#28
/28
早朝、ルカリオはボディガードからの連絡を受けた。
「病院? どういう事だ。何かあったのか」
しどろもどろで要領を得ない答えに苛立ちながら、ルカリオはマンションを出る。エントランスにいつもいるフロントマンが、驚いたような顔をしていたが気にも留めずに迎えに来た車に乗り込んだ。
「――なに? 何を言っている。産まれた? 何がだ」
運転手が怪訝そうにバックミラー越しに自分を見ているのにも気付き、車を発進させるように手で示す。運転手もいつもの事かと車を発進させる。
その最中、ようやくルカリオの耳にまともな情報が届いた。
「――マリアが出産しただと? どういう事だ! なぜ僕になんの連絡もなかった!」
怒鳴りつけた先で、ボディガードが言い訳を並べ立てる。曰く、人員が削減されたうえ、そもそも対象が夜間はまず出歩かない事から、監視を行っていなかった。昼の間はぴったりと着いているが、彼女がマンションの自室へと戻った事を確認した時点で、チームは解散しているのだ、と。それは数ヶ月前のレポートで、そういう体制を取っている事が報告済みだ、と。
「だが、出産だぞ。ええい、もう良い。病院の名前は。病室はどこだ」
病院の名前と病室を確認し、ルカリオは運転手へ行き先の変更を告げるのだった。
早朝の病院の受付に立ったルカリオは、マリアの居る病室を確認し、ズカズカと入り込んだ。
ベッドで眠っている女性の腹部がぺたりと潰れているのがシーツ越しでも見て取れる。だがその中身が見当たらない。
「……どういう事だ。子供はどこにいる。おい、マリア。子供はどこなんだ?」
眠っているマリアの肩を揺すりながら、ルカリオはその肩の細さと小ささに驚いていた。
彼女はこんなに小さかっただろうか。
真正面からマリアを見たのは、いつ以来だろう。
「ちょっと、あなた! 何をしているんです!」
背後からかけられた険しい声に振り返れば、看護師の女性がルカリオを睨み付けていた。
「その人は夜遅くに出産したばかりで消耗しきってるんです! それにまだ見舞いの時間じゃありません! 早く部屋を出なさい!」
抑えた声ながら叱責する声に、ルカリオは眉間に皺を寄せた。
「僕に命令するな」
「ここは病院です。あなたがどこの王様だろうと、医療スタッフの指示に従ってもらいます。例外はありません! 早く出て!」
舌打ちをして視線をベッドの上で眠るマリアへ落とす。
青ざめた顔色は、彼女の不調を示していた。
「こんなに顔色が悪い。出産はうまくいったのか? 適切な処置がされていないんじゃないのか?」
「あなたがここでギャーギャー言っているほうが彼女には害悪よ。もう一度だけ言うわよ。外へ出なさい。これで従わないならガードマンを呼びます」
看護師の睨み付ける視線にルカリオは肩をすくめ、病室を出たところで足を止めた。
「これで良いのか?」
「そうね。それであなたは? 彼女は昨晩一人で来て出産をした人らしいけれど」
「……彼女の夫だ。子供はどこに?」
「あなたが?」
目を見開いて驚いた顔をした看護師は、ふう、と息を吐いた。
「それを証明できる? あなたが新生児の誘拐犯ではないとは言い切れないわ」
その言葉にルカリオは口ごもる事しかできなかった。
夫婦の証明と言われても、役所の書類くらいしか存在しない。だがそれすらも、今出す訳にはいかない。
「……奥さんが目覚めるまで待つのね。子供は新生児室に居るわ。外から見るだけなら許可できるけど?」
「それで構わない」
渋い顔をしたまま、ルカリオは頷くのだった。
◇
その子供は、ルカリオに似た髪の色をしていた。とはいえ、まだしわくちゃで小さく、顔立ちも判然としない。
隣にいる赤ん坊と似たようにも見えるし、違うようにも見える。看護師が教えてくれた子供の前で、じっとルカリオはそれを見下ろしていた。
ガラス越しに見る事しかできない。新生児室の中へ入る事は許可されなかった。
ルカリオが子供を睨むように見つめているのを見て、看護師が首を傾げる。
「それじゃあ私は行きますけど。良いですね。許可が下りるまでは入れませんからね!」
「ああ。了解した」
短く答えたルカリオに、本当に分かっているのか、と思いながらも自分の仕事がめいっぱい詰まっている看護師は足早に立ち去る。
泣きわめく赤子の集団。その中の一人。マリアが産んだという男の子。マリアが余所の男とベッドを共にして作った子供。
「……ふん。とはいえ、男ならば祖父も喜ぶか」
そろそろマリアも目を覚ます頃合いか、とルカリオは新生児室を立ち去る。
彼女がなぜ一人で出産などしたのか。それを問い詰める必要があった。
もしもここで流産や死産なんて事になれば、祖父にとどめを刺しかねない。そういった事を考えられないならば、釘をさしておく必要がある。ルカリオはそう考え、マリアの病室のドアを開けた。
「……あの、子供にはいつ会え……ルカリオ?」
看護師が入ってきたと思ったのだろう。ベッドの上でマリアが驚いた顔をしていた。
「起きていたのか」
「あ、あの……ルカリオ。どうして」
「ボディガードから連絡がきた。君が昨晩出産した、と」
強ばった顔のまま、マリアが俯く。長い髪がさらりと肩口から滑り落ちる。
「マリア。なぜ一人で病院に向かった。君は分かっているのか? もしも子供が流れたり、死産だったりすれば、アンジェロにどれほどのショックを与えるのか――」
「電話したわ! 何度も! ずっと! でもあなたは、出てもくれなかったじゃない!」
言い含めようと言葉を重ねたルカリオに、不意にマリアが叫び返していた。
涙を目に浮かべながら、マリアはキッと睨み返してくる。その視線の強さに、ルカリオは思わず息を呑んだ。
「陣痛が始まって、すぐに病院に向かうためにフロントに電話したわ。タクシーを呼ぶようにお願いした。それからはずっと、あなたの携帯電話に電話をかけ続けていた。そうよ。マンションからこの病院に入るまで、ずっと! 何度も!」
興奮したマリアの頬は真っ赤になっていた。充血した目がルカリオを真っ直ぐに睨み、引き結んだ唇が白くなっている。
「……でもあなたは、一度として出なかった。あの夜、私からの電話があった事は、いくらあなたでも気付いたはずなのに。私の電話に、返信もくれなかった」
確かに着信に気付きはしたが、何もしなかった。サンドラと抱き合う事を、快楽を優先した。
それを思いだし、ルカリオは怯んでいた。マリアの予想以上の反発に驚いてもいた。
「なのにあなたは私をなじるの? 顔を合わせるなり私が悪いと糾弾するの? ふざけないで! 見ず知らずのタクシーの運転手のほうが私のことを気遣ってくれたわよ!」
「……君はまだ出産したばかりで気が立っているんだ。また後で来る」
踵を返したルカリオに、マリアは頭の中が真っ赤に染まった気がした。
「自分に都合が悪いと、そうやって逃げるの!?」
「君は冷静じゃない。また後で来る。看護師に鎮静剤を処方してもらうよう、頼んでおく」
「ルカリオ!」
後ろ手で扉を閉めながら、ルカリオは長い息を吐いていた。
あれはまるで、産まれたばかりの子猫を守る雌猫だ。そう考え、ルカリオは肩をすくめて歩き出す。仕事を始める前に面倒事が起きたが、とりあえずは問題もなさそうだ。そう考えながら、車を停めさせた駐車場への道を歩くのだった。