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その日、マルセルは朝から主がそわそわと落ち着かない様子で何度も時計に目をやるのを眺めていた。だがマルセル自身もまた、常の沈着さが嘘のようにそわそわとしていた。
いや。それは彼らだけではない。この屋敷で働く使用人達が、皆、どこか浮ついた様子で今か今かと首を長くして待っているのだ。
そしてそれは、やってきた。
「……お久しぶりです。アンジェロ」
「おお、マリア! 無事でなによりだ! その子が?」
ベッドの上で満面の笑みを浮かべるアンジェロに、ドアを開けたばかりのマリアが思わず笑みを漏らす。
「お爺さま。あまり興奮されると、身体に毒ですよ」
「なんだルカリオ。お前も居たのか」
しれっと返すアンジェロに、思わず使用人達が苦い笑みを浮かべる。
ルカリオはといえば、平然とした顔で祖父に歩み寄った。
「ええ。居ますとも。今日連れてくると言ったでしょう?」
「マリアとその子が来てくれれば、それで十分だ」
「ひどいな」
クスクスと笑いながら、ルカリオはマリアへ身体を向ける。
「どうぞ。あなたの曾孫です」
そう言ってマリアが腕の中の赤ん坊を、アンジェロへと向けた。
目を開いてきょときょとと周囲を見ている赤ん坊が、目の前のアンジェロへと視線を向ける。その目に映るアンジェロの顔は蕩けきったような笑みが浮かんでいた。
「おお……。アジャーニの特徴がよく出た顔立ちをしとるな」
「ええ。髪の色や鼻の形はルカリオにそっくりです」
マリアの言葉にアンジェロも何度も頷いて見せる。
「抱いてあげて下さい」
「どれ。……ほ。懐かしいな。ルカリオもこうして抱いたものだ」
アンジェロが眦を下げて笑う。赤ん坊もそんな空気を感じたのだろう。きゃっきゃと笑った。
「ははは。良い声で笑うな、この子は」
「ありがとうございます」
微笑むマリアにアンジェロは頷き返し、マリアとルカリオへと視線を向けた。
「二人も、これで晴れて親となった訳だな。どうだね、気分は」
「正直、まだなんとも。実感が湧きません」
「……私は、身体が軽いのが慣れなくて。ずっとこの子がお腹にいたのに、もう居ないんです」
その問いにルカリオはただ肩をすくめ、マリアは自分のぺったりとなった腹部にそっと手を添えた。自分の腕の中でもぞもぞと動いては、「あー」と声を上げる赤ん坊を見下ろし、アンジェロは破顔する。
「はっはっは。その代わり、大きくなるまでは君の手の中にいるだろうて。なあ、ルカリオ?」
「……そうですね」
頷く孫をちらりと見て、ルカリオはほくそ笑んだ。
ルカリオの反応の鈍さは、産まれた子供を見た事によるものだろう。孫の中に父性が芽生えつつあるのを見てとり、アンジェロは心の中でほっと息を吐いていた。
ルカリオとマリアの間にある緊張感。そして時折見せるマリアの不安げな表情。それをずっとアンジェロは気にかけていた。二人はアンジェロに何も言わない。だが、二人の間に距離がある事は屋敷の人間が全員気がついていた。ただ、マリアがそれを見せないように振る舞っていたからこそ、屋敷の人間も気付かないふりをしていただけなのだ。
だが、今。ルカリオは確かに産まれた息子を気遣っていた。本人も無自覚なのかも知れない。だがそれでも――こうして時間をかけて行けば、二人の間の不可思議な距離も縮まるのではないか。
アンジェロはそう考えていた。
◇
「それで、お爺さま。名付け親の件ですが」
ルカリオが切り出した言葉にアンジェロは眉を上げる。ルカリオがマリアとの間にあった空気を振り払うように、唐突に口を挟んだ事が訝しかった。
「なんだ。やはり自分で付けたくなったのか?」
「いいえ。ですがいつまでも、『この子』などと呼ぶのは可哀想でしょう。名前の候補は決まっているのですか?」
「ああ。決めてある」
