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「旦那様。マリア様がいらっしゃいました」
ノックして姿を見せたのは、アンジェロの屋敷の執事のマルセルである。
その後ろに、マリアが立っているのを見て、ルカリオは僅かに眉を寄せた。
「ああ。よく来たね、マリア」
アンジェロがにこやかに微笑んで彼女を迎え入れるのを、ルカリオは苦々しく思いながらも、表情には一切出さずに見守っていた。マリアはといえば、おずおずと室内に入ってくる。ルカリオの姿がここにある事が、よほど驚きだったのだろう。今も目を見開いてルカリオの姿を視線が追っていた。
「あ……ええ。こんにちは、アンジェロ。お加減はどうかしら」
「ああ。良くもなく悪くもなく、という所だな。今朝は珍しい客もいた事だし、少しは良くなったかな」
笑って答えるアンジェロに、マリアはホッとして歩み寄った。自然、ルカリオにも近づく事になる。彼の姿を目の端にとどめながら、マリアはそっとアンジェロの腕に触れた。
「良かった。この子に名前を付けて欲しいと思っているのですから、どうか身体を大事にして下さい」
「ほ。良いのかね? 名付けは親の特権だろう」
「……では、候補の一つに加えるということで、よろしいですか?」
クスと笑いあう二人を眺め、ルカリオはムカムカとした苛立ちを感じていた。
アンジェロと仲が良くなったとは報告を受けていたが、実際に二人が並んでいるのを見るのは初めてなのだ。そこで見た二人は、心底から親しげだった。敬愛する祖父がマリアの本性を見抜けない事への失望だろうと見当を付け、立ち上がった。
「お爺さま。では僕はこれで失礼しますね」
「――ああ。そうか。気をつけていけ」
「はい」
一礼し、マリアの肩に触れて立ち去ったルカリオの後ろ姿を、マリアはじっと見送ることしかできなかった。
その横顔に浮かんだ愛惜の情にアンジェロはため息が漏れてしまった。
あの孫がなにを考えているのかが分からない。少なくともマリアは妻として迎えるに、不足のない女性だ。気立てもよく教養もあり、何事にも前向きに取り組んでいる。見知らぬ土地に一人でいるというのに、彼女の周囲には笑いが絶えない。
この屋敷の中でも、当初こそルカリオが連れてきた素性の知れない女性を、アジャーニ総帥の妻とすることに懐疑的な視線があったのは確かだろう。だが、そんな状況を彼女は自分自身で覆したのだ。
今では屋敷の使用人達は、マリアの訪れるのを毎日楽しみにしている。
彼女は風のように、この屋敷に新しい空気を運んできてくれているのだ。
「マリア。大丈夫だよ」
それゆえにアンジェロは、彼女の心配をぬぐい去りたいと願うのだった。
◇
予想以上に祖父や、屋敷の人間に取り入っている。会社へと戻る車の中で、ルカリオはそう結論づけていた。
ルカリオがマリアに一言もなく屋敷を出ようとした事に対して、執事のマルセルが物言いたげな表情を浮かべていた事を思い出す。あの老人はルカリオにとっては、二人目の祖父のような存在だった。幼い頃に両親を亡くしたルカリオは、あの屋敷で育ったと言っても過言ではない。そしてマルセルは、そんな幼少期のルカリオにとっては、悪戯をしたといっては怒られる相手だった。だがその怒りには愛情が籠もっていたことを覚えている。決して理不尽な理由ではなく、マルセルの言葉には道理があった。
だからこそ、反抗期の頃にはマルセルに無性に反発した事もある。道理が通っていようと、それに抗いたくなるのが若者の一過性の流行病なのだろう。だが、道理をわきまえる歳になれば、あの当時のマルセルの言葉は全てがルカリオのためだったと理解できる。
だからこそ、ルカリオはマルセルまでもがマリアに籠絡されている事実が腹立たしかった。
しかしアンジェロに穏やかに人生の黄昏を送ってもらうためには、真実を告げる訳にはいかない。
その事実が、ルカリオには歯がゆい。本来ならば、あんな女を妻にするなど考えられなかったのに。さらに今の自分にはサンドラがいる。あの頃、焦がれて焦がれて、それでも手に入らなかった幻の花が。そんな自慢の花をアンジェロに堂々と紹介できない事も腹立たしい。
「くそっ」
自分が女性を妊娠させる能力がないという事実を、これまで受け入れてきたつもりだった。サンドラが去った日に、子孫を残すという行為から自身を切り離したのだ。
だが祖父はルカリオにひ孫を求めた。ルカリオの血を受け継ぐ命を求めたのだ。
死を間近にしている敬愛する祖父の願いを叶えられない事ほど、ルカリオにとって辛いことはなかった。真実を伝えて祖父を落胆させる事もできなかった。
だからこそ、自分を裏切ったマリアを妻に迎える、などという屈辱にも耐えることを覚悟したのだ。
だが、彼女にアジャーニの妻という未来を与えるつもりなど、ルカリオには毛頭ない。
だが現状ではマリアを妻として遇するしかないのだ。少なくともアンジェロや、屋敷の使用人達に真実を知られる訳にはいかない。
そこまで考えて、マリアがアンジェロ達に何か余計な事を言う可能性を失念していた事を、ルカリオは気づいた。
もしやアンジェロが気遣わしげな視線をマリアに向けていたのは、彼女が妙なことを祖父に言ったからなのではないか?
