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自室に飛び込んだマリアがしたことは、まずドアの鍵をかける事だった。
そしてベッドに座り込み、ルカリオの言葉を思い浮かべる。
彼は、探偵に自分の周囲を探らせていたらしい。そしてその探偵は、ルカリオに『マリアがアントニオの愛人である』という情報を伝えたのだという。
一体誰がそんな事を言ったのか。古くからいる社員は、アントニオがそんな公私混同をするような人物ではない事を知っている。そしてマリアが、そんな行動を認めるはずが無い、という事も。マリアのことを知らない人間? そしてアントニオの事もよく知らない人間なのだろう。そうでなくては、あんな悪意のある噂を口にできるはずがない。
そんな条件に当てはまるとしたら――――。
「……レイチェル?」
彼女はアントニオ狙いだったという。そんな人間が、他人にアントニオと自分以外の女性についての憶測を口にするだろうか。だが現時点で、もっともその可能性が高いのは、恐らくは彼女。
――いや。そんな事を考えたところで、意味はない。
「ルカリオは、なぜ私が浮気したと、ああも確信を持っているのかしら……」
そう。どんな証言があろうと、結局のところルカリオが持っている確信の理由が見えなければ、どんなに言葉を尽くしても彼は認めないだろう。マリアの以前の交友関係を全て洗ったのだとしても、きっとルカリオは「それでも」認めない。
そんな予感がした。
「……どんな理由があるの……」
お腹を抱きしめてベッドに横になる。部屋の外で物音はしないが、それでもマリアは部屋の外に出る気になれなかった。
◇
翌朝、恐る恐る部屋を出たマリアは、ダイニングに残された手つかずの料理を見てため息を吐いた。
マンションの中にルカリオの姿は無かった。夜中起きていたマリアの耳に何も聞こえなかったところをみると、彼は自分が部屋に閉じこもった後に出かけたのだろう。
すでに乾ききってしまったり、悪くなっていそうな品を捨てながら、マリアはぼんやりとしていた。どこか現実感が無い。
ルカリオとの結婚は、始まりから現実感のない物だった。それを少しでも良いものにしようとマリアは家の中を整えることに気を遣っていたのだ。けれどルカリオは、そんな家の中には興味などないようだった。毎日作った料理も、結局は自分だけが食べていたようなものだ。
お腹の中の子供を、ルカリオは真実求めていない。
そう理解するのが怖くて、マリアは必死に目をそらしてきた。アンジェロが楽しみにしてくれるのを支えに、日々を過ごしてきた。
けれど、もう無理なのだろうか。
何も言わずにどこかへ出かけてしまったルカリオ。彼の言う証拠はいずれも噂の域を出ないものだ。写真の一枚も無いというのに、自分とアントニオの関係を疑うなんて、ルカリオらしくない。
そう。彼らしくないのだ。所詮は噂。その程度の情報を彼が鵜呑みにするはずがない。だからこそ証拠を出せと繰り返したマリアに、彼はなんと言った?
証言がある。
ただそれだけを繰り返した。この世でもっとも信頼ならないと知っているだろうゴシップを信じ込んでいる。ではなぜ? ルカリオの目を曇らせているのは、一体なんだというのだろう。
もはや習慣となった部屋の掃除しながら、マリアはぼうっと考え込む。
何気なくつけたテレビでは、ゴシップニュースが流れていた。
そこで見た映像に、マリアは立ち尽くす。
『アジャーニ総帥と元公妃が密会』
パパラッチが撮ったと思しき映像には、ルカリオと彼を迎える女性の姿がしっかりと写っていた。
女性は某公国の公王が迎えた何番目かの妻で、現在は未亡人なのだとキャスターは告げている。そしてルカリオのプロフィールもつらつらと語られた。その中に、彼の結婚は一度も触れられていない。
『あのアジャーニの総帥ですからね。もしも結婚という事になれば、これは公妃となった時と同じかそれ以上の幸運ですよ』
したり顔で告げるコメンテーターの言葉を聞きながら、マリアはその場にへたり込んだ。
あの映像が撮られたのは、昨夜の事だという。恐らくはマリアが部屋に閉じこもった後、彼は出かけたのだろう。あの女性の元へ!
