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産後の体調を整えるために入院を余儀なくされたマリアの事をアンジェロに伝えるべく、ルカリオはアンジェロの屋敷を訪れていた。毎日のように訪れていた彼女が姿を見せないことで、アンジェロが動揺してはいけないと考えたからである。
「ルカリオか。珍しいな」
ベッドの上に起き上がっていたアンジェロは、部屋に通されたルカリオの姿を見て眉を上げた。そして皮肉げな響きを唇に乗せる。事実、ルカリオがこの屋敷を訪れたのは数ヶ月前のことだ。
「どうしたのだ、こんな時間から」
「お爺さまに嬉しい報告がありまして」
笑みを浮かべながら、ベッド傍にある椅子に腰をかける。
「マリアはどうしたのだね。いつもなら、もう来ている頃合いなのだが」
「彼女はしばらくはこちらに顔を出せません」
ピクリと祖父の顔が強ばるのを見て、ルカリオは安心させるように微笑んだ。
「現在、彼女は入院しています。その……昨晩、子供を産んだのです」
「入院だと? どこか身体を悪く―――なに?」
「出産したばかりなのです。安全をとるために、入院しています」
「出産だと? 子供が生まれたのか? マリアは無事なのか?」
「はい。母子共に無事に」
頷いたルカリオを、アンジェロは呆然と見つめていた。
「マリアは検査もあるので、しばらくは入院する事になると思います。彼女が退院したら、改めて子供と一緒に挨拶に来ますよ」
「そう……か」
クッションに身体を預けながら、アンジェロがほうっと息を吐いた。
「子供の性別は? どちらだったんだ?」
「男の子です。嬉しいですか?」
ルカリオの質問にアンジェロは唇の端を緩めた。
「ああ、嬉しいとも。だがそれは男の子だからではない。あの子が、マリアが無事に子供を産めたからだ」
そして、じっとルカリオの顔を見つめた。その表情から、内心を推し量ろうというように。
「ルカリオ。お前はこれで父親となったわけだ」
「……そうですね」
「マリアはいい娘だ。慎ましく、分をわきまえ、賢い。そして何より、言うべき事を言える強さがある」
「お爺さま?」
「……あのような妻がいるのならば、私も安心できる。なあ、ルカリオ。子供の名前は決めたのか?」
穏やかに笑うアンジェロの言葉に、首を振って答える。
「いいえ。まだです。お爺さまが名付け親になって下さると、マリアから聞いていますよ?」
「はは。マリアはそう言っていたが、お前はどうなのだ? 初めての子供だ。自分で名付けたかろう」
満たされたように笑う祖父。だがルカリオからすれば、生まれた子供は自分の血を引く存在などではないと知っていた。だから、その子に対して強い思い入れもない。それを祖父に知られるわけにもいかず、ただ微笑んで首を横に振って見せる。
「確かにそうですが……、すでにマリアが約束しているのでしょう? 私が名付ける権利は、次の子供の時に行使しますよ」
「ははは。もう二人目のことを考えているのか。お前も、どうやら子供を見て親としての自覚が出来たか?」
アンジェロの喜びは真実だった。だが、だからこそ彼は見誤った。
ルカリオが、その刹那ほの暗い笑みを浮かべたことに気付かなかった。
「そうですね。では僕はこれで失礼します。また後日」
「ああ。気をつけて帰れ」
一礼して部屋を出ると、執事のマルセルが深々と頭を下げていた。
「おめでとうございます、ルカリオ様。ご子息が無事にお生まれになったと伺いました」
「ああ、ありがとう。マリアが世話になっていたな。こちらこそ、礼を言うよ」
「いいえ。マリア様は素晴らしい奥様です。使用人にも公正に接されるお方です」
「――そう、だな」
こうしてマリアの高評価を聞く都度、なぜ皆は彼女の裏の顔に気付かないのか、と腹立たしい思いが浮かんだ。確かにマリアは散財もせず、今あるもので充足を覚える性質を持っている。そのように振る舞っている。
パーティーにいるような、相手の事など知らないにも関わらず媚びてくるような女達とも違い、ルカリオの言葉を理解しようと勤めていた。初めて出会った頃は、多国籍企業の経済活動についてはあまり詳しくなかったのが、付き合っている間に自力で学んだのだろう。最後にはルカリオと討論できるほどにまでなっていた。
だがそれすらも、全てはルカリオ達を欺くための、擬態なのだ。
彼女は清楚な顔をしておきながら、見知らぬ男に股を開く淫売だった。別の男との間に作った子供を、ルカリオとの間の子だと偽ってアジャーニの妻としての座を得ようとしたのだ。これが強欲の証拠でなくて、なんだというのか。
今も、金を遣う様子を見せなかったが、それとて演技でないと誰が保証できる。
「まったく」
だがそれでも。
子を産んだばかりの彼女は、美しかった。
クシャクシャな顔をした子供は、かわいらしかった。
「――バカな」
一瞬胸に湧いた感慨を放り投げ、ルカリオはアンジェロの屋敷を後にしたのだった。
◇
小さな赤ん坊を腕に抱き、母乳を与える。
たった3kgという重量が生きているという奇跡に、マリアは感謝していた。
不慣れな彼女を助けるように看護師が手を貸してくれる。それに感謝しながら、去っていった夫の背中を脳裏に思い描いていた。
「でも本当に、お父さんにそっくりね」
看護師の言葉に、マリアは物思いから顔を上げる。
「え?」
「早朝にね、ここに来ていたのよ。あの、あなたの旦那さんが」
看護師の言葉に、思わず呆然としてしまった。
来ていた? 彼が、ここに。
自分と会うよりも前に、この病院に。
「――あの、それからどうしたんですか」
「あなたを無理矢理起こそうとしていたから、部屋からたたき出したの。そしたらあなたの夫だなんて言うもんだから、一応新生児室の外から赤ちゃんを見せてあげたわ」
闊達に笑う看護師の言葉を聞きながら、マリアはほんの僅かに点る希望を自覚していた。
もしかしたらルカリオは、自分や子供の事を心配してくれていたのではないか?
開口一番に自分に怒ったのも、心配の反動だったのではないか。
それにこの子を見れば、いくらルカリオでも気付くはずだ。この子は、アジャーニの血筋を色濃く受け継いだ顔立ちをしている。
誰が見たって、この子はルカリオ・アジャーニの子供以外の何者でもない。
マリアは、ルカリオが自分の間違いに気づき、子供や自分への誤解を正してくれる事を願いながら、無心に乳房を吸う赤ん坊の頭を撫でるのだった。