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決して裕福とは言えないがリジー・ダーシーはアパートメントの一室を所有している。
その扉が乱暴に開かれ、人影が入り込んでくるのを見て、眉を寄せた。
「ちょっと、ドアを壊さないでよ?」
「……リズ」
そこに立っているのはマリアだ。だが彼女はどこか途方に暮れた子供のような顔で、リズを見るとその場でへたり込んだ。
「ちょ、ちょっと、マリア!? どうしたの!?」
慌てて駆け寄ったリズにマリアはすがりつくと、震える身体をそのままに必死にしがみつく。ドアの鍵が閉まっているのを確認して、リズはマリアを抱きしめた。震えがゆっくりと収まっていくのを感じながら、リズはマリアの頬を撫でる。
「どうしたの、マリア? 強盗にでも襲われた?」
ヒューヒューと喉を鳴らすマリアが、ゆっくりと呼吸を整えていくのを見守り、リズはマリアの姿を確認した。別段、着衣の乱れも無い。であれば――?
「ルカが……ルカリオが」
「え?」
「ルカリオ・アジャーニが、いたの」
◇
リズが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、マリアはソファに沈み込むように座っていた。ボンヤリと何も映っていないテレビを見つめるマリアの横に、リズが座る。
「マリア?」
「……うん」
気遣う様が理解できたのだろう。マリアが、ゆっくりと考えをまとめるように口を開いた。
「アパートへの道を歩いていたら、道に車が停まっていたの。考えてみたら、この辺りであんな高級車が停まっているはずが無いのに」
ぐ、とカップを掴む手に力がこもる。
「男が降りてきたわ。……ルカリオだった。彼は――まるであの夜の事が無かったように、私を呼んだの」
リズは震えているマリアの肩を、そっと抱きしめた。
この肩とて、以前の記憶の中にあるマリアとは比べものにならないほどに、やせ細ってしまっている。
「私を路上に放り出せと命じた事など、覚えていないような顔で――私が好きだった笑顔を向けて、話がしたいって……」
それはつまり、ルカリオの笑顔が結局のところ、心のこもっていない代物だったという事か。リズはそう思うも、口には出せなかった。マリアとて気がついているのだろう。だからこそ彼女は震えている。愛している。愛していた。今も彼女の心はあの男に囚われたままだ。だがその笑顔は――誰にでも向けるような笑顔だったという事なのだから。
「……マリア」
「逃げ出したわ。話なんて無いって言い捨てて、後ろも見ずに逃げ出したの。怖かった。ルカリオが何を言い出すのかが分からなくて。彼がどんなことを言っても、彼にすがりついてしまいそうで――」
今も胸には彼への愛がある。理由も理解できぬままに路上に放り出され、一時は憎みもした。だが結局のところ、マリアの中には今もルカリオへの消えぬ愛が燻っていた。お腹の中で成長する子供が、その愛を保つ原動力ともなっていたのだろう。
だがそれは、あくまでも遠くから――テレビに映ったスターを見るような気持ちになっていたのだ。もはや、ルカリオ・アジャーニとマリア・ウォートンの人生は交差する事はない。
そう考えていたのだ。
だというのに、彼は現れた。
話がしたい、と。そんな事を言ったのだ。
あの誇り高きアジャーニの男が。
一体なんの冗談なのか、と。今ならばそう思える。だが、ルカリオがなんの理由も無く、こんな場所に現れるはずは無い。では理由は?
――もしかしたら、という希望がマリアにはあった。
ルカリオが、あの夜の誤解に気付いて後悔し、自分を迎えに来てくれたのではないか?という希望が、ほんのわずかでもマリアの胸に火を点す。
けれども、同時にそれがほとんどありえない事だとも理解していた。
もしも誤解だったというのなら、ルカリオのあの変わりのない笑みはなんだったのか。
ルカリオは自分がそこまで愚かだと思っているのだろうか。ちょっと微笑めば犬のように尻尾を振ってついていく、と。そんな風に思われていたのだろうか?
マリアが落ち着いたのを確認して、リズは立ち上がった。窓の橋から外を眺めればいやに大きな黒光りする高級車がアパートの前に停まったのが見て取れた。
「……マリア。どうやらおいでなすったようだよ」
「え……?」
呆然と顔を上げたマリアに、リズは肩をすくめて見せる。
「この辺りで、あんな高級車は見た事がない。ってことは、多分そのルカリオ・アジャーニなんだろうさ」
そう口にした途端、ドアが大きくノックされる音が室内に響き渡ったのだった。