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ガゼット社に直接赴くのは少々問題がある。そう考えたルカリオは、調査報告にはマリアの現在住んでいるアパートの住所も載っていたので、その通り道で待ち伏せる事にした。
車を路肩に停めてマリアが通りがかるのをじっと待ち続ける。必要なのは、演技力だった。
ルカリオは天国へと召されようとしている祖父のために、『次代のアジャーニ』を見せる必要があった。それも、彼に疑われることのないように。
そのためには、マリアが必要だった。
彼女の演技力は十分だ。妊娠というアクシデントが無ければ、ルカリオは彼女を疑うことなど無かったのだから。
当初は彼女に全てを話そうかとも考えた。だがその考えはすぐに捨てた。あの欲深い女性にそんな事を話せば、どんな要求をするかも分からない。それならば――騙された振りをすれば良い。彼女が自分を騙しているとその美しい顔の裏側で嗤っているように、自分もまた、彼女を騙せば良いのだ。
それはルカリオにとって心地よい案だと思えた。傷ついたプライドがそれを後押しする。自分を騙した女を、自分が騙し返す。それもアジャーニの妻という立場まで与えた上で、恐らくは彼女にとって幸せの絶頂から突き落とす。
そう。ルカリオは、マリアに結婚を申し込むつもりだった。しかも、かつて彼女を放り出した事についても謝ったうえで、である。無論それは演技だ。彼女の裏の顔を知っている今、マリアを信じる事など無いだろう。だがそれでも、死に瀕する祖父がひ孫が生まれたという事実を胸に安らかな死を迎えられるならば、例え相手が毒婦であろうと一時的に目を瞑る覚悟はしていた。
そう。ルカリオの気分はすでに殉教者のそれだった。
愛など抱かない。だが自分が彼女を愛していると、そのように思わせるための演技はする。
――いつか、来るべき日に毒婦に断罪するために。
「……来た」
暗くなった道を一人歩く女性の姿。それはどこか心細さを感じさせるほど、ほっそりとしている。本当に妊娠しているのだろうか。そんな疑問すら抱かせるほどに、マリアは痩せていた。
疲れたように肩を落として歩く姿は、ひどく弱々しく見える。
だがルカリオは脳裏に探偵の報告書を思い浮かべ、そんな憐れみを切り捨てる。彼女は毒婦。欲得尽くで動く悪女。憐憫など不要。
車のドアを開き、路上へと出る。
全てのタイミングを計り、最適の表情を浮かべながら。
◇
目の前の車から人影が出てくるのが見えて、マリアは足を止めた。
この辺りは決して治安が良い訳ではない。無論、強盗が歩いているほど治安が悪い訳ではないが、決して安心して無警戒に歩けるような場所でも無い。
だからこそ、車から突然現れた人影にマリアは警戒した。だが次に、その人影が街灯の下に立ったのを見て、愕然とした。
そこに立っていた男を、マリアは見た事があった。否。いやというほど見覚えがあった。
仕立ての良いスーツに身を包んだ偉丈夫。スポーツ選手と言われても疑わないだろう均整の取れた肉体は、ジムで鍛え上げた物だという事を知っている。その肉体が与えてくれる快感も、その存在が与えてくれる安心感も、よく知っていた。
「マリア」
自分を呼ぶ声が、とても優しい物なのだと信じていた。
「やっと見つけた。マリア」
こうして、自分のことを愛しい存在なのだと言わんばかりに、優しい声をかけてくれるなど、信じられなかった。それほどの事を、彼はしたのだ。
「探したんだ、マリア。……ああ、すまない。突然すぎてびっくりさせたかい?」
ルカリオが、まるであの夜が無かったかのように、自分の記憶と変わらぬ顔と声で話しかけてくる。
マリアは自分の心臓が壊れそうな早さで鼓動を刻むのを感じていた。
そのくせ全身から血が引くような感覚を覚えているのだ。分かるのはルカリオ・アジャーニという男が今、目の前に立っているのだという事。
けれど、一体なにをしに来たというのか。お腹の子を自分の子供ではないと決めつけ、自分を夜の街に放り出した男が、一体なんのつもりで――?
「話がしたい。マリア、車に乗ってくれないか?」
「……いや、よ」
かろうじて唇に乗せられた声は、まるで自分の声じゃないように聞こえた。掠れ、震えている。怯え。恐怖。ルカリオがそこに立っている意図がまるで理解できず、マリアは後ずさった。
「……マリア?」
「私には、あなたと話す事なんて何も無いわ!」
怪訝そうに眉を寄せたルカリオを置いて、マリアは駆け出す。ルカリオの横を駆け抜けると、リズの待っているだろう彼女のアパートへと走る。
頭の中ではなぜルカリオが現れたのか、という疑問がグルグルと回り続けている。だが何よりも、今マリアを突き動かしているのは、恐怖だった。
◇
走り去ったマリアの後ろ姿を、ルカリオは呆然と見送ってしまった。
最初こそ自分の姿に驚いた様子を見せたマリアだったが、ルカリオが甘い声を出せばすぐにでも尻尾を振って近づいて来るだろうと予想していた。
だが、その予想は覆された。
彼女はまるで、幽霊でも見たかのように自分に怯え、さらには話を一言も聞くことなく逃げ出してしまった。
計画の第一歩から躓いた事に苛立ちながら、ルカリオはマリアが走り去った道を見つめる。どうせ彼女の行き先は分かっているのだ。予想よりも手間取るかも知れないが、それでも計画に変更は無い。
ルカリオは、車のエンジンをスタートさせながら、そう考えていた。