今夜は帰宅する必要があるか、とルカリオは深い息を吐きながら心の中で呟くのだった。
◇
今晩も帰ってこないのだろうか。
マリアはそう思いながら、パスタをゆでていた。一人での食事ならば、そうそう手の込んだ料理など作る気にはなれない。だからマリアのここ数日の食事は、手軽なパスタだった。
トマトソースと混ぜ合わせ、バジルを散らせる。
適当な作りだが、裕福とはいえない環境で学生時代を過ごしたマリアにとっては食べなれた味である。
使ってる材料の値段は、かつて使っていたそれとは比べ物にならない高級品であるが、どことなく食べ慣れた味はマリアを落ち着かせた。
アンジェロやマルセルが、自分とルカリオの間にある緊張感に気づいていることを、マリアはわかっていた。ただ、それをどうしたら良いのかが、マリアにはわからない。
アンジェロは、生まれてくるだろう命を楽しみにしている事を繰り返し口にした。ルカリオがまったく見せてくれない期待を、義理の祖父は繰り返しマリアへ伝えてくれる。だからこそ、マリアはルカリオの行動を伝えることができずにいた。
ぼうっとしながらフォークで皿をつついていると、ガタンという音が玄関から聞こえた。
「え……?」
「なんだ、美味そうなのを食べてるじゃないか。僕の分はないのかい?」
ダイニングの入り口に立ち、皮肉げな笑みを浮かべているセクシーな男。無造作に立っているだけなのに、なぜこうも目を引くのか。
「あ……お、お帰りなさい。あの、ごめんなさい。夕食、ぜんぜん用意をしていなくて」
「それがあるだろ? まだソースはあるみたいじゃないか」
「で、でも、あなたにこんなの……」
テーブルの上の皿を指さすルカリオに、マリアは混乱しながら眉を寄せる。冗談ではない。生まれた時から銀のスプーンを持っていた彼に、こんな安い味など食べさせられるものじゃない。そう考えて首を横に振ろうとするマリアに、ルカリオは口の端を持ち上げて答えた。
「マリア。僕だって公園のホットドッグを食べた事くらいはあるよ。それに比べれば、ちゃんとした料理じゃないか」
「……あの。いいの?」
「かまわないよ。着替えてくるから、その間に準備を頼むよ」
そう言ってダイニングから消えるルカリオにマリアは呆然としながらも、パスタをゆでるべく立ち上がるのだった。
「うん。悪くないね」
「あの……本当に簡単に作ったものだから」
簡素なパスタ料理を口に運ぶルカリオに、マリアは困った顔を浮かべていた。
彼ならば、ホール缶のトマトに塩をふった程度のトマトソースや、バジルをふっただけのパスタなど、食べた事もないだろう。
「いや。たまには良いよ。こういうのも」
「……そう、ね」
どんなに豪勢な料理も、毎日食べていれば飽きもするのだろう。だがマリアからすれば、これこそが彼女が日頃食べていたものだった。
コーヒーを淹れながら、パスタを口に運ぶルカリオの横顔を、マリアはちらりと眺める。昼間に見たときと変わらない姿は、気を抜いてるようにも見える。
旺盛な食欲を見せて皿を空にしたルカリオに、代わりにコーヒーを差し出しつつ、マリアは戸惑っていた。
マンションに寄りつかなかった彼が、一体どんなつもりなのか。それがわからなくて、不安がにじみでてくる。
「アンジェロは元気なようだね」
「え? ええ。最初にお会いした頃に比べたら、ずいぶんとお元気になられたようよ」
頷きつつ、マリアはルカリオの対面に座ることがためらわれ、シンクにもたれかかるようにして立つ。