頷いたアンジェロは、自分の腕の中の赤子をマリアに渡し、ベッド横に置かれた引き出しから紙を取り出した。
「色々考えたがな。これが良いと思うのだ」
手渡された紙に視線を落とし、マリアは微笑んだ。
「ジョシュア……ですか」
「ああ。良い名前だろう?」
アンジェロに微笑み返し、マリアは紙をルカリオへと手渡す。
ルカリオはといえば、受け取った紙を一瞥して頷いただけだった。
「ではこの名前で届けを出さなくてはいけませんね」
「ああ。初めまして、ジョシュア。君の曾祖父だ」
にっこりとマリアの腕の中のジョシュアと名付けられたばかりの赤ん坊へ笑いかける。
きゃっきゃと笑い声を上げるジョシュアに眦を下げながら、マリアは頷いた。
「はじめまして、ジョシュア。あなたのママよ。そして……あなたのパパ」
ルカリオへジョシュアを向ける。ジョシュアが大きな目で見上げると、ルカリオはゆっくりと屈んで微笑む。
「はじめまして、ジョシュア。僕はルカリオだ」
だー、などと声を上げる赤ん坊の頭を撫で、ルカリオは立ち上がった。
「申し訳ない。僕はこれから会議があるので、もう行きます。……マリア。君はどうする? 戻るなら車で送るが?」
「……こんな時くらい、仕事を休めば良かろうに」
「海外の取引先との商談なんですよ。さすがに個人的な理由でスケジュールを動かせないでしょう?」
まったく、とアンジェロが嘆息する。それに一礼してルカリオが部屋を出て行く。
その背を見送り、振り返ったマリアはギョッとした。
アンジェロがじっと自分を見つめていたからである。
「……あの?」
「大丈夫かね? 今朝退院したばかりなのだろう?」
「あ、ええ。はい。大丈夫ですよ、アンジェロ」
苦笑いで答えるマリアを、些細な嘘も見逃さぬとばかりに、じっと見つめるアンジェロ。その視線と表情が気遣ってくれていると理解できて、マリアはもう一度「大丈夫ですよ」と繰り返した。
「なあ、マリア。なんだったら、この屋敷で暮らさないか。ベビーシッターの用意もしていないのだろう?」
「ええ。でもどうせ私、一日中家に居るわけですし」
「気晴らしの一つもできねば、ノイローゼになるぞ。うちの人間なら気にする必要はない。連中、君が来るのを楽しみにしているのだからな」
「ありがとうございます。でもしばらくは……一人で、いえ、ルカリオと二人でやってみようと思います。どうしても大変だったら……お世話になっても良いですか?」
窺うように尋ねたマリアに、アンジェロは笑顔で頷いて答えるのだった。
「――そうだ。アンジェロ。もう一つ、お願いしてもよろしいですか……?」
「なにかね?」
「……この子、ジョシュアとあなたのDNA鑑定をしたいのです」
マリアの思い詰めた顔を見つめ、アンジェロは首を傾げてみせる。
「なぜかね」
「私の妊娠は、ルカリオとの結婚前に発覚したものです。……言ってはなんですが、この子がルカリオの子ではない、などと影口を叩かれる可能性があります。ですから――」
「だったらルカリオとの親子関係の判定を行えばよかろう?」
アンジェロの言葉はもっともだ。本来ならば、マリアとてそうしたかった。
だが。
「駄目なんです。ルカリオは『そんな必要はない』と繰り返すだけで……検体の採取にも応じてくれません」
「ならば、それで良いだろう?」
「駄目なんです。この子がアジャーニの一族の血を引くのだ、と。そう科学的な根拠を与えない限り、この子を疑う人間が必ず現れます。……ですからアンジェロ。お願いします。ジョシュアとのDNA鑑定を受けてはいただけませんか……?」
必死な顔をするマリアをじっと見つめ、アンジェロは頷く事しかできなかった。
どこか鬼気迫るマリアの様子には、それだけの迫力があったのだ。
「……ありがとう、ございます」
礼を言いながらホッとしたように微笑むマリアは、どこか儚く見えたのだった。