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マリアは眼前が暗くなっていた。
目の前に立つ男の言葉が理解できない。
「よろしいですか? ミス・ウォートン。ミスター・アジャーニは、こう仰っています。『あなたと婚姻関係にあった事実はない』、と」
髪を神経質なまでに撫でつけて、広い額をあらわにした眼鏡の男。きっちりネクタイをしめたスーツ姿には、隙はない。
「どういう……意味ですか」
「ですから、先ほどから申し上げています。あなたがこのマンションを退去するのは、三日後までとさせていただいています。これはミスター・アジャーニの寛大な処置によるものです。乳飲み子を抱えて今日明日に出て行けと言わない彼の温情に感謝されるべきかと」
「待って下さい。私は――私とルカリオは、結婚しています! それがなぜ、ここを出て行かなくてはならないんです!?」
アンジェロの葬儀を翌日に控えた夜。マリアはマンションへと帰されていた。屋敷は人が行き来していて、確かに乳飲み子を抱えたマリアは邪魔でしかないだろう。だから、その指示には大人しく従った。
だが、その後にマンションを訪れたルカリオの弁護士だという男性が、マリアを呆然とさせる言葉を吐いたのだった。
三日以内に、このマンションを出て行け。
言葉を色々と飾ったが、結局のところ言いたいことは、それに集約された。
「結婚? おかしな事を仰る。あなたとルカリオ・アジャーニの間にそのような関係はありません。これは法的にも確認されています」
「そんな……! 登記所で書類を提出したはずです!」
「そのような書類は提出されていません。これは、法律の専門家として、私が責任を持って言えることです。ルカリオ・アジャーニは独身です。これまでも、これからも」
男の怜悧な言葉にマリアは呆然とするしかない。
自分がルカリオの妻ではない? そんなはずはない。確かにこの一年近く、自分はそういう存在として扱われていたはず、だ。
「……失礼ですが、ルカリオ・アジャーニが結婚したなどというニュースは聞いた事がありません。あなたは、ご自分の妄想にとりつかれているのではありませんか?」
「妄想……? そんなはずはありません! だったら、ジョシュアは、あの子はなんだというんですか!」
マリアの叫びに、弁護士は眉一つ動かさない。ちらりとマリアの腕の中のジョシュアを一瞥し、眼鏡のフレームを人差し指で押し上げる。
「――ミスター・アジャーニは、ご自分の子供ではない、と仰っています」
「そんな……それを信じるというんですか!?」
「あなたの言葉には、何一つ証拠がありません。あなたはルカリオ・アジャーニの妻だとおっしゃる。だが私の手にある登記所の書類にはルカリオの妻の欄は空欄のままです」
そして、と続けられる言葉が、マリアの身体を縛り付ける。
「――そのような虚言を吐く人間の言葉と、アジャーニの総帥であるルカリオの言葉と、どちらが信頼をおけると思いますか?」
「虚言なんかじゃ……嘘なんかじゃありません!」
叫ぶマリアを一瞥して、弁護士は肩をすくめて見せた。
「虚言癖が無いのであれば、妄想癖があると考えられます。いい精神科を知っています。ご紹介しましょうか?」
「私は嘘をついているのでもなければ、現実と夢の区別が付かなくなっているわけでもありません! 確かに私は彼と結婚したし――」
「ですから。何度も申し上げる通り、そのような法的な事実は存在しません。あなたとルカリオが恋人であった事は確かなようです。が、この半年ほどの間は、彼はこの部屋へほとんど訪れていないというではありませんか」
「――ッ」
「それにあなたがこの国に入国した時、すでに妊娠していたとも聞いています。……失礼ですが、その子供は別人の子供なのでは? ルカリオは子供との血縁関係を否定しています」
「そんな……そんなの嘘よ!」
「……では、三日以内に立ち退いていただけますよう、お願いいたします。立ち退いていただけない場合、法的な処置を執行させていただく事になります。そのような不幸な事にはならないよう、お考え下さい」
弁護士は書類を鞄にまとめて放り込むと、ソファから立ち上がる。
目の前で呆然としたまま、赤ん坊を抱きかかえた女性を一瞥する。
「ああ。それと」
「……?」
怪訝そうに顔を上げたマリアを見下ろし、弁護士は最後の通告を言い渡す。
「――あなたはアンジェロ・アジャーニの葬儀へ出席はできません。もしも会場へ現れたなら、ガードマンによって速やかに排除されます。ご理解下さい」
「ま……待って下さい! どういう事ですか、それは!」
「ミスタ・アジャーニからの通告です」
「そんな……アンジェロの、義理の祖父の葬儀に立ち会うな、と?」
はい、と頷く弁護士にマリアは今度こそ目の前が真っ暗になった気がした。
アンジェロはマリアにとって、もう一人の祖父だった。
妊娠中、色々なことを教えてくれた。その軽妙洒脱な話術で、沈みがちだったマリアを何度となく笑わせてくれたのだ。
その彼の葬儀に出席するな?
彼がその誕生を楽しみにし、名付け親となってくれた彼の死を、自分とジョシュアに見送るな?
ルカリオは、本気で自分を排除しようとしている。それを実感し、身震いが止まらなくなった。腕の中で眠るジョシュアだけが、まるで現実のように感じられる。
「……ルカリオ」
携帯電話を取りだし、すぐさま彼へと電話をかける。
だが聞こえてくるのは、無情な呼び出し音だけだ。
「――どうして!」
知らず叫んだ瞬間、ジョシュアが身動ぎして泣き出す。
慌てて腕の中の赤ん坊をあやしながら、マリアはもう一度「どうして」と呟いていた。
答えは分かっている。彼は始めからこうするつもりだったのだ。結婚式を挙げなかったのも、登記所で書類だけを提出して済ませたのも。そしてそれすらも、フェイクだった。そういう事なのか。
「……ならば、私は」
ただアンジェロに心穏やかに死出の旅立ちに送るためだけに用意された、偽物の妻。
ふざけている。ふざけ過ぎている。どこまで――どこまで人を馬鹿にすれば良いというのか。
アンジェロの死を見送る事はできないだろう。救いは、彼の死に目に立ち会えた事だけ。そう。あの場で彼を見送れたのならば――埋葬の現場に立ち会う必要は無いのかも知れない。
マリアの胸中に湧くのは怒り。そして悲しみ。結局のところ、彼は最後までマリアを信じてはいなかったのだ。妻という立場を与えてすらいなかった。彼は徹頭徹尾、ジョシュアが他人との間の子供だと決めつけていたのだ。一考の余地なく、ルカリオは自分の思う通りにした。そして利用した。ただただ、彼の敬愛する祖父の心残りをなくすためだけに。
マリアはふらりと立ち上がると、腕の中の子供をベビーベッドに一度寝かせると、自室へと戻る。そして十分ほどでまた居間へ戻ってきた。
その手にはスーツケースが一つ。かつて彼女が使っていたものだ。
「行きましょう、ジョシュア。……ごめんね」
赤ちゃんを抱き上げると、マリアは部屋を出て行く。
その間、マリアが振り返る事は一度も無かった。