「マルセル達とも、仲が良くなった?」
「ええ。それなりに長い付き合いになったし。お腹が大きい私を、気遣ってくれているわ」
頷いたマリアに、意味深に目を向けてくる。そんなルカリオに、マリアは居心地の悪さを感じた。
「――アンジェロの病状は、快復を望むことはできない。もう、祖父は日々を穏やかに過ごして、緩やかな死を迎える事しかできないんだ」
唇をかみしめるようにして、祖父の未来を告げるルカリオに、マリアは胸を締め付けられるような気がした。彼は確かに祖父を敬愛している。そして、その死を受け入れる事を、心のどこかで拒否しているのだ。
「ルカ……」
そっと彼の腕に触れる。その手から、視線が上がってきた。
「だからこそ。マリア。アンジェロに余計な事を言わないでもらいたい」
「――え?」
「君が産む子供は、僕の子供だとアンジェロは思っている。僕は彼にそう信じたままで、天国へ旅だって欲しいと願っている」
「……ルカリオ」
「そして、もしもアンジェロが真実を知るような事があれば、僕は君を決して許さない」
険しい視線が自分を睨んでいる事に、マリアは呆然となってしまった。
ルカリオに触れていた手を離し、一歩下がる。
目の前に座っている男が、途轍もない化け物に思え、マリアは震える身体を自分で抱きしめながら口を開いた。
「――私だって、アンジェロには穏やかに過ごして欲しいと願っているわ。けれど、真実ってなに? この子はあなたの子供で、アンジェロのひ孫よ」
「まだ言うのか」
「何度だって繰り返すわよ。この子はあなたの子供で、私は浮気なんてしていない。むしろ、あなたこそ私に何か言うことがあるんじゃなくて?」
キッとにらみ返したマリアに不快げに眉を上げ、ルカリオは鼻で笑う。
そこには、蔑みの響きがあった。
「君がなんと言おうと、真実は僕が知っている。――それに、僕の行動については、君に何かを言う権利などはない。君にはクレジットカードを渡しているだろう。それで好きに買い物をすればいい。どんな服でも宝石でも、好きに買えば良い。アジャーニの妻という立場にいる限りは、それくらいは許容してあげるよ」
そう言い捨ててルカリオは立ち上がると、ダイニングを出て行く。
手つかずだったコーヒーが湯気を立てているのを見ながら、マリアは俯いていた。
なにを言っても、何度繰り返しても、ルカリオはマリアの言葉を信じない。なぜ信じてくれないのか。彼が口にした証拠など、マリアの浮気のなんの証拠にもならないというのに。
「――この子が産まれてきたら、DNA鑑定をすれば良いわ。そうすれば、あなたも信じられるでしょう!?」
「虚勢を張るのはやめておけ。そんな事をして、真実が露見すれば困るのは君のほうだろう?」
「なに一つ困ることなんて無いわ!」
「感情的になるなよ。あとで後悔するのは君だ」
そう言い捨てて、ルカリオは玄関へと向かって歩き出した。
「――ルカリオ! どこへ行くの!?」
「仕事だ」
そう言って振り返りもせずに家を出て行くルカリオの背を、マリアは呆然と見送ることしかできない。
あの女性の元へ行くのだろうか。ゴシップ誌に載っていた美しい女性。その姿を思い浮かべながら、マリアはすとんとその場に膝をつくのだった。
仙台に出張中に被災した友人と連絡がつきました。無事とのことで、一安心しました。
亡くなった方にお悔やみを申し上げつつ、自分にできる事をしていこうと思います。