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地下鉄を使って二駅離れた郵便局から帰ったマリアは、薄汚れた階段をゆっくりと登ると粗末な鍵を開けて、自宅へと帰ってきた。
ダウンタウンの古びたアパートは、家賃の安さと引き替えに物騒でスリリングな周辺環境を提供してくれる。初めてここに来たときは見知らぬ土地だったが、五年も暮らせば顔見知りも増え、馴染みの店もできた。
それに『職場』に近いこともあって、マリアはこの部屋を離れるつもりはなかった。
寝室に入ると、引き出しの二重底にしてある下から一冊のアルバムを取り出す。手紙を開いて、中に収められていた写真を取りだし、一枚一枚をじっくりと眺める。
そこには大きくなった少年が写っていた。バースデイパーティーの写真だろうか。ケーキを前に得意げな顔をした少年が笑っている。その隣で、可愛らしい少女がおめかしして座っていた。彼らを囲む家族が笑っている。
それを一つ一つ、丁寧に確かめるように指先でなぞり、マリアは微笑んだ。
アルバムに丁寧に収めると、引き出しに片付ける。そして封筒は灰皿の上で火を付け、灰となっていくのをじっと眺めた。
アルバムには、五年の歳月が閉じ込められている。ジョシュアを連れて帰国したマリアは、そのキャリアを活かすことの出来る仕事に就くつもりだった。シングルマザーは今の世の中では特段珍しいものではない。仕事さえあれば、母子二人で生きていくことは可能なはずだった。
だが、それが無理だと知れたのは、随分と早い時期のことだ。なぜかマリアは、自身のキャリアを活かす仕事に就くことができなかった。一度は好感触な反応を得ても、帰宅した頃には面接先の会社から断りの電話が入っていた。
理由はなんとなく想像がついた。恐らくは彼女の経歴に、アジャーニからの圧力がかかっているのだろう。そう考えたマリアは、親友のリズや、かつてのボスのアントニオに助けを求めることを諦めた。もしも彼らを巻き込んでしまったなら、マリアは悔やんでも悔やみきれない。
それゆえに彼らとは五年間、一度も連絡を取っていない。故郷にも帰らず、大都市の片隅で息を潜めるようにして暮らしている。
そして、ジョシュアを養子に迎えてくれたクランベル夫妻にも、マリアからは一度として接触を図ったことは無かった。正確にはクランベル家のある土地に、近づく事すらもしていないのである。
これもまた、いつかアジャーニがジョシュアを奪い取ろうとする可能性を考えた末に、苦渋の決断を下したものだった。マリアには、ジョシュアを守り抜く自信が無かった。たった一人、しかも定職に就く事すらも危うい女と、アジャーニという大企業では戦う前から結果は分かったも同然だ。ならば――マリアの元に居なければ良い。
幸いというべきか、マリア・ウォートンの戸籍には結婚歴は存在しない。そして出産は海外で行われた。つまり、帰国した時点でジョシュアの戸籍は宙に浮いた状態だったのだ。それをマリアは利用した。
ドメスティック・バイオレンスから女性を保護する団体を通じ、マリアは養子を求める夫婦を探した。そこで見つけたクランベル夫妻の元に自分で訪れ、全ての手続きを済ませた。
だから戸籍上、ジョシュアはクランベル夫妻の実子として登録されているのである。
これでアジャーニがどれほど追い求めようとしたとしても、クランベル家まで辿り着く可能性は限りなく低い。
マリアは、徹底した。ルカリオが何をするか分からないと、五年前に思い知らされたのだ。だからこそ、ありとあらゆる可能性を彼女は想定した。
そんな彼女が、ルカリオが結婚したというニュースを見たのは、彼の国を放り出されて一年ほど経った頃のことだった。
ニュースでは、有名な教会で上げられた盛大な結婚式が報じられていた。司祭の前で白い礼服姿のルカリオと、美しいドレスを身にまとったサンドラ・イルケの結婚を、リポーターは興奮気味にマイクに向けて報じていた。
元公妃と、巨大財閥の総帥のロマンス。彼らはそう言って、サンドラの指や首を飾る宝飾品の価値やドレスのデザインについて論評した。
アンジェロの喪が明けてすぐに行われた結婚式は、アジャーニという企業グループの新たな発展を予感させるのには十分であり、現在もアジャーニグループは揺るぎなく世界に君臨している。
だがそんなニュースを見ても、マリアの心は最早一片たりと動く事はなかった。痛みもしない。怒りも湧き上がらない。どこか遠い世界のニュースや、映画のようにマリアはそれを眺めたのだった。
◇
「……ハイ?」
携帯電話の振動に気付き、物思いから浮上したマリアはそれを耳に当てた。
「……ええ。分かったわ。ヒルトンに20時ね? ……ええ。金払いは良さそうね」
電話の向こうからは彼女の今夜の仕事場を伝える言葉が聞こえる。それに答え、マリアはメモ帳に素早く電話番号を書き記す。
マリアは高級官僚や上流階級を相手にする高級コールガールとなっていた。
まっとうな道では生きていく事すらできないと知り、ジョシュアを手放した。そしてそれが、マリアの中にあった最後の道徳観を打ち砕いたのだ。堕ちるところまで堕ちてしまえ。そう思ったのかも知れない。子供一人守ることができない自分に絶望したのかも知れない。
マリアは幸いにして、優れた知識と美しい外見を兼ね備えていた。
この五年で築き上げた人脈は、かなりの物となっている。彼女が望めば、パトロンとなってくれる男も多いだろう。実際、コールガールを辞めて自分の愛人にならないか、とベッドで囁かれる事もある。だがマリアはそれに頷くつもりはなかった。
収入の多くを孤児や貧しい母子・父子家庭のための基金へ寄付しているのも、コールガールを始めた頃に住んだアパートに今も住むのも、マリア自身も意識しない贖罪のためなのか。
確かなことは、今夜も彼女は誰かのベッドを暖めるという事だけだ。
そんなマリアの家のドアがノックされる。そしてマリアは、自分と子供を捨てた男と再会することとなる―――。