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ルカリオは気むずかしい顔で屋敷の前に足を止めた。
それはこの辺りでも有数の高級住宅地に建っており、すでに百年以上の時間を経ているはずである。整えられた庭は早朝の明るい光に照らされ、瑞々しく輝いている。
「これはルカリオ様。お帰りなさいませ」
「ああ、久しぶりだな、マルセル。お爺さまは起きていらっしゃるか?」
「はい。今朝は随分と気分もよろしいとの事で」
玄関ホールへと足を踏み入れたルカリオを迎えた執事服の初老の男性――マルセルに頷く。
この屋敷はアジャーニ家の本家が代々継承してきた屋敷であり、現在の主はルカリオの祖父だった。両親を幼い頃に事故で亡くしたルカリオは、祖父に引き取られ彼に養育されたのである。
屋敷はいつだって大勢の使用人が行き交い、さらには夜昼ともなく客が途切れなかった。そんな中でルカリオは暮らし、いつしかビジネスについて学んでいったのだ。
それを祖父が意図していたのかは、知らない。だがそれでも、ルカリオにとって祖父は敬愛する唯一の肉親だった。なまじ財産を持つがゆえに、ハイエナじみた遠縁の『親戚』が隙あらばアジャーニ一族の富のおこぼれに預かろうとするのを見て来ただけに、ルカリオの身内意識は徹底されていたのである。
屋敷の奥、陽当たりの良い二階の一室が祖父、アンジェロ・アジャーニの居室だった。
「おはよう、お爺さま。お加減はどうですか?」
「ルカリオか。おはよう。この年になれば、どこかしら悪いところはあるさ」
白髪を丁寧に梳かしなでつけたアンジェロは、ガウンを肩にかけてベッドで起き上がっていた所だった。手にした新聞を手元に置いて、ルカリオへと顔を向ける。
その顔に刻まれた皺は、アンジェロが刻んできた人生そのものだとルカリオには思えていた。だからこそ、子供の頃から彼は祖父のその皺だらけの手や顔を、とても神聖なものだと思っていた。
「そう仰らずに。お爺さまには、まだまだ元気でいてもらわなくては」
「老骨をいつまでも酷使しようとするとは、孫ながらひどい奴だ」
そう言ってお互いに顔を見合わせて笑う。そんな二人の後ろに、マルセルがそっと立った。
「旦那様。お茶のご用意を」
「ああ、すまんな。ありがとう」
使用人がてきぱきと用意するのを横目に、ルカリオはそっと祖父の顔色を窺った。先ほどの軽口の応酬で少しは顔色が良くなったが、疲れている様子は消えていない。幼い頃にずっと見上げていた祖父は、こんなにも小さかっただろうかと思い、胸が痛くなった。
紅茶を一口含み、アンジェロは孫の横顔を見つめていた。
日課のように屋敷を訪ねるルカリオは、アンジェロにとっては可愛い孫だった。息子夫婦が事故で死んだ時、アンジェロは深く悲しんだ。それだけではない。大企業グループであるアジャーニ家の家長として、その席を譲るはずだった息子が突然いなくなったのだ。当然、グループ内では後継者が誰になるかで、早々と内紛の芽がほころび始めていた。
そんな中、一人残された幼いルカリオを、アンジェロは引き取ったのである。それ自体は、当然のこととして受け入れられた。アンジェロには息子が一人だけで、ルカリオはいわばアジャーニ家の直系の血を引く唯一の子供だったからである。
仕事にかまけ、あまり面倒をみることができなかったという自覚はある。だがそれでもルカリオは真っ直ぐに育った。その才気は幼少の頃から挫折を知らず、それゆえの傲慢さを持ってしまった事が、唯一の難点だろう。
だがアンジェロからすれば、アジャーニ家の男というものは、いずれもどこかしらに傲慢さを持ち合わせるものだという認識だった。
「ルカリオ。結婚はしないのか?」
「……またその話ですか?」
ここしばらくは、顔を合わせればその話題だとばかりに、ルカリオが顔を顰める。アンジェロは素知らぬ顔でそんな反応を受け流し、紅茶のカップを傾ける。
「結婚は良い物だぞ。私は妻に先立たれたが、それでも彼女と暮らした日々は宝物だ」
そこでアンジェロが浮かべる微笑みは、確かに満たされた者にしか浮かべられないものなのだろうと、ルカリオも認めるところだった。だがそれでも、ルカリオは敬愛する祖父の言葉に頷く気にはなれなかった。
「ひ孫の顔を見るまでは、生きていたいものだ。この屋敷を受け継ぐであろう次代のアジャーニを、私に見せてはくれないのか?」
「お爺さま。そうは言っても、結婚も子供も相手あってのことですよ」
「はっ。お前がその気になれば、明日にでも花嫁を教会に連れて行けるだろう。なあ、ルカリオ。この老骨の最後の願いを叶えてはくれんのか?」
わざとらしく哀れな声をあげる祖父に、ルカリオは嘆息を漏らす。
「お爺さま。アジャーニの嫁に相応しい女性が、一日二日で教会に連れて行けるはずがないでしょう」
「確かにな。相応しいお嬢さんには、それ相応の歓待がある。だがな、ルカリオ。私としては、なるべく早く安心したい。……特にお前が、結婚という契約から逃げ回っていると知っている身としてはな」
アンジェロの思慮深い目が自分をじっと見つめていることを感じながら、ルカリオはゆっくりと息を吸い込んだ。祖父の言葉は、ルカリオが女性との永続的な関係を維持しようとしない事を指しているのだろう。だが、取りようによってその言葉は、ルカリオが永遠に隠し通したいと願う秘密に触れかねないものだった。
祖父が知っているはずはない。この事実を知っているのは、ルカリオと、そしてもう二人だけのはずだ。一人は決してこれを明かすことはないだろう。もう一人は――恐らくは、そんな恐れはない。であれば、祖父の言葉は単なる自分の日頃の振る舞いに対する苦言であると考えるべきだ。
「相応しい女性がいれば、すぐにでもプロポーズをしますよ」
「相応しい女性ならば、これまでにもいくらでも居ただろうに」
「そうですか?」
じっと探るようにアンジェロはルカリオの顔を窺った。
この孫がなにかを隠している――なにかの理由があって結婚を拒絶していることは、アンジェロも気付いていた。だがそれが金銭に群がる女性に囲まれた末に生まれた単なる女性不信なのか、それともまったく別の理由なのか。それがアンジェロには分かりかねていたのである。
「……ルカリオ。相応しいかどうかなど、誰にも分からぬことなのだよ。確かなのは、お前が強く焦がれる女性であるかどうか、だ」
「肝に銘じましょう」
ルカリオの短い答えは、彼がまったくアンジェロの言葉を受け入れていないことを、如実に示していた。