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祖父の屋敷からオフィスへと出勤したルカリオは、苛立っていた。敬愛する祖父の容態が思わしくないという事実と、それを理解している祖父がたびたび口にするアジャーニの後継者という言葉が、チクチクとルカリオの神経をささくれ立たせていた。
アジャーニ・グループは世界的な不況を受けてもなお揺るがず、ビジネス面でのルカリオは圧倒的な成功者である。だが同時に、そういった成功者が集う場面ですでに三十四歳になるルカリオが特定のパートナーを伴わずにいるという事実が、周囲から奇異の視線を招く原因となっていた。
ルカリオが同性愛者だとか、そういった理由があるわけではない。事実、彼は言い寄ってくる女性を、むしろ積極的に食い散らかしている。だがそれも、ここ一年ほどの間は収まっていた。それは彼のマンションで暮らしていたマリア・ウォートンの存在があったからだろう。
ルカリオは女性に対しては真摯に付き合っているという自負がある。少なくとも、一人の女性と交際している間はパートナーの女性以外に目移りしないようにしている。問題があるとすれば、それはルカリオが考える交際期間が、非常に短期的なものだということだ。
ルカリオからすれば、自分が飽きるまで相手の女性と付き合っただけ、という事になる。ルカリオにとって交際とは常に自分から破棄する物だった。
だが、マリアは違った。
ルカリオの脳裏に、マリアの言葉が浮かぶ。「妊娠した」といって微笑み、恐る恐る自分を窺うように見上げた小柄な女性。思い出しただけで、ルカリオの脳裏は怒りで真っ赤に染まった。
妊娠。よりにもよって、彼女はそんな卑劣な罠に自分をはめようとしたのだ。
これが他の男ならば、マリアの言葉にだまされて結婚の契約を交わしたかも知れない。妻という立場と財産を得るための口実を与えるのかもしれない。
それほどまでに彼女の『芝居』は巧みだった。恋人に突然の事実を伝えるかどうかで悩み、けれどもきっと恋人ならば受け入れてくれると信じるか弱い女性の『芝居』。ルカリオでなければ、あっさりと騙されていただろう。
これまでにもルカリオに同じような罠を仕掛けてきた女は、大勢いた。だがそのいずれもが、ルカリオによって徹底的に破滅させられてきたのである。
あの時、マリアを家から放り出しただけで済ませたのは間違いだった。憤怒に燃える胸中で、ルカリオはそうごちる。
清楚で穏やかで、けれどその笑顔は明るく、裏表のない心の持ち主。そしてベッドでの相性は、抜群。
ルカリオの中でマリアはそんな女性だった。そもそも彼が一緒に暮らした女など、そうは居ない。今までであれば、ホテルに呼び出すか、精々が新しいアパートを買い与えてそこに通う程度だった。自分自身の生活スペースに、他人を入れることをルカリオは殊の外嫌っていたのだ。
けれどそんなルカリオの中のマリアという女性像は、ただの虚像に過ぎなかった。
彼の目を盗み、余所の男とベッドを共にする。そして妊娠したという事実に気付き、欲をかいたのだ。
確かにルカリオは避妊に気を遣っているようには見えない。だからこそ、マリアはアジャーニ家の花嫁となる野望を抱いたのだろう。
だが、それはありえないのだ。
だからこそルカリオは失望した。自分でも認めたくはないが、ルカリオはマリアを深く信頼していたのだ。だからこそ、彼女を放り出すだけであの夜は精一杯だった。心の均衡を保つために、何よりもまずマリアを遠ざけることを最優先にした。
そして今、ある程度落ち着いたルカリオの脳裏には、彼女にいかにして償わせるか、という考えが浮かび続けている。この暗い炎が胸にある限り、この考えは消えないのだろう。
ただの女性が、アジャーニという帝国の財を掠め取ろうとした。ならば、その安易で無謀な野望に対し、相応の代償を支払わせるべきだ。
ただ、そのために改めてマリアを捜し出すのも癪だった。むしろ、彼女の存在をなかったことにしてしまうほうが、精神衛生上はマシに思える。
そう結論づけたルカリオは、頻繁にかかってくる電話とメールの確認をするべく、意識を仕事へと向けるのだった。
◇
マリア・ウォートンは深々と頭を下げ、感謝の言葉を口にした。
「ありがとうございます、社長。突然辞めたにも関わらず、こうしてチャンスを与えて下さったこと、本当に感謝します」
「気にすることはない。私が用意するのは、あくまでチャンスだ。それをつかめるかどうかは、君次第だよ」
デスクに座っている壮年の男性は、わざとらしく意地の悪い笑顔を浮かべている。
「マリア。一年前に君が突然辞めたいと連絡を電話一本で済ませようとした時は、正直手放したくはなかった。君は非常に優秀な社員だったからだ。だが、今、君が座っていた椅子には別の誰かが座っている」
男はマリアを一瞥し、にやりと笑う。
「新しい椅子を得られるかどうかは、君次第だ」
「はい。ご期待に応えて見せます」
頷いて見せるマリアに鷹揚に応えて見せたのは、アントニオ・ガゼット。一年前までマリアがつとめていた会社の社長であり、かつてのマリアの直属の上司だった。
こうして彼と連絡が取れたことを、マリアは神に感謝していた。仕事も家も失っていたマリアにとって、この伝手は生死を分かつ細い糸だったのだ。
一年前、ルカリオに言われるがままに仕事を辞めた。しかも電話一本でアントニオに辞意を伝えたのだ。一方的な退職は会社に少なからずの損害を出しただろう。
だから、今さら図々しくも再就職を願い出たマリアに、何か痛烈な言葉がかけられることは覚悟していた。それでも、生きるためには我慢せねばならない道だった。
だというのに、アントニオはちくりと嫌みを混ぜつつも、それ以上の言葉を浴びせかけることなく再就職のチャンスをマリアに提示してくれた。
「それにしても、君がシングルマザーになるとはね。我が社の育児補助制度が助けになればいいが」
ため息混じりに呟くアントニオは、もしかしたら嘆かわしいと思っているのかも知れない。そう思いながらマリアは、ゆっくりと微笑んでみせる。
「問題点があれば、改善案を提出させていただきますわ」
「そうだな。企画書を提出してくれ」
ひとしきり笑うと、アントニオに一礼して社長室を出たマリアは、ホっと息を吐いて全身から力を抜いた。一年前に通っていたオフィスは今も騒がしい。明日からは、マリアもまたここで働くことができる。
当面は試用期間として、アントニオが提示するだろう難問に挑戦させられるだろう。だがそれをクリアできれば、再び正社員としての雇用を得ることができる。少なくとも、収入面での心配は減る。
オフィスビルを出たマリアは、そっと自分の下腹部に触れた。そこはまだ見た目にはなんの変化もないように見える。けれど、そこには小さな命が宿っているのだ。
ここに赤ちゃんがいる。その認識は現在のマリアにとっては、励みになっていた。
海を渡り自分の国へと帰ってきたマリアは、ルカリオと過ごした一年間を悪夢だと思うようになっていた。
あの夜。ルカリオのボディガードによってマンションの外へ放り出された後、霧が出てきて人気のなくなった道をトボトボと歩きながら、マリアは一夜が明かせるホテルを探して歩き回った。
ルカリオの怒りの原因が理解できなかったマリアは、ひとまず時間をおいてから再び話し合おうと考えていた。だからこそ、宿を求めてホテルを回ったのだ。
だが、どんな冗談かどのフロントでも満室だと断られたのだ。時間も時間だったのだろう。フロントのすげない断りに呆然したマリアだったが、食い下がった結果、一件のボロホテルのリネン室で夜を明かすことができた。
翌朝、マリアはルカリオに連絡を取ろうと電話をかけたが、まったく出る気配がなかった。それどころか数回かけた後、突如マリアの携帯電話は使用不能になってしまった。
契約が解除されてしまったらしい、という事実を知ってマリアは呆然となった。
彼女が使っていた携帯電話は、ルカリオと出会う以前から使っていたものだ。つまり、マリアの名前で契約され、マリアのお金で維持されている物なのだ。
つまり、本来ならばルカリオからどうこう出来るはずのない物が、どうこうされてしまったのである。
本来の契約者であるマリアを素通りして、アジャーニ家の権力と財力でもってマリアの権利を侵害した。これまでのマリアが抱いていた、少しばかり強引で我が侭だが優しい恋人というルカリオという人物像にヒビが入ったのは、この瞬間だった。
彼の傲慢さが好きだった。それはアジャーニという富豪一族に産まれ育った特権階級が持つ証にも見えたからだ。その傲慢さが、自分自身に対しては親愛の情の表現として向けられる間は、強引だがそれもまた男らしい魅力に見えていたのだ。
けれど今、その傲慢さはマリアを傷つける剣として振るわれている。
ルカリオがなぜ、マリアが浮気したなどという誤解をしているのかは理解できない。マリアが彼以外の男性と寝たという虚構を真実と思い込み、彼女を排除しようとしている。
彼のホームグラウンドであるこの国では、マリアはその存在すらも否定されるだろう。
もしかしたらホテルに泊まれなかったこととて、ルカリオが手を回した結果なのかも知れない。
そう思った瞬間、マリアはルカリオ・アジャーニという男性が、心底から恐ろしくなった。
彼はもしかしたら自分のお腹の子供を否定するあまり、その命すらも奪おうとしているのかも知れない。
連絡を取ろうという気力はすでになかった。空港に向かい、なるべく早い便を押さえて帰国する。それだけを考えて、マリアは空港へと向かった。
一年間の蜜月を過ごした国を、マリアは逃げ出すように――いいや。まさに逃げ出したのだった。