#30
/30
マリアの退院は、出産から数日後の事だった。子供を抱きかかえたマリアは、世話になった看護師に頭を下げた。
「本当にお世話になりました、ミレルさん」
「いいのよ。これがお仕事なんだから。……それよりも、今日は旦那さん、来てないの?」
「あ、いえ。下の駐車場にいます。この後、お爺さまに会いに行く予定なので」
マリアが苦い笑みを浮かべる。ルカリオが病院を訪れたのは、あの後に一度きり。退院の日付を確認し、その日にアンジェロの屋敷を訪れると伝えに来た時だけだった。
今も、もしかしたら待っているのはルカリオではなく、彼のボディガードの誰かなのかも知れない。けれどそんな不安を、看護師に知られるのは嫌だった。
腕の中にある暖かい命。自分の子供。ルカリオとマリアの血を分けた、我が子。このぬくもりがあるだけで、マリアは心が強くなるのが分かる。恐れてはいられない。迷ってもいられない。この子を守るために、マリアは強くならねばならないのだ、と。
「では、お世話になりました」
「お気を付けて。子供はすぐに熱を出したりするので、なるべく目を離さないようにして下さいね」
「ええ。ではこれで」
マリアは肩にかけた荷物を直し、子供を抱き直す。
名前はまだ決めていない。アンジェロに名付け親になってもらえるように頼んだからだ。だからマリアは腕の中の子供を『私の太陽』と呼んでいた。
病院のエントランスを抜け、駐車場へと向かう。その途中に立っていた黒服の男がマリアへ頭を下げた。
マリアに以前ついていたボディガードの一人だと気づき、マリアも会釈を返す。
「お待ちしておりました。車を待たせております。こちらへ」
マリアを誘導しながら、男はちらりと彼女を見下ろした。
「可愛い坊ちゃんですね」
「あ……ありがとうございます」
油断なく周囲を確認しながら、けれども男は苦い笑みを浮かべていた。
「いえ。私どもがきちんと奥様に着いていれば、お一人で病院までタクシーで向かう事も無かったはずです。これは私どもの手落ち。申し訳ありませんでした」
「ま、待って下さい! 私のガード体制は……ルカリオの命令で大幅に緩められていたはずです。あなた方のせいではないでしょう?」
「いいえ。どんな理由があれ、対象を一人で歩かせた時点で、何が起こったとしてもおかしくはないのです。そこでもし奥様が襲われたとしたら、我々は職務の遂行すらできなかったでしょう。ましてや、全てが終わってからボスに報告など――我々の職務怠慢以外の何者でもない」
男は悔しそうに俯いた。
「改めて謝罪いたします。無論、我々の処分について奥様がどのように指示されようと、我々は従います」
男の顔をマリアは呆然と見上げていた。
ボディガード達は、いつだってマリアの傍にいた。それは対象を守るというよりも、対象を監視するためだという事を、マリアは気付いていた。実際、ガードするなら見えない場所から守るよりも、傍にいつでも貼り付いているほうが楽だからだ。ルカリオのガードは、そうやって行われている。だがマリアのガードは、むしろ彼女から距離を取っていた。
今、目の前で自分の言葉を待っている男も、そのうちの一人だったはずだ。彼らのリーダー役だったと記憶している。最初に引き合わされ、そういう体制でガードを行うと通告されていた。
マリアからすれば、それもやむなしと考えていた。ルカリオが自分をどう見ているのかなんて、結婚して一ヶ月もしないうちに理解をさせられていたからだ。
そしてあのサンドラという女性が現れてからは、マリアのガード体制は大幅に緩められた。その余剰人員がどこに配置されているのかなど、マリアにも想像がついた。
だが彼は、そんな扱いを受けているマリアを、奥様と呼んだ。
「……我々は、あなたこそがアジャーニの妻に相応しいと考えます」
男の言葉には真摯な響きがあった。真剣な男の顔を見上げる。
「あの……お名前、聞かせていただけますか?」
男はキョトンとした顔をして、それから苦笑した。
「ルシッドと申します。マーク・ルシッド」
「ではミスター・ルシッド。あなた方のガード体制はボスであるルカリオの指示です。あなた方は雇い主に逆らう事はできない。あなた方は職務を忠実にこなしていた。そう考えます」
