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「……また載ってる」
手にした雑誌をゴミ箱に放り込みながら、マリアはそう呟いていた。
アンジェロの屋敷を訪ねた帰り道、本屋の店先に置いてあったゴシップ誌には、またルカリオとサンドラの写真が載っていた。その誌面には、ルカリオとサンドラの結婚が秒読みの段階にある、と纏められている。それを読んでマリアは思わず笑い出しそうになった。
彼の妻は自分だ。法的にも、そうなっている。現状で彼がサンドラと結婚することはできない。
「――なら、どうするのか」
ルカリオは最近、毎朝このマンションから出勤しているらしい。エントランスにいる守衛から、そんな話しを聞いた。「最近はご主人もお帰りになられているのですね」と。
そう言われた時、マリアは一瞬戸惑い、そして取り繕うように微笑んだ。
ルカリオはマリアのいる部屋に帰ってきたのは、もうどれほど前の事だろう。彼の姿を、もう一ヶ月は見ていない。そしてそれは、ルカリオがこのマンションのもう一人の住人の部屋で寝起きしているだろうという推測を産んだ。
臨月も近づいた頃、マリアにとってはもう外部の情報はノイズに等しかった。ルカリオはまったく家に寄りつかず、彼女にとってはアンジェロや屋敷の者達との時間だけが慰めだった。
サンドラとは、あれからは一度も顔を合わせていない。ルカリオから何かを言われたのか。それとも、牽制する必要もなくなったのか。
だが、子供さえ生まれれば。この子が、ルカリオの子供だと証明さえできれば。
そうすれば――彼は気付いてくれるはずだ。
マリアはそう信じる事しかできなかった。
部屋はきれいに掃除されている。そこを使う人間が一人しかいないのだから、汚れる場所などたかが知れていた。
「……く」
最近は腹部の張りを感じることが多くなっている。医師からは陣痛の始まり方も聞かされていた。だが、こうして誰もいない部屋で独りでいると、不安が湧き上がってくる。
出産の時くらい、せめてルカリオに傍にいて欲しい。それは、分不相応な願いだろうか。マリアはそう思う事を止められないでいた。
ソファに腰掛けたまま、壁にかけられた時計へ目を向ける。
夫は、まだ仕事だろうか。顔を合わす事すらないのでは、話す事もできない。
携帯電話を取りだし、メールを打つ。
何時頃に帰るのか。ただそれだけの短いメール。けれど返信がきた事はない。
本当なら「今日は帰ってくるのか?」と打ちたい。だがそう打ってしまえば、ルカリオの返信次第で彼がこの部屋を帰るべき場所だと思っていない事が明らかになってしまう。
それが恐ろしくて、マリアは帰宅時間を問うメールを打つ事が精一杯だった。そして、そのメールですら、ルカリオには届いていないのかも知れない。
彼がこのメールをspamメール扱いしていないなど、誰も保証はしてくれないのだから。
今夜も帰ってきそうにはない。そう思ったマリアは、食事を作る気力も沸かず、適当にフルーツをつまむだけで自室へと戻る事にしたのだった。
◇
それが到来したのは、深夜の事だった。
不意に腹部から鋭い痛みを覚え、マリアは目を覚ました。何かの病気だろうかと一瞬考え、それから陣痛の可能性を考える。
「……くっ」
痛みは少しずつ強くなっている。脂汗が額に浮かぶのを感じて、マリアはパジャマの上にコートを羽織った。
着替えるだけの余裕はない。このまま病院に向かったほうが安全だろう。
支えてくれる人はいない。今も部屋の空気は冷たいままだ。夫へ連絡する余力もなさそうだった。だが――。
タクシーを呼ぶようにフロントに連絡を入れ、マリアはエントランスへと向かう。
手にした携帯電話でルカリオの番号を選ぶ。かかって欲しい、と願うように耳に当てると、ずくん、と痛みが再び強まった。
漏れる呻き声をそのままに、荒い息を吐く。
普段はそうと感じないエレベーターの遅さが、苛立たしい。
呼び出し音は鳴り続ける。だが、相手が出る様子はない。
「ルカ……お願い……」
縋りたかった。支えて欲しかった。今、この瞬間、命を産むという経験したことのない未来が怖かった。
だが、電話は繋がらないまま、エレベーターが停止した。
エントランスへ出ると、フロントマンが慌てた様子でマリアの身体を支える。
「大丈夫ですか? 車が着くまで、もう少し時間がかかります。こちらへ」
そう言って待ち合い用のソファへと案内される間も、マリアは携帯電話を耳に当てたままだった。無情に続くコール音を前に、マリアは諦めた。車が着いたことを告げるフロントマンに礼を言い、タクシーへと乗り込む。
かかりつけの病院の名を告げると、マリアはぐったりとシートにもたれ掛かる。運転手も妊婦だと見てとるや、車を発進させた。
「大丈夫かい、お嬢さん」
「……ええ」
「俺のかみさんの時も、大変だったよ。あんたもしっかり気を持ちな」
「ありがとう」
苦い笑みを浮かべ、マリアは辿り着いた病院の入り口へと歩いて行く。それを支えてくれる運転手に、マリアは心底から感謝した。
先に連絡を入れておいたおかげか、看護師がマリアへと駆け寄ってくる。
看護師がマリアを支え、状況を確認する。それになんとか答えながら、病院の中へと入った。
「本当にありがとう!」
「良い子を産んでくれよ。頑張れ!」
運転手の言葉に頷き返し、マリアは診察室へと通されるのだった。
◇
ルカリオがその着信に気付いたのは、サンドラのベッドの上だった。弛緩した身体をベッドに沈ませているサンドラの横に寝転びながら、ふと携帯電話のランプが明滅している事に気付いたのだ。
「……なんだ?」
見てみれば、それはマリアからの着信だった。何度も繰り返しかかっている事を示す履歴を確認して、フンと鼻を鳴らす。
一体なんのつもりなのか。何時に帰るのか、というメールが届いていた事を思いだし、ルカリオは身体を起こした。
「ダーリン……? どうしたの?」
まどろんでいたサンドラが、その手を伸ばしてくる。首筋を撫でていく手をそのままにして、ルカリオは携帯の着信をもう一度確認した。
マリアから電話がかかってくる事は、これまで一度として無かった。何かあったのだろうか。
そこまで考え、それ以上の考えを放棄した。彼女の行動など、斟酌する必要などないのだ。彼女はただ子を生み、アンジェロを安心させるためだけの道具に過ぎないのだから。
これまで付けていたボディガードも、最低限の人数となっている。とはいえ、何かあればボディガードから連絡が来るだろう。
「……なんでもないさ」
だからそう答え、ベッドの上で微笑むサンドラに覆い被さるのだった。
その夜、マリアは一人の男児を産んだ。たった一人で分娩台に乗り、大勢の医師や看護師、助産師の力を借りて、三千グラムの健康な男児を産んだのだった。