「――あなたは、私をどう思っているの」
自分は法的にルカリオ・アジャーニの妻だ。だが彼は自分をそうは扱わない。それどころか、あんなにも堂々と他の女性と逢っている。結婚したという事実すら、公になってはいなかった。別に公にして欲しいわけではなかった。ただ、夫としての貞節を守ってほしかった。自分の不貞とやらを責めるくせに、それは自分には適用されないのかと怒りすら湧き上がる。
「……っ」
ぎゅっと自分のお腹を抱きしめる。今、ここにある命だけがマリアにとって、唯一の絆だった。ルカリオ自身が認めていなくても、マリアは分かっている。ここにいるのは、ルカリオ・アジャーニとマリア・ウォートンの血を引く子供だ。
これは夢でも幻でもない。現実だ。
ルカリオ・アジャーニは、ただアンジェロに子供を見せるためだけに、自分と結婚した。
そういう事なのだろう。
だが、どうしてそんな真似をしたのだろうか、という疑問が湧き上がる。子供が欲しいのなら、作れば良いだけだ。確かに子供を確実に作るなんて難しいだろうが、ルカリオが釣り合いのとれる女性と結婚すれば、いずれ子供はできていただろう。
どうして自分なのだ。しかも自分の子供ではないと思い込んでいるくせに、脅迫までして結婚を了承させたのだ。
行動に一貫性が感じられない。理由が分からない。ルカリオの望みが、分からない。
だが何よりも。
「産まれた後に、あの人はどうするつもりなの……?」
この子供が生まれ、アンジェロに見せることができた後、ルカリオは一体どうするつもりなのだろうか。
◇
騒がしいパパラッチを振り切るように運転手に指示しながら、ルカリオは車の中で苛立っていた。
昨夜、サンドラに呼び出されて訪れたホテルで、彼女の部屋へ入る所を写真に撮られていた事に気付かなかったのは落ち度だった。目の前で蠱惑的に微笑むサンドラしか見えなくなっていたのだ。自分の欲望を刺激する彼女に導かれるように室内へ誘われ、周囲を警戒する事をすっかり失念していた。
ニュースに流されてしまった事は失敗だった。もしこれをアンジェロが見れば、せっかく安定している容態が急変しかねない。
「――早く沈静化させろ。別のスキャンダルのネタをくれてやれ」
電話で秘書に手早く指示を済ませ、ルカリオは不機嫌なままで書類を手に取る。
昨夜のサンドラの身体を味わって得た充足感は、最早無い。残っているのは、このバカ騒ぎをいかに終わらせるかだ。
「……先にお爺さまに説明しておいた方がよさそうだな」
そう呟くと、運転手に行き先を変更するように告げる。
もしマリアが来ていたとしても、知ったことではない。たとえ彼女が何を言おうと、ルカリオの言葉が優先されるのは、当然のことだった。
「――ルカリオか」
屋敷を訪れたルカリオを迎えた祖父は、不機嫌な顔をしていた。
室内にマリアの姿がないことを確認して、ルカリオは微笑んで見せる。
「ご機嫌いかがですか、お爺さま」
「あまり良くは無いな」
眉間の皺が深く刻まれているのを見て取り、ルカリオは苦笑いを浮かべる。
「どうなさったのです? どこか具合がよろしくないのですか?」
「儂の具合はいつも通りだよ。だが、滅多に姿を見せなかった孫が現れたと思ったら、不愉快なゴシップ付きというのは、どういう事か説明してもらいたいものだな」
「ゴシップはゴシップですよ。根も葉もない噂です」
「あの写真はどういう事だ?」
「ああ、やはりご覧になったのですね?」
ルカリオはベッドの傍らに置いてあった椅子に腰を下ろし、祖父の節くれ立った手を握る。水気の無いカサカサの肌は、祖父の身体の状態を確かに感じさせた。
「彼女は友人です。相談があるというので訪ねたのですが、そこを撮られたようで」
「――新婚の夫が妻を置いて、余所の女に会いに行くのは感心できんな」
「そうですね。ですが彼女も納得してくれてましたよ」
後でマリアには言い含めておく必要があるが、ルカリオはそう言って祖父の心配をなだめる事にした。じっと自分を見る祖父のブラウンの瞳に、どこか居心地が悪くなるのを感じながら、表情を崩さないように気を張る。
「……彼女はいい娘だ。ルカリオ。お前は彼女をきちんと守らねばならない。アジャーニの男として」
祖父の言葉に、少しだけ苛立ちが湧き上がる。
いい娘? なるほど。マリアは祖父の前ではきっちり猫を被っているらしい。
彼女の本性をここで暴露したい衝動が湧き上がるが、彼女が産む『ルカリオの子供』をアンジェロが見て安心してくれるまで、それをする訳にはいかなかった。
「……大丈夫ですよ。今も彼女にはボディガードが付いてますからね」
監視を兼ねたものだが、それでも外部からの脅威は排除できているだろう。
そう考えて笑うルカリオを、アンジェロは苦々しい表情で見つめていた。