腕の中の赤ん坊を抱き直しながら、マリアは微笑んだ。
「これからもよろしくお願いします」
「……了解しました」
ガードはマリアの手から荷物を受け取り、歩き出す。
本来ならばガードがそんな真似をするのは、ガードとしては自殺行為である。いざというとき、対象を守るための盾となるべき人間が余計な荷物を抱える事は、即応性を鈍らせるからだ。
だが、今回はガードとしてマリアを迎えに来た訳ではない事を理由に、マークは彼女の荷物を受け取っていた。ルカリオのガードのため、この病院の周囲にもボディガード達が配置についている。だからこそ出来た行動だった。
「ありがとう」
「いえ」
微笑むマリアの笑顔が曇らねば良い。マークはそう願わずにはいられなかった。
◇
「来たか」
車の後部座席で書類を眺めていたルカリオは、自分のガードに連れられて車に歩み寄ってくるマリアを目に留めた。
そこでマークが彼女の荷物を持っている事に気付き、眉を寄せた。
確かにマークは彼女の護衛ではない。それでも、優秀なガードの一人であるマークが、準護衛対象であるとはいえ、手をフリーにしていない事が信じがたかった。
同時に、自分のガードのためにいたはずの人間が、幾人か配置距離を広げてマリアを護衛対象としている事に気付き、鼻を鳴らす。
果たして連中はどういうつもりなのか。無論、ルカリオの周辺は、十分な人数のガードで囲まれている。それでも、マリアを守るために彼らが自主的に動いている事が不愉快だった。
雇い主の意向を無視した事について、ペナルティを考える必要がある。そう思いながら、ルカリオは車に乗り込んできたマリアを見た。
小さな赤ん坊を抱き、ルカリオの隣に座る。
なにやら声を上げながら子供が手足をバタバタさせるのを見て、ルカリオはもう一度鼻を鳴らす。
「お待たせした……かしら」
「いや。大丈夫だ。顔色は良くなったようだね」
「え? ええ」
「この子も大丈夫なのか? さっきからもぞもぞ動いてるが」
「……初めて病院を出たから、少し興奮してるみたい。あの、抱いてみる?」
言ってマリアは子供をルカリオに差し出す素振りを見せた。
ルカリオは、この子が産まれてから一度も触れていなかった。無論、抱き上げた事もない。父親というものは、子供を未知の存在だと考え、どこかで恐れていると聞いていたから、マリアは歩み寄るようにルカリオに微笑んでみせた。
約一年ほど自分の体内で同居しているだけに、母親は下手をすれば子供を自分の一部と誤認してしまうほど同一視するそうだが、父親は違う。彼らにとって、子供とは異分子なのだそうだ。
だから、産湯につかわせる時などに父親がそれを行うことで、心理的な距離を埋めていくのだろう。ましてやルカリオはビジネスの世界で成功した男性だが、だからこそこんな赤ん坊など触れた事もないだろう。
少しでも慣れて欲しくて、マリアはルカリオの腕に子供を渡す。
「お、おい!」
「首がまだ据わってないから、きちんと支えてあげて。……そう。そうやって抱くの」
ルカリオは慌てながら、それでも子供を放り投げるような事はしなかった。
ただ身動きできなくなったらしく、マリアが指示した姿勢のままで固まっていた。
「もう。そんな怯えなくても大丈夫よ?」
「ち、違う! 子供の世話は君の仕事だろう!」
「……あなたの子供なの。だから、抱いてあげて」
マリアの囁きはルカリオの耳には届かなかった。狼狽えて早くマリアに返そうとするルカリオを見て、マリアは思わず笑ってしまう。
「~っマリア!」
怒鳴りつけるルカリオの大声に、腕の中の子供が泣き出す。それを見てさらに狼狽えたルカリオの顔を一通り眺めて満足したマリアは、ようやく彼の腕から子供を受け取った。
「はいはい、大丈夫よ。パパはちょっと声が大きいだけだからね」
そう言って子供をあやすマリアの横顔は慈愛に満ちていた。その名の通り、聖母のような美しさと優しさが満ちあふれていた。
その横顔にハッとしながら、それでもルカリオは鋼の意志で視線を窓の外へと向ける。
彼女のそんな姿も、どうせ欺瞞なのだと心の中で言い聞かせながら。