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「ただいま、リズ」
「おかえりなさい、マリア。その顔だと、うまくいったのね?」
少しばかり年季の入ったアパートメントの一室でお茶を飲んでいたリジー・ダーシーは、部屋に入ってきた親友の顔を見て、ホッと息を吐いた。
「ええ。まだ試用期間があるけど、その間にボスの試験に合格すれば、正社員として雇ってもらえるって」
ハイタッチをして喜びを伝えるマリアは、久しぶりに晴れやかな笑顔を浮かべていた。それを見て、リズは安堵する。
リズとマリアは、学生時代から続く親友だった。お互いの初体験の相手だって知っている。だからこそ、一年前に突然マリアが仕事を辞めていなくなった時には驚き、心配していたのだ。
マリアからのメールや電話では幸せそうだったから、リズは何も言わないことにしていた。だが数日前に現れたマリアは、憔悴しきっていた。
両親を事故で亡くしているマリアには帰る場所などなく、リズはそんな彼女を自分のアパートメントに住まわせることを即決したのである。狭苦しい我が家だが、少なくとも今すぐにでも身投げでもしそうな姿のマリアを放置できなかったのだ。
妊娠しているという事実を知った時、リズは我が事のように怒った。なぜマリアが一人で不安に苛まれなくてはならないのか。子供は一人では作れないのだ。必ず原因がある。
マリアの話を聞く限り、ルカリオ・アジャーニという男性は下の下な卑劣漢だった。
一年間も共に過ごしておきながら、マリアの何を見ていたというのか。彼女がそんな罠を仕掛けられるような女性ではないことを、リズは知っていた。真摯で、真面目で。いつだって相手のことを先に考えてしまう。そんな女性なのだ。マリア・ウォートンという女性は。
けれどルカリオ・アジャーニは、マリアが妊娠したと言った瞬間に全ての責任を放り出し、彼女を夜の街に放り出した。大企業のトップともあろう人間の取る行動とは思えない、信じがたい愚行だ。
一方的にマリアが裏切ったと決めつけた男を、心の内で首を締め付けてやりたいと思いながらリズは嘆息する。
「良かったわ。いつまでもリズの部屋に間借りしているわけにはいかないし」
マリアがそう言って苦笑するのを見て、リズは眉を寄せた。
「なに言ってるのよ。お腹が大きくなったら、一人でいるよりも私と一緒にいたほうが、何かと都合が良いわよ?」
「……でも、リズにはリズの生活があるでしょう?」
自分にも紅茶を用意したマリアが、カップに口をつけながらそう呟く。それは確かに、恋人が居るのならば、友人といえどもいられても困るのかも知れない。けれど幸いな事に現在の自分はフリーだった。
リズはそう告げると、肩を竦める。
「ねえ、マリア。あなたは他人の手が必要な状況だわ。あなたの主義として、自力で何事も済ませたいというのは理解できる。でも、手を借りる事は別に悪じゃないのよ?」
「リズ……」
「私は、あなたの力になりたい。それだけなの」
両親を失ってからは、アルバイトで生活費と学費を稼いで大学を卒業したマリアは、他人に頼るのを苦手としていた。他人に迷惑をかけたくない、というマリアの優しさが、彼女をそんな風にしてしまったのだ。
けれどリズからすれば、親友から頼られる事は、嬉しくこそあれ迷惑などでは決してない。今回、マリアが進退窮まって自分に頼ってくれた事も、リズにしてみれば嬉しくあったのだ。
「子供のためにも、お金は余裕があるほうが良いわ。だからしばらくは家に居なさい」
「……ありがとう」
うるんだ目で自分を見る親友に、リズは微笑んだ。
◇
数週間の試用期間を経てマリアはアントニオの秘書となった。元々いた職場だった事もあり、顔見知りは多い。突然辞めたにも関わらず再び現れたマリアに対し、かつての同僚達は最初こそ訝しげにしていたものの、真摯に仕事に取り組んでいるマリアを見て、すぐにかつての距離感を取り戻していた。
あえて言うならば、企画営業というかつての職場で、自分の後釜に座ったらしいレイチェル・スタンバックが自分を警戒する目を向けてくるくらいだろう。
だがそれは、仕方のないことだとマリアは理解していた。自分が一年前に、どれほど無思慮な行動を取ったのかについては、自分自身が一番理解している。無分別で無責任。それをレイチェルは警戒しているのだろう。他の同僚達はマリアのことをある程度知っているからこそ、今は認めてくれている。
だったら、自分はレイチェルにも認めてもらえるように、真摯に仕事に取り組むべきだ。
手にした書類を確認し、電話を数本入れつつマリアは、ほっと息を吐いた。
「マリア? どうかしたのかね?」
社長室から顔を出したアントニオが、ちょうどため息を吐いたマリアに首を傾げた。
「社長? あ、いいえ。ちょっと目が疲れただけです。何かご用ですか?」
「ああ。コーヒーを頼めるかな。濃いめで」
「かしこまりました」
アントニオの秘書という席に座れたことは、マリアにとっては僥倖だった。前任の秘書が結婚を機に退職したと聞いて、少しだけ羨ましく、そして痛みを感じる。だがそれがなければ、恐らくはアントニオは自分を雇ってはくれなかっただろう。
彼の信頼に応えなくてはならない。自分は一度、会社の――彼の信頼を裏切っている。
だからこそ、与えられたチャンスに対して必死にくらいつこう。
そう考えながらマリアはコーヒーを淹れると、アントニオのオフィスへと入っていった。
アントニオは上着を脱いでシャツ姿のまま、難しい顔でモニタを覗き込んでいる。
「社長。コーヒーをお持ちしました」
「ああ、ありがとう。そこに置いておいてくれ」
アントニオはモニタから目を離さずに、何かを考え込んでいるようだった。
それを確認すると、マリアは乱雑に放り出された資料のうち、アントニオがすでに片付けたと思しき資料をまとめると、机の端に置かれたトレイに放り込む。
「……マリア?」
「こちら、すでに片付いているのでしょう?」
現在、アントニオが睨み付けているモニタの案件とは、まるで別件の内容を指さす。本来ならば処理済みとして扱われているはずだが、今見ている別件が入り込んだために、おざなりに放置されていたのだろう。
「ああ、ありがとう」
「いいえ。他になにかご用はありますでしょうか?」
「いや。無いよ。……ああ、そうだ。なにか連絡はあった?」
首を横に振って見せると、アントニオは「そうか」と呟いて窓の外へと視線を向けた。
高層ビルの最上階にあるアントニオのオフィスから眺める景色は、素晴らしいものだった。空へと向けて突き立てるように伸びる高層ビルの群れ。遠くに見える山脈の峰を眺めながら、アントニオが求めている連絡の主のことを思う。
アントニオもまた、恋人に去られた男性だった。彼もまた自分と同じように、恋人に捨てられたのだという。だがマリアは、それは違うと思っていた。話に聞く彼の恋人は、どう考えても彼のために身を引こうとして、離れていったようにしか思えなかったからだ。
だからこそ、マリアは折に触れて彼女を探すように、アントニオに告げている。
彼もまた、少しずつ恋人を探し出そうという気力を取り戻しつつある。
自分にはない未来。それを思いながら、マリアは自分の下腹部にそっと触れる。
ここで育っている命は、自分を捨てることはない。そう信じていた。
2011/02/11 誤字修正