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マリアがアンジェロの屋敷を訪れたのは、いつもの時間より少し遅かった。執事やメイドたちが気遣う様子に、マリアは苦い笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。少し所用があったものだから。心配をかけてしまいましたね」
「いいえ、奥様。そのような事は」
「アンジェロは? 起きていらっしゃるかしら」
「はい」
頷いて、アンジェロの部屋へと歩くマリアの背を、マルセルは不安げに見送る。
マリアは、おそらくはなにも言わないだろう。何かの不安を抱えているのだろうに、彼女は決してそれをアンジェロや自分たちには告げないのだ。
それはマルセル達からすれば、水くさいと思えてしまう。だがマリアにも都合というものがある。そう理解してしまえるからこそ、マルセルは苦い顔をせざるを得なかった。
◇
その女性を見たのは、マリアがアンジェロの屋敷へと向かおうとする時間だった。
エントランスへと堂々と入ってきた女性は、まるでパーティーからの帰りのようなデザイナーズブランドのドレス姿でハイヒールを鳴らして歩いてくる。マンションのフロントに立っている警備員も、あまりに堂々とした姿に制止すべきかどうか悩んでいるようだった。
彼女がここに住んでいない事を、マリアは知っていた。もしもここに彼女が住んでいるというのならば、ルカリオの悪趣味さを疑ってしまうだろう。
そう。その女性はかつてルカリオがゴシップ誌に共に写っていた女性だった。
長いブロンドを揺らし、豊かな曲線をくねらせて歩く。ただそれだけで男性の視線を釘付けにするだけの力のある肢体。そして、それをどう見せれば良いかを知悉した者の動きだった。モデルよりも蠱惑的に。ストリッパーよりも清楚に。男のプライドを満足させ、女としての価値の一面を極端に突出させた姿。
「――あら、ミス・ウォートン。おはようございます」
女性は初めて気付いたとばかりに、笑顔を浮かべる。その笑顔を真正面から受けて、マリアはただ会釈を返した。その女性が、自分とルカリオが夫婦である事を知らないはずはない。そして知っていて、自分を『未婚の女性』と呼んだ事は、彼女がどういうつもりで現れたのかを示していた。
すなわち、敵対。
「ええ、おはようございます。失礼ですが、初対面と思いますけれど、どこかでお会いしたかしら」
だからマリアは、笑みを貼り付けて訊ね返す。そちらの存在など、眼中にも無いのだ、と。
「あら。そうでしたかしら。ごめんなさいね。友人からよくあなたの話を聞いていたものだから、もう知り合いになった気になっていたのね」
ブロンドの女性はクスリと笑い、そして真正面からマリアを見据えた。
「私はサンドラ。サンドラ・イルケと言います。よろしくお願いしますね、ミス・ウォートン」
「……ええ、初めまして。ですが私はミスでもなければ、ウォートンでもありません。私はミセス・アジャーニですわ。ミス・イルケ」
胃が引き攣りそうになりながら、マリアは眼前のサンドラを見据えて、そう告げた。
「あら。そうなの? ふふ。失礼したわね」
だがサンドラは動揺した様子もなく、マリアの言葉を受け流した。
そして、そのままマンションのエレベーターの前に立つ。
「あの?」
「――私、今日からここに住むの。まあ、あまり家には居ないと思うけれど?」
流し目でマリアを一瞥し、サンドラがエレベーターの中に消える。
それを見送り、マリアはジクジクと痛む胃を抑えるように、手をお腹へと添えた。
あれが、サンドラ・イルケ。結婚したにも関わらず、ルカリオがパートナーとしてパーティーに連れ歩く女性。
その女性が、今日から同じマンションに住むのだという。それが誰の指図なのか、マリアはすでに分かっていた。
「あの、ミセス・アジャーニ? どうかなさいましたか?」
警備員が気遣うように声をかけてくるのに、なんでもないと答え、マリアはエントランスを出る。朝の光に満ちた空を見上げながら、マリアは何も考えずに歩き出した。
◇
携帯電話にかかってきた番号を見て、サンドラはクローゼットの中を整理する手を止めた。ディスプレイに映った番号に、笑みを浮かべる。
「ハイ。どうかしたのかしら? ダーリン」
『一体どういうつもりだ、サンドラ』
不機嫌な声に、サンドラは思わず吹き出しそうになった。
朝まで同じベッドで眠りながら、勝手に自分がホテルを出て行ったのが、そんなに気にくわなかったのか。それとも、ここに自分が居を構える事を知ったからなのか。
「何のこと?」
『ふざけるな。なぜ君がそのマンションで――』
「あら。どうせあと半年もかからないのでしょう?」
『そういう問題じゃない。一体なんのつもりで』
「私もそろそろ、ちゃんとした扱いを受けたい。ただそれだけよ?」
サンドラの言葉に、相手が言葉を飲み込むのが分かった。
「オフィスやホテルでしか会えないなんて、不愉快だわ。あなたの帰る場所を用意するのが、私の役目なのではなくって?」
喉を鳴らして笑いながら答えるサンドラに、相手は明らかに動揺していた。
さすがのルカリオ・アジャーニも、名目上の妻と同じマンションに自分を住まわせるだなんて事は考えていなかったのだろう。そう思えば、彼の予想を超えられた事が愉快でならない。
『サンドラ。聞き分けろ。アンジェロに知られたら』
「あなたの大切なお爺さまは屋敷を出る事はできないのでしょう? なら、あなたのボディガードがわきまえていれば問題なんて起きないわよ」
『クソッ。会議の時間だ。あとでまた連絡する!』
一方的に切られた電話に肩をすくめて、サンドラはベッドに腰掛けた。
ルカリオ・アジャーニと出会ったのは、サンドラがまだモデルをしていた頃のことだ。もう5年以上前の事だろうか。アジャーニの総帥職を祖父から引き継いだ若き経営者として、彼は多くの女性から秋波を送られていた。そんな中、サンドラは彼と恋人となったのである。
若いルカリオは、サンドラに文字通り溺れていた。そうなるように仕向けた事もあるが、何よりもルカリオ自身が、若く美しく蠱惑的な女性であるサンドラを自分の物にしたがったからだ。
時間があれば、場所を選ばずにセックスに耽った。だがサンドラはトップモデルとしての生き方と社交生活を捨てる気には、到底なれなかった。ルカリオとのベッドの相性は抜群だ。彼の財力も、魅力的だ。だが、彼だけに縛られるのは嫌だった。
自分の美を前に傅く男達。ルカリオもまた、その内の一人に過ぎなかった。
だが、ルカリオはその他大勢となる事を拒否していた。
サンドラを自分一人の物とするべく、様々な工作をしていた。それすらも、サンドラの美を讃える一助であると理解していたからこそ、それを許容していたのだ。だが――。
「うふふ」
笑みが漏れる。あのマリアとかいう女性は、ショックを受けている事を隠そうとしていたが、隠しきれない衝撃が透けて見えていた。あの顔が絶望に染まるのを見てみたい気もするが、サンドラにとってはどうでも良いことだ。
無駄な恨みを買う必要はない。彼女の恨みを受ける相手は、ルカリオだけで十分だろう。
「――本当に、昔からバカな男」
サンドラは窓の下に見えるビル群を見下ろしながら、そう呟くのだった。