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「ジョシュ!」
隣に住んでいるアメリア・フェネットの弾けるような声に、ジョシュア・クランベルは顔を上げた。
手に持っていた図鑑と、庭に咲いていた見た事のない花を見比べていた彼を頭上から見下ろすアメリアは、くるくると巻いたブルネットの髪を風に揺らしている。その癖ッ毛をアメリアが嫌っているのを知っている(彼女は姉のリサのような癖のないストレートヘアに憧れているのだ)が、ジョシュアはアメリアのそんなクルクルの髪の毛が隙だった。
「なにやってるの?」
「図鑑と見比べてた。これ、見た事のない花だから」
彼が指さした花を見て、アメリアも一緒に図鑑を覗き込んでくる。すぐ隣にぴったりとくっついた幼なじみの少女に、ジョシュアは少しだけドキリとする。それと同時に鼻を鳴らす。
「甘いにおいがする」
「ママと一緒にケーキを焼いてたの」
「マドレーヌ?」
「うん。あとで一緒に食べましょ?」
アメリアの誘いに頷き返し、ジョシュアは図鑑のページをめくる。父が買い与えてくれた百科事典は、ジョシュアの宝物だ。見た事のない異国の植物や風俗が描かれたそれは、ジョシュアにまだ見ぬ世界を想像させてくれる。
「……これじゃない?」
アメリアがあるページを指で止める。
「どれ? ……なんだか形が少し違わない?」
「そう? 一緒に見えるけど」
色や花の形は確かに似ているが、がくの形状が違うようにも見える。個体差という奴かも知れないが、ジョシュアには判断がつかない。
「……パパに聞いてみよう」
著名な学者であり、とある有名大学の教授である父に聞くことを決めると、ジョシュアは図鑑をぱたりと閉じた。それを合図と知っているアメリアが、ぱっと立ち上がってジョシュアの手を引く。
「じゃあ、遊びに行きましょ!」
「うん。あ、でも待って。これを置いてくるから」
手にした図鑑を掲げ、ジョシュアは駆け足で自宅へと飛び込む。
「ママ! アメリアと遊びに行ってくる!」
「気をつけてね」
ダイニングで書き物をしていたらしい母が、ジョシュアを見送るために出てくる。そんな母に頷き返し、アメリアの元へと走って戻る。
ジョシュア・クランベルにとって、両親は尊敬する存在であり、幼なじみは少々口うるさいが可愛らしく守るべき存在であり、世界は光に満ちたものだった。
◇
ヘレン・クランベルは息子がお隣のガールフレンドと連れだって庭を出て行くのを見送り、ダイニングへと戻った。テーブルの上に置かれた数葉の写真。それはいずれも、彼女の愛息を写したスナップ写真だった。つい先日、誕生日を迎えたばかりの彼のパーティーの様子を写したものだ。主役のジョシュアだけでなく、クランベル夫妻やフェネット一家の姿も写っている。それだけでなく、日頃からヘレンたちが撮っている家族のスナップ写真から、いくつかが選び出され封筒へと入れられるのを待っていた。
ヘレンはそれを一枚一枚確かめ、封筒にまとめて入れる。便せんもメッセージカードも入れずに封をすると、宛名をさらさらと書き入れた。
返信用のアドレスは書き入れない。それを書く事は、相手から固く禁じられていた。
「五年目、か……」
ヘレンは小さく呟く。封筒を持って郵便局へ行くついでに、少しばかり買い物をしてこようと考え、ハンドバッグを手に取るのだった。
その手紙は毎年、ジョシュアの誕生日の数日後に送られた。宛先はとある大都市の郵便局の私書箱宛になっており、そこから先ではどうなっているかは分からない。
これはクランベル夫妻にとって、履行すべき唯一の契約事項であり、何よりも守るべき約束だった。
五年前、不妊治療の甲斐なく妊娠することのできなかったクランベル夫妻は、とてもギスギスした空気を家庭内に漂わせていた。お互いが悪いわけではないと分かっていても、毎月生理がくるたびに夫も自分も落胆する。そのたびに、何か澱みのようなものが二人の間に堆積していくのを感じていたのだ。
そんなある日、一人の女性がヘレンのかかっていた産婦人科の医師の紹介で、クランベル家を訪れたのである。
女性はその腕に小さな赤ん坊を抱いていた。
そして彼女がクランベル家を辞した時、その手には赤ん坊は抱かれていなかった。
不妊に悩む夫婦が養子をとることは、この国では別に珍しいことではない。ヘレンも、その夫であるリチャードも、お互いに自分を責めることに疲れていたのだろう。その女性が望んだ契約事項が少々風変わりであったのだとしても、彼らはそれを受け入れた。
一年に一度、女性が指定した宛先へ、子供の写真を送付すること。
女性からは決して真相を明かすことはしない。子供に近づくこともしない。彼女が持つ親権の全てはクランベル夫妻へ移譲される。
それだけである。
宛先は最初に一度だけ、手紙が届いた。確認後は破棄するように、との言葉と共に、私書箱の番号が書かれていた。
それ以後、女性からの連絡は無い。ジョシュアが養子である事を、本人に教えるかどうかも、クランベル夫妻に一任されている。
自分の名すらも、本来ならば名乗るべきではないのだろう、とその女性は言った。女性の名はマリア・ウォートン。子供の名前はジョシュアといった。
クランベル家を辞する前、マリアは一度だけ、ジョシュアを抱きしめた。その姿は離れがたい何かを、無理矢理に引きはがしているように見えて、思わずヘレンは考え直すことを勧めてしまったほどだ。
だがマリアは疲れ切った顔で、首を横に振るだけだった。
そして、それから五年の月日が過ぎたのである。
クランベル夫妻は約束を守り、一年に一度、ジョシュアの写真を指定された宛先へ送っている。ジョシュアが幸福に育っているのだと、せめてそれだけでも知らせたいと願っているからだ。それによって彼女が傷つく事も想像はできる。けれども――せめて、あの傷つき、疲れ切った女性に救いあれと願っていた。
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