#36
#37と同時投稿です。
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目の前に立っている男の存在が信じられず、マリアはまばたきを繰り返した。
それでも目の前の幻影は消え去る事はなく、ならばこれは現実なのだろうと了解した。
「……久しぶりだな、マリア」
憔悴しきった様子のルカリオに苛立ちすら覚える。彼は、何を考えて自分の前に顔を出せたというのか。だからこそ、マリアの声には険が混じった。
「五年ぶりね。なにか用かしら、ルカリオ・アジャーニ」
「話がある。……中に入れてくれないか」
頷かなければ、テコでも動かない。そんな様子が見て取れて、マリアはさっさと話しを終わらせようと決めた。
「どうぞ? でも話は早めに済ませてちょうだい。私、もうすぐ仕事だから」
「……お邪魔する」
チェーンを外し、彼を室内に招き入れる。
のろのろと部屋に入ってくるルカリオに苛立ちながら、マリアは手早く化粧を終わらせようと鏡台の前に座った。ルカリオは何もないガランとした居間の中心で立ち尽くしているようだったが、気にしない事にする。
「それで? 一体なんの用かしら」
「マリア。僕の――僕たちの子供はどうしているんだ」
「は?」
「教えてくれ、マリア。あの子は――ジョシュアは、どこにいるんだ?」
「なにを言っているの、あなた」
マリアには理解できなかった。
ジョシュアの存在を気にする程度ならば、まだ理解もできよう。だがルカリオはなんと言った。
僕“たち”の子供。言うに事欠いて、彼はそう言ったのだ。
マリアの顔が強ばっているのに気付く様子もなく、ルカリオは弱々しい声を重ねる。
だが、そんなものはマリアの心を毛筋ほども揺らさない。
今、マリアの中にあるのは怒りと苛立ち。そのどちらもが、理解できないルカリオの言葉に向けられている。
「頼む、教えてくれ……。僕たちの子供は、どこにいるんだ? ここに居るのか?」
「――話が分からないわ、ルカリオ・アジャーニ。僕“たち”の子供、って一体なんのこと?」
そう。ルカリオは一体なにを言っているのか。五年も前の事を、今、自分の目の前で口にする権利が、彼にあるはずもないのに。
「マリア。どうか、頼む」
「どこに居るも何も。ルカリオ。『僕たちの子供』なんて、この世のどこにも居ないわ」
縋るような顔で自分を見上げた男を一瞥し、マリアは肩をすくめてドアを指さした。
「分かったなら、早く帰ってくれない? そろそろ時間なの」
「マリア……どういう、ことだ?」
鏡越しに見たルカリオの顔色は真っ青になっていた。
五年前、傲慢にも自分を利用し、そしてあっさりと捨て去った男のそんな表情にも、マリアはまったくもって心が動かない事に嘆息する。
「だから、何がよ。どうせここに来たって事は、私のことは調べてあるんでしょう? コールガールをやっているマリア・ウォートンの身上調査なんて、もう済んでいるんでしょ? だったら分かるはずよ。ここにジョシュア・ウォートンはいないわ。『私の子供』は、もう居ないの。この世のどこにもね」
そう。ジョシュア・ウォートンは、もうこの世のどこにも存在しない。マリアの産んだ子供は、戸籍上存在しない子供なのだから。そして今は、遠い街で愛してくれる家族の下で暮らしている。今もきっと、あの可愛らしい少女と遊んでいる。
そう信じられるからこそ、マリアはここでルカリオの希望の全てを断ち切った。
「大体、五年も経ってから一体なんの冗談なのかしら」
「マリア……」
「ねえ、ミスター・アジャーニ。私はこの五年間、泥を啜るようにして生きてきたわ。この街で一人で。ねえ、ミスター・パーフェクト? あなたのご結婚のニュースも見たわ。素晴らしい結婚式だったわね。あんな綺麗な教会で、誰からも祝福されて。あの子は何一つ与えられなかった。名前すら、アンジェロが与えてくれた物だわ。あなたからは何一つ貰わなかった。ああ、種くらいは貰ったけれど、それすらもあなたは否定したの。だったら――」
マリアの瞳の色が濃くなる。ようやく凍り付いていた心が、熱を持つ。
「あなたの子供なんて、この世のどこに存在したというの? あなたはあの子を捨てた。いいえ、最初から受け取ろうとすらしていなかった。だからあの子は、もうこの世のどこにもいないの」
呆然としたルカリオが、その場に膝を突く。
そして突然、マリアに向けて土下座した。
「すまない。すまないマリア。僕は――僕は」
「今さら謝られても遅いわ。そして私には、あなたの謝罪も言い訳も聞く気は無いの。ねえ、そろそろ帰って下さらない? 私、もう仕事に行く時間なの」
「僕は子供ができない身体だと思っていたんだ!」
突然叫んだルカリオに、マリアは思わず言葉を飲み込んでしまった。
「サンドラが――彼女が言ったんだ。僕は若い頃に彼女と結婚したかった。どうしてもだ。だから彼女と避妊具を使わないセックスをして――けれど、子供はまったくできなかった。だから、医者にかかって」
さらに自分の言葉を聞くことなく、ただひたすらに懺悔するルカリオに、マリアは眉をしかめた。どうやら最後まで話さないと帰るつもりも無いらしい。そう思い、黙って聞き流す。
「そこでサンドラが僕に言ったんだ。僕の精子は女性を妊娠させる能力がない、と」
「彼女が診断書を偽造したってこと?」
「違う。僕は……それを見る事すらしなかった。サンドラが笑って僕の男性としての能力を嘲笑って去った後、それを封筒から出す事すらせずに焼き捨てた」
なんだそれは。
マリアは思わずそう思い、鏡越しにルカリオを見る。
「あなた、診断書は見ていないっていうの? それなのに、自分の生殖能力の問題があると信じ込んだっていうの?」
「僕は認めたくなかったんだ……。これは男としてのプライドの問題だった! この僕が! ルカリオ・アジャーニが、男として損なわれているだなんて、認められなかったんだ!」
叫ぶルカリオに、マリアは嘆息する。
「けれど、真実は違ったのでしょう? あなたには女性を妊娠させる事ができた」
「……ああ。その通り、だ。サンドラが嘘をついていた。彼女は、当時の僕と結婚するつもりが無かったんだ。モデルとして旬の時期だった。彼女は社交界で男達にもっとチヤホヤされたがっていた」
「ふうん。それで?」
「……君が妊娠したと言った時、僕は君が裏切ったのだと思った。君の裏切りが許せなかった。僕は君を愛していたから!」
「――へえ」
マリアの冷ややかな声と細めた目に気付くことなく、ルカリオは懺悔を続ける。
「僕は女性を妊娠させる事ができない。だが君は妊娠した。なら、それは別の男と君がセックスをしたという証拠以外の何者でもない……。僕は、そう考えたんだ」
だから、自分を夜の街に放り出したというのか。そして一顧だにせず、憎んだのか。自分のプライドとやらを守るために。彼の言う愛とやらは、その程度のものだったのか。
「アンジェロがひ孫を求めていた。彼は病気でもう長くはなかった。僕は尊敬する祖父のために、彼の望みを叶えたかった。だが僕の子供は望めない。僕はそう信じ込んでいた。だから」
「だから、私を利用した? 一度は捨てた私を丸め込み、結婚したと思わせてマンションに放りこんで、子供が生まれるまでの間だけ、かりそめの結婚生活を送った?」
「……そう、だ」
「それで? アンジェロが死んだから、お役ご免とばかりに私たちを捨てた訳? お見事ね。素晴らしいわ! それほどに、あなたは私を罰したかったのね。その辺の路地で野垂れ死にすればいいと思うほどに!」
「ち、違う! 僕はそんなことは……!」
「それで? 五年も経って、どうして今さら真実に気がついたの?」
狼狽えたルカリオを気にせず、マリアはただ話の先を促した。
「……アンジェロの遺品の整理をしていたんだ。そこで、病院からの資料を見つけた」
「ふうん?」
「……ジョシュアとアンジェロのDNA鑑定の結果報告書だった」
「ああ。そういえば、そんなのもしたわね」
家を追い出された時から、マリアはもうそんな物の存在は頭から放り出していたのだ。アジャーニという全てが煩わしかった。例外はアンジェロと、彼の屋敷で働いていた使用人達だろう。生きていく事に必死で、それすらも記憶の奥底に沈み込んでいたが。
「二人は、とても近しい血縁者であると報告されていた。僕は……それを読んで……病院で検査を受けたんだ」
その結果は、マリアには簡単に予想ができた。
「検査の結果……僕の生殖能力に問題はない、とされた。サンドラをすぐに問い詰めた。だが彼女は――笑っていた。あの頃の他愛ないジョークだった、と。まさかまだ信じていただなんて、と」
「……そう」
彼女が真実、そう思っているなどとは、二人とも考えていなかった。
だがその嘘のせいでマリアの人生は大きく狂わされた。それだけは間違いない。
「――それで?」
「え……?」
呆然とルカリオが顔を上げる。それを見ながら、マリアは首を傾げてみせた。
「それで? あなたの懺悔は聞いたわ。じゃあ、お話は終わりでしょう?」
「ま……マリア?」
「まだ何か、言うことがあるのかしら」
跪いたままのルカリオを見下ろし、マリアは微笑んでみせる。
彼の懺悔も、言い訳も。その全てに興味は無かった。ああ、確かに胸にわだかまっていた気持ち悪さは消えただろう。なぜルカリオが、ああも頑迷に自分の言葉を信じなかったのか。その理由は分かった。だが、それだけだ。
それが分かったからといって、マリアの人生が突然変わる訳ではない。ジョシュアはいないし、自分は今晩、客のベッドで汗だくになる。そんな日常に変わりはない。
「僕は……君に……君に酷いことをしたと思い知らされたんだ」
「そうね」
淡々と首肯して見せれば、ルカリオの顔が強ばるのが見て取れる。
「だからね、ルカリオ・アジャーニ。それで何が言いたいのかと聞いてるのよ、私は」
「謝って……ジョシュアを、息子と君を……その……家に迎えたい、と……そう思って……。もちろん君が許してくれるならだが、一緒に暮らしたいと……」
その言葉に、マリアは思わず笑ってしまった。
ククッと喉が鳴り、我慢できずに肩を揺らす。
許してくれるなら一緒に暮らしたい。これまでの償いがしたい。
ルカリオの言葉があまりに愉快で、マリアは身体を震わせ続ける。
「フ、フフッ。ねえ、ルカリオ。本気でそんなことを言っているの?」
「ぼ、僕は本気だ! 君にひどい事をしたとは思ってる。だが、僕だってサンドラに騙されていたんだ! マリア、君なら分かってくれるだろう!?」
「――私なら? ねえ、なぜ私なら理解してくれると思うの? あなたは、私の言葉を何一つ信じなかった。何一つ私を守ることなく、あなたは私を捨てたの。ねえ、ルカリオ・アジャーニ。どうしてそんな私が、あなたを信じてあげられると思って?」
マリアの声は冷え切っていた。
心も冷え切っていた。そもそも心が動くはずもない。マリアの心は、ジョシュアの小さな手を自ら放した瞬間から凍えきり、壊れていたのだから。
夜毎、男達とセックスをして金を得る。そんな生活を送れたのも、きっとそのおかげだ。
心という物が、すでにその本来の姿を失っているのだから、心が痛む事もない。
「帰りなさい、ルカリオ・アジャーニ。そして二度と私の前にそのツラを見せないで。ねえ、私があなたを殺さないでいられるとどうして信じていられるの? そのツラに鉛玉をぶち込まないでいられるのは、私が冷静であろうと思っているからなのよ?」
仕事柄、銃を持つ事には慣れている。高級官僚相手が主とはいえ、いや、むしろそのせいか妙な性癖の持ち主は多いのだ。身体に傷をつけられでもしたら、困るのはマリアと仲介業者である。
自衛のためにハンドバッグにデリンジャーが入っているし、今も引き出しの中にも銃が入っている。
「さよなら、ルカリオ。後悔を抱きながら生きていくのね」
「マリア……」
おずおずと立ち上がったルカリオが、ふらふらと後ずさって部屋を出て行くのを見送り、マリアは笑った。
嗤う以外になにができただろう。ルカリオのせいで泣くのは止めた。ならば、あとは笑う以外にないだろう。怒りも絶望も、すでに通り過ぎた感情に過ぎないのだから。
その半年後、ルカリオ・アジャーニが離婚を申し立て、その妻サンドラとの調停が泥仕合と化したとゴシップニュースが嬉々として報じたのを、マリアは小耳に挟んだ。
サンドラは妊娠中であり、これはルカリオの子供であると主張したという。ルカリオは当初はそれを否定したが、後にそれを受け入れた。
裁判は数年に渡って続き、最終的には彼の財産の半分を慰謝料としてサンドラへ譲り、さらにはサンドラが産んだ子供の親権がルカリオへ渡されて決着がついた。
けれどマリアはそれを何とも思う事もなく、淡々とやり過ごしたのだった。
◇
ルカリオ・アジャーニの晩年は、ひどく寂しいものとなった。金銭的にはアジャーニの総帥として満たされていたが、家族運には見放されていたとされる。
離婚調停で揉めた末に財産の半分を分けた元妻は、その後も社交界で浮き名を流し続けた。
離婚調停中に彼女が産みルカリオに押しつけた『息子』は、薬物や犯罪に何度となく手を出して官憲の世話になり続け、スキャンダルを垂れ流し続けた。
アジャーニの総帥の座も親族に引き継がれた。ルカリオの息子は、不適格と全員から見なされていたのである。
彼の死は、アジャーニの元総帥として悼まれた。だが彼を個人的に悼む者は、ほとんど居なかったとされる。多くは彼の金を目当てに集まった『親類』であり、彼の死を心待ちにする者達ばかりであった。