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退院して一週間も経たないが、マリアは再びジョシュアを連れて屋敷を訪れていた。それはルカリオからの電話のためだった。
「……アンジェロ」
ベッドの上で呼吸器をつけられた状態で横たわる老人。闊達なジョークを飛ばした老人は、その生命の火を弱めている。
医師が傍で見守っている中、マリアは彼の傍に座る。膝の上に抱いたジョシュアは、周囲の重苦しい空気など物ともせず、あちこちを見ていた。
「マリア……か……」
彼と笑いあったのは、ほんの数日前のことだった。だが今や、アンジェロは身体を起こす事すらできないほど衰弱していた。
「どうか気を確かに。大丈夫、すぐに良くなります」
節くれ立った手を握り、マリアは努めて明るい声を出した。
「それにほら。ジョシュアと遊びに行く約束だって……」
「マリア。無理をしなくても良い……。自分の身体のことだ。大体のことは、わかる」
「そんなこと……!」
「ルカリオ」
マリアの背後に立っていたルカリオが、ベッド傍に膝をつく。
「お爺さま」
「……曾孫の顔を見ることができた。嬉しいよ、私の孫よ」
もう片方の手をルカリオに延ばそうとする。それを握りしめ、ルカリオもまた強ばった表情を祖父へと向けた。
ルカリオにもマリアにも分かっていた。
アンジェロの命は、もう長くはない。もうすぐ彼は昏睡するだろう。医師もまた、事前に二人にそれを伝えていた。
元々、マリアが現れてからの彼の快復ぶりこそが奇跡だったのだ。
それはひ孫を見たいという執念にも似た願いが可能にした奇跡だったのだろう。そしてその願いは叶った。ならば――その終焉もまた、訪れることは不可避だ。
「ルカリオ……」
アンジェロにとって、ルカリオは自慢の孫だった。
息子夫婦が事故死してからは、自分の子供のように育ててきた。アジャーニの総帥としての立場があるから、良い父親とは言えなかっただろう。だがそれでも。ルカリオは次の総帥としての才覚を発揮してくれた。
唯一の問題があるとすれば、幼い頃からルカリオの周囲には、彼を利用しようとする存在が多くいた事だろう。彼はそれを見極める技術を自ずと磨き、結果、ひどく頑迷な人物になってしまった。
女性に対しても、常に一線を画していた。ただベッドを暖めるだけの存在。彼はどこかで、そんな風に考えていたのかも知れない。愛情ある家庭を作るための、大切な相棒。そう思わせる事ができなかった。
だから、マリアを妻だと紹介した時には、驚いた。
彼女はこれまでルカリオの周囲にいた女達とは、まるで違っていたから。金銭に溺れることなく、自分が立っている場所をいつも正確に把握していられる。なによりも暖かい家庭を作り出すことができる暖かさを持っていた。
子供を妊娠しているのだ、という言葉にも驚いた。
「マリアと、仲良くな……」
だが同時に、不安も感じていた。ルカリオの側にある、不可思議な冷たい空気。自分の前ではうまく隠しているが、そもそも二人が連れだって現れる事の少なさが、二人の関係の奇妙さを示していた。
だが、今。二人の間には子供が生まれた。ならばきっと――。
願うようにアンジェロは思う。
どうか、ルカリオが大切なものを大切なのだと気づけるように。
握り替えされた手の力強さを感じながら、ルカリオはマリアへ視線を向ける。
「……マリア。どうか、この孫のことを、頼む」
細く小さな手が、強く強く握り替えしてきた。
マリアは、涙を目に溢れさせながら何度も頷いている。
その膝の上で、小さなジョシュアがきょとんとした目を自分に向けていた。
それに笑いかけ、アンジェロの意識は白く混濁した世界へと埋没するのだった。
◇
「お爺さま!」
ルカリオが叫ぶ。医師が慌てて駆け寄り、祖父の容態を確認する。
「……お眠りになっているだけです。ただ……」
今夜が峠だ、と。そう告げる医師の言葉を聞きながら、ルカリオは祖父の節くれ立った手を強く握りしめる。
この手は、ルカリオにとって祖父のものであり、父のものだった。父が死んだことで一度は退いたアジャーニ総帥に再び就いた祖父の元で、彼は育ったのだから。
子供の頃は、とても大きく見えていた。その皺だらけの手が、自分を撫でるのが好きだった。
信頼するように肩に置かれた手が、とてもとても誇らしかったのを覚えている。
彼から総帥の座を譲ると言われた時も、誇らしかった。祖父に認めてもらえるように全力で走り抜けてきたのだ。そして、それに見合うだけの成果を出し続けてきた。
敬愛する祖父が、小さな老人だと感じるようになったのは、いつからだろうか。
自分の隣で、アンジェロをじっと見つめる女性。マリアは涙を流しながら、膝の上の子供を抱きしめていた。
「……今夜はここに泊まろう。マルセル。すまないが用意を」
「かしこまりました」
老執事に告げ、病室を出る。彼がいない間の仕事の指示を出しておく必要があった。
「――ルカリオ様。お茶をお持ちしましょうか?」
「ああ。すまんな。図書室にいる」
「はい」
深く頭を下げるマルセルに頷き返し、ルカリオは携帯電話を取り出すのだった。
医療機器の立てる音が耳につく。
マリアはアンジェロのベッドの傍に座ったまま、医師達と眠る義理の祖父の姿を見つめていた。
ルカリオと結婚してから、ここはずっとマリアにとって逃げ場所だった。誰も帰ってこないマンション。自分に対して距離をとり続ける夫。そして、妊娠して思うように動けない自分。
そんな何もかもを受け入れてくれたのは、アンジェロだった。彼はジョークを飛ばしてマリアを笑わせ、アジャーニの歴史を教えてくれた。アジャーニの妻として必要とされる知識を、惜しみなく分け与えてくれた。
今、そんな恩人が永遠の旅に出ようとしている。
「……アンジェロ」
膝の上でもぞりと動いたジョシュアが、眠る曾祖父に手を伸ばす。
「あなたのひいお爺さまよ。ジョシュア。……どうか、覚えていてあげて」
あなたが産まれるのを、本当に本当に、誰よりも楽しみにしていてくれたのだから。
言葉に出すことなく、それでも心の中で思う。
誰がどんなにそれを先延ばしにしたいと願ったのだとしても。
それでも、人は終焉を迎える。
アンジェロ・アジャーニが息を引き取ったのは、その日の深夜遅くの事だった。