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企画営業課のフロアはマリアにとっては、かつての職場である。現在はアントニオの秘書――というよりは、アシスタントとして働くようになってからも、幾度か足を運んだことはある。
元・企画営業という立場から、課から社長に向けてのプレゼンの補助役として、アントニオが求める企画の方向性と、メンバーの求める方向性の調整を行っているのだ。
かつての同僚でもあったマイクと資料を挟んで話し込んでいると、背後から視線を感じて振り返った。
「……レイチェル? 何かしら?」
「いえ、別に。先輩のお仕事を見学させていただこうと思って」
レイチェル・スタンバックは鋭い雰囲気をそのままに、マリアとマイクの様子を黙って見ている。それに肩をすくめて見せると、マリアはマイクが提案する内容に意識を戻す。
剣呑な視線を背に感じながらもチェックを終わらせると、マリアは立ち上がった。
「じゃあ戻るわね。社長のスケジュールからすると、明日の朝は空いてるわ。ねじ込むなら今のうちに用意しておくけど?」
「ああ、お願いする。……君が企画営業から居なくなったのは、正直痛かったな。今からでも十分やれるんじゃないか?」
マイクが口ひげを撫でながら苦笑いを浮かべるのを見て、マリアは小さく肩をすくめる。
「買いかぶりよ。それに今は、私よりも優秀なレイチェルがいるじゃないの」
そう言ってオフィスを出て行くマリアの背を見送り、マイクはふと気がついたように視線を横に向けた。
「なにか言いたいことでも? レイチェル」
「みんな、おかしいですよ。ウォートンさんの事、買いかぶり過ぎじゃないんですか? あの人、一年前に突然辞めたんですよね。それなのに今度は社長秘書だなんて」
レイチェルが吐き捨てるように口にする言葉に、マイクは苦く笑う。
そして手にした書類をまとめると、それをレイチェルへ押しつけた。
「こいつを読んでみろ。マリアなら二十は改善案を出してくる」
「……は?」
「レイチェル。君は確かに優秀なスタッフだし、美人だよ。だが優秀さを鼻にかけてるようじゃ、社長のお眼鏡にはかなわんな」
「――な」
頬を紅潮させたレイチェルを置いて、マイクは休憩スペースへと向かうべく立ち上がった。
見なくても分かるほどに怒気を発しているレイチェルを思い、マイクは再び苦い笑みを浮かべた。
レイチェル・スタンバックは、マリアが突然辞めた一ヶ月後に採用された。前任だった彼女の穴を埋められるだけの才気を持った人材を、と要望しただけあって、レイチェルは確かにデキる女だった。同時にその優れた容姿に惹かれる男達は多かった。
だがマイクは、レイチェルが始めからアントニオ・ガゼットを狙っている事に気がついていた。アントニオの前でだけはしおらしい振りをする彼女を見て、その古典的な態度に思わず笑ってしまったほどである。
そんなレイチェルが、マリアをあそこまで敵視する理由。それもまた、分かってはいた。マリアが会社に現れた時から、企画営業部の人間は彼女をあっさりと受け入れている。それは一年前から変わらない彼女の人柄のおかげだろう。
それがレイチェルからすれば気にくわない。何せレイチェルからすれば、マリアが帰ってくる事は望ましい状況ではないのだから。自分と比較されるうえ、明らかにマリアのほうが優れている。それはプライドの高いレイチェルには、耐え難い屈辱だろう。
さらにはレイチェルはアントニオの妻の座を狙っていた。マイクから見ても露骨なアピールを繰り返しているようだが、成果はない。そこに現れたのもマリアである。アントニオの秘書に収まり、四六時中一緒にいる二人はお似合いにも見えた。レイチェルからすれば、全てが屈辱なのだろう。
「もめ事にならなければ良いがなぁ」
マイクの呟きは、願望にも似た響きがあった。
◇
「……ミスタ・アジャーニ。お忙しい所を申し訳ありません」
「いや。それで祖父の容態は?」
入り口からエレベーターを待つ時間も惜しく、階段を駆け上ってきたルカリオは、乱れた呼吸を整えながら当直の医師に状況を確認する。
その報せは夜遅くまでオフィスに残って仕事をしていたルカリオに、直接届けられた。
祖父であるアンジェロの担当看護師から、アンジェロが病院に搬送された、という連絡である。
「現在のところ、容態は安定していらっしゃいます。とはいえ、元々心臓が弱くなっていらっしゃいますから、安心はできません」
「そう……か。意識は?」
「今は薬が効いていますので、あまり明晰な状態ではありませんが……お顔をごらんになる程度なら大丈夫でしょう」
医師の言葉に頷いて病室へと入る。
アジャーニの前当主に相応しい最新医療機器が、細い枯れ枝のようなアンジェロを取り囲んでいる。いつもよりも弱々しく見えるのは威圧感すらある医療機器のせいだろうかと思いながら、ルカリオは敬愛する祖父の枕元に立った。
「お爺さま」
うつろに開かれたままだったアンジェロが、自分を見るのが分かる。
ルカリオは皺だらけで節くれ立った祖父の手を取った。
「大丈夫そうで、安心しました」
「……ルカ……リオ」
ゆるゆると力が込められる手を握り返し、ルカリオは祖父の口元に耳を寄せた。
囁くように告げられた言葉に、ルカリオの表情が強ばる。
「お爺さま……それは」
言い返そうとするルカリオを余所に、アンジェロは目を閉じて寝息を立てる。
薬が効いたのだろうという医師の言葉を聞きながら、ルカリオは祖父の言葉を考えていた。
――「次代のアジャーニを」
それは恐らく、祖父が生きるための糧なのだろう。ルカリオはそう考え、沈思する。
祖父の望みを叶える事はできない。
だが、死の旅路へ向かおうとする敬愛する祖父のために、自分が叶えられる事ならば叶えたい。
ならばどうすれば良いのか。
ルカリオ・アジャーニの脳裏で一つの案が浮かぶ。彼はそれを考え、悪鬼のように笑みをその顔に浮かべるのだった。