「結構えげつないわね。相当痛かったんでしょう?」
「あぁ。俺じゃなかったら気が狂ってた。それが十年以上続いたんだ」
「可哀想に……」
「……俺の頭に手を伸ばすのを止めろ。斬り飛ばすぞ」
「ごめんごめん。それで?続きは?」
「暫くは殆ど変わらない日々が続いたな。で、痛みと過酷さでどんどん心が荒んだ。事件があったのは……この世界に来て十年後ぐらいだったか」
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この世界に転生してから十年。今日も今日とて朝早くから師匠との鍛錬が始まる。
朝起きてまず行うのは、城の周辺のランニング。外周八キロのコースを全力で走る。一周に掛かる時間はおおよそ五分。時速に変換して九十六キロのスピードだ。前世の公道での車の制限速度が大体六十キロだったから相当早い。六年前から目を保護する為のゴーグルが必須になった。
二時間走り続けた後は、死ぬような痛みを伴う活性魔法の濃縮付加。これによって筋肉疲労を回復し、更に筋力を強化する。痛みを伴うのは過度な活性化による細胞の自己崩壊が原因のようだ。何度も細胞の崩壊と再生を繰り返す為、超回復が一気に進む事によって筋力が増加する……のかもしれない。詳しくは分からん。
活性が終わったら、練兵場に移動して素振り。最初は小さな木剣で振っていたが、今ではまるでこん棒のような金属の塊を振っている。重さも然る事ながら、重心が遠くにある所為で遠心力が増し、棒を停止させる時の負荷が大きい。だが、今の俺になら問題無く振る事が出来るレベルでしかない。
両腕二千回ずつ振ったらまた活性化。その後は型の確認をしつつ、百二十センチ程度のサーベルタイプの木剣を使って同じ戦奴隷達と一対複数で打ち合う。勿論俺が一人で、他が複数人だ。最近は十人程度を相手にする事が多い。勝率は九割。時折当たり所が悪くて死ぬ者もいるが、相手は明確な敵意を持って全力で向かって来る為、余裕が無い。手加減も出来ずに最初は悩んだが、最近は大分慣れた。
相手全員がダウンしたら、いよいよ師匠との打ち合いが始まる。型の修正点を指摘されつつ、技を繰り出して師匠から一本もぎ取るのが目的だ。だが、師匠がやたらと強くて未だに一本も取れた事が無い。師匠曰く、もう後が無くなって来ているらしいから、後二年程度で取れるようにかもしれない。
それが終わったらまた活性化して食事を摂り、自分の個室で就寝。これで俺の一日が終わる。最初は悲鳴を上げながらもっと軽いメニューをやっていたが、最近ではもう慣れてしまった。痛みもまた然り。活性魔法の濃縮付加を受けても表情ひとつ変えることは無い。
そう、本当に表情が変わらない。痛みに耐えるしかめっ面のまま、まるで固まってしまったかのように表情が変わらない。その所為で大分目付きが悪くなった。意識すれば眉間の皺を取る事は出来るが、結構集中力を使う為、そういう表情の改善を試みる事は数年前から無くなった。
自分の体がだんだんおかしくなっている事は自覚している。普通の人間は百キロ近い速度で走るなんて芸当は出来ないし、巨大な鉄塊を片手で振り回すなんて出来ない。瞬発力や持久力も桁外れだ。骨も角材で殴られた程度ではビクともしない。人の域を完全に超えてしまっている。
それだけではない。俺の成長は、十年前の日から止まっている。成長を促進した事が原因なのか、それとも濃縮付加が原因なのかは分からないが、身長は百五十程度のままだ。新陳代謝や骨の交換はちゃんと行われているらしく、毛は伸びるし骨も折れたら直る。だが、身長が伸びる事はもう無い。
もう既に、普通の人間に戻る事は出来ないのだ。
活性魔法のおかげで何の疲れも残っていない体をベッドに横たえ、虚空を見上げた。カーテンの掛かっていない窓からは、地球では存在していなかった巨大な月が浮かんでいるのが見える。大きいだけあってそれなりに光量も多く、この世界の夜は明かり無しで普通に歩ける程度には明るい。この月を見る度に、この世界が地球には無い事を実感して感傷に浸ってしまう。悪い癖だ。早めに直さないと。
上半身を起こして頭をガシガシと乱暴に掻くと、何本かの髪の毛が手に絡まった。黒い毛が一本、色が抜けて灰色になっている髪が六本、白髪が三本。奇しくも今の髪の毛の比率と一緒だ。元は真っ黒だった髪は、黒が一、灰が六、白が三の割合に変色している。多分、痛みによるストレスで色が抜けたんだと思う。
「十年……か」
誰に聞かせるでもなく、独り言を呟く。たった一つの単語なのに、その言葉に込められた意味は途轍も無く重い。初めて死んでから。この世界に生まれてから。奴隷になってから。剣聖の師匠が出来てから。その他にも沢山の意味がある。
今の俺に地球への未練は無い。友人や家族の顔も既に忘却の霧に霞んでいるし、地球での出来事が『思い出』から『知識』に代わって来ている。確かに生活は素晴らしく楽だったが、そこでどんな想いを抱いていたのかが思い出せない。そんな事あったな、というレベルだ。
でも時折、少しだけ懐かしく思う事がある。そういう時は決まって、この世界に来て何年かを呟いてしまう。その単語が、地球の記憶を俺に結び付ける脆い鎖になっているかのように。
地球での思い出を探っている内に、俺の意識は段々と薄らいで来た。上体をベッドの上に戻し、瞼を閉じて堕ちて行く意識に乗る。明日もまた鍛錬だ。出来る限り体と精神を休めておかなくては……。
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「今日はちょっと違う事をするぞ」
素振りと活性を終えて戦奴隷達と手合わせをしようと木剣を選んだ所で、十年前から外見が殆ど変わっていない師匠がそう言って来た。一体何をすると言うのだろうか。拳の勝負だろうか?でもそれは木剣を交えて普段からやっているし、違うか。
「魔法だ。魔法を教えるぞ」
「魔法ですか」
「おや?あまり食いついて来ないな」
意外そうな顔をした師匠から目を逸らし、話の続きを促す。正直、無駄な話には興味が無い。昔だったら食い付いた事は否定しないが、今の俺は昔とは違う。
「可愛くねぇな」
師匠は一言だけそう言うと、すぐに魔法の説明をし始めた。
「今日教えるのは身体強化だ。筋力や頑強さを一時的ではあるが飛躍的に上昇させる効果がある」
師匠はそこで言葉を切り、右手から金色のオーラを立ち昇らせ始めた。此処十年ですっかり見慣れた、循環系魔法を発動させた時の魔力の可視化現象だ。透き通った黄金のオーラが、師匠の右手から噴出すように溢れている。その金色に輝く手を振り上げた師匠は、実に軽い動作で地面を殴った。
爆発。
そうとしか形容できない程の衝撃波が練兵場を襲い、訓練をしていた戦奴隷達を震え上がらせた。師匠が殴った部分は、まるで隕石が降って来たかの様に小さなクレーターになっている。師匠の拳に一切の傷は無い。
「これが身体強化魔法。剣で戦う者には必須の循環系魔法だ。筋力を高め、体を物理的に硬くする事が出来る」
循環系魔法というのは、活性魔法に代表されるような、人体に作用する魔法だ。魔力を体に循環させ、新陳代謝を活性化させたり、筋力を一時的に増強したりといった事が出来る。ゲーム的に言えば、補助魔法や回復魔法に相当している。
それと対になる魔法が干渉系魔法だ。空間に直接魔力で干渉し、様々な現象を引き起こす事が出来る。代表的な物では炎や雷を出したり、熱を上げたり下げたり、土砂を操ったりと割と何でも出来る。ゲームならば攻撃魔法という所か。
この二つの魔法には、それぞれ使うのに適した魔力の『質』がある。その質は大別して『薄い』と『濃い』の二つに分けられ、魔力の可視化現象を起こした時のオーラの濃さで判別する事が出来る。
色が薄い、つまり透明に近い透き通った魔力は、空間中の魔力と混ざり易い。その為に抵抗が少なく、体内に魔力を循環させて強化や再生を行う循環系魔法との相性が良い。逆に、空間に干渉して様々な減少を引き起こす干渉系魔法とは相性が悪い。途中で魔力が空間中に溶け込んでしまうからだ。薄ければ薄いほど、威力や射程がどんどん短くなって行くのだ。
濃い魔力は空間中に溶け難く、体内に循環させた時の抵抗も強い。その為、循環系魔法を使っても効率が悪く、効果も薄い。しかし、空間中でも長い間強い独立性を保てる為、干渉系魔法には向いていて、高威力・長射程の魔法を使い易くなる。
つまり、薄ければ体に、濃ければ空間に作用するのが得意なのだ。
ちなみに色はその人の気質を表すと言われている。激情家なら赤とか、冷静沈着なら青とかになる。金色は頑張り屋だったり我慢強かったりするらしい。ただ、一度溢れると止まらないのだとか。つまり師匠を怒らせたら……。
いや、止めておこう。不毛だ。
師匠の魔力の質は丁度中間だ。濃くもあり、薄くもある。薄くも無く、濃くも無い。バランスが取れていると言えば聞こえは良いが、実際は中途半端なだけだと師匠は笑っていた。武術を極めた者としては、やはり循環系魔法に特化している魔力が欲しかったらしい。
俺の魔力の質は透明。混ざり物が一切無い、純粋な透明だ。魔道具を使って調べた時には、立ち会った者全員が驚愕していた。剣聖から剣を学ぶ者が身体を強化するのに最も適した魔力を持つなんて、これは運命だ!なんて叫んでる奴まで居た。
「やり方は簡単。何時も通り魔力を循環させて、体を包め。浸透させると活性になるからな」
師匠の言う通りに、俺は体内で血液と共に流れる魔力を循環させ、全身を包む。包む際にイメージするのは、前世で言うタイツ。ピッタリと体に貼り付け、体の動きに連動させて魔力に補助させるイメージだ。これが合っていたようで、以外にも早く魔法を発現させる事が出来た。
今、俺の体の周辺は陽炎のように空間が揺らいでいる。本来は漏れ出た魔力の霧のような物が出来るのだが、透明の魔力を持つ俺は霧が浮かぶ事が無い。代わりに素の魔力量が相当多いらしく、空間が過剰な魔力で揺らいで見えるようになる。
「理解するのが早いな……」
「早くしないと殴られますから」
「撫でるの間違いだろ」
師匠の撫でるは剣の刃で撫でるだから信用出来ないんだよ。
それは兎も角、俺は魔力を纏ったまま体を動かしたり、木剣を持ち上げたりしてみる。素の状態と比べて、明らかに筋力が上昇しているのが良く分かった。木剣は重みすらも感じない。知覚能力も相当向上しているみたいで、隣から聞こえてくる金属と金属がぶつかる音が鬱陶しい。
このままだと爆音攻撃に対して極端に弱くなる為、部分的に制御出来ないのかと耳の周辺だけ魔力を霧散させた。鋭敏になっていた俺の聴覚が落ち着きを取り戻す。どうやら上手く行ったようだ。
結構集中力を使った為、一度魔力を纏うのを止めて身体強化を解除する。師匠の方を見ると、驚いているとも呆れているとも取れる曖昧な表情を浮かべられた。
「魔力も安定したし……部分的強化に近い芸当もやってのけるとはな……よし、我と同じ様に地面を殴ってみろ」
師匠の言葉に頷き、俺は再び魔力を纏う。自分の力を正確に認識する為、限界まで魔力の濃度を高める。腕から立ち昇る陽炎のような揺らぎが一段と激しくなり、まるで空間が悲鳴を上げているような錯覚を覚えさせた。
「……ッ!待てッ!!」
「え?」
そのまま拳を振り下ろした所で師匠の制止の声が聞こえたが、一度動き出した拳は目にも留まらぬ速さで地面に突き刺さる。刹那、轟音と共に体に何かがぶつかり、辺りに土煙が立ち込めた。
自分がやった事だとは分かるが、明らかに師匠の爆発を超えた規模だ。一体何が起きた?
細かい土に咳き込みながら、俺はぐるりと周りを見渡す。全方位が土煙の厚いベールに覆われているものの、数メートル程度なら見る事が出来た。
視界に映ったのは、天変地異でも起きたのではないかと見紛う程の大惨事の痕だった。地面は陥没し、立て掛けられていた武器は散乱し、人は吹き飛び、天井が一部崩落している。陥没の中心点は、俺が殴りつけた所にあるようだ。右手を見ると、腕の筋肉が破裂したようにグチャグチャになっているのが見えた。
つまり、この惨事は俺の拳が引き起こした事だ。
どうやって?拳で殴って。
その力の源は?俺の膂力と魔力。
人に出来るか?いや、絶対に出来ない。
師匠ならば出来るか?いや、師匠でも出来ない。これは俺にしか出来ない。
――ならば俺は、何者だ?
フリーズしていた俺の思考が、倒れている戦奴隷達の呻き声で引き戻される。目を向ければ、骨折した腕を支えている者や、打ち付けた後頭部から血を流している者が苦悶の声を上げていた。既に絶命している者や、致命傷を負っている者は声も上げずに倒れ伏していた。
「それが濃縮付加だ。限界を超える量の魔力を纏わせると、超常の力を得られる代わりに凄まじい反動が来る。ハイリスクハイリターンの禁忌だ。活性魔法による痛みも、濃縮負荷の効果だ。まさか自分で見つけるとは思っていなかったが……お前は罰を受けねばならん」
何時の間にか隣に来ていた師匠が、俺の腕に活性魔法を掛けながら教えてくれる。無意識だったとは言え、禁忌を犯して大量の人間を死に至らしめた罪は重い。俺は唇を強く噛み締め、来るであろう濃縮された活性魔法の痛みに備えた。
しかし、師匠は活性魔法の濃縮付加をする事は無く、一本の剣を俺に手渡して来た。刃引きされた物では無い。真剣だ。人の命を奪う為に鍛えられた鋼の輝きが、俺の手の中に納まる。
「大量出血しとる者はもう助からん。お前が殺せ。それがお前への罰だ」
「……殺す……ですか……?」
最初は言っている意味が分からなかった。何故まだ生きている者を殺す必要があるのか。何故これ以上の更なる苦しみを与えなければならないのか。日本人だった頃の甘い心が、拳を振り上げて必死にそう叫んでいた。
その言葉の真意に、此方の世界で生まれた冷たい心が気付いた。
生きていても苦しいなら、此処で引導を渡してやった方が良いと。そして、お前が蒔いた種は、自分で収穫しろ。師匠はそう言っているのだと。
汗ばんだ手で剣を握りなおし、一番近くで転がっている男の傍に近付く。彼の足は無残にも潰れていて、今も大量の血液が溢れている。今すぐ治療しても間に合わないだろう。それほどまでに、広がり続ける血溜まりは大きくなっていた。
彼の顔は痛みに歪み、血が抜けて蒼白になっていたが、視界に俺が入った瞬間に安堵の表情を見せたように見えた。ゆっくりと、油が切れた人形のように動いた頭が、正面から俺を捕らえる。時間の経過と共に昏くなって行く瞳が、俺に「殺してくれ」と懇願しているように見えた。
俺は右手を、師匠に教わった通りに振り上げる。
そのまま、その手を流れるように振り下ろす。
鋼の切っ先が寸分違わず男の喉を切り付け、ぱっくりと割れた傷口から大量の血液が噴出した。大量の血が流れた体の、一体何処にこんな量の血を溜めていたのかと思うほどに。
生温い返り血を浴びた俺は、不思議と頭が冷えた。敵意を持っていない者を故意に殺す事に対する忌避感は、流れる血に溶けてしまったかのように消えた。
冷静に周りを見て、致命傷を負った人を見つける。彼等は俺が近付くと、一様に安心したような表情を見せ、目だけで俺に懇願してくる。俺は彼等に止めを刺して回り、何時しか練兵場に致命傷を負った生者はいなくなっていた。
赤黒くぬめる血に染まった俺は、一体どんな表情をしているのだろう。笑っているのか、泣いているのか、何時もの険しい表情をしているのか。確認する術は無いが、少なくとも止めを刺した事に対して一片の罪悪感も残っていない事は確かだった。
「良くやった」
師匠の無機質な声が、俺の脳裏にガンガンと